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3 臨死体験

 死にたがりのやつらが臨死体験を試し始めた。「すべる」と言う。塾の三階の踊り場が死に場所だ。

 やり方はこうだ。大きく息を吸って止める。ハンマーみたいにかまえたグーで、執行人に、ふくらんだ胸をどん、どん、どんと、思いきり叩いてもらう。

うまくすべれるやつと、すべりきれないで咳き込むやつ。うまくすべると、表情も変えず、直立不動のまま前に倒れるから、誰かそれを受け止める役がいる。

皆でそっと「亡骸」を横たえる。このとき、ご丁寧にも「死体」の両手を胸の上で組ませることになっている。

 もうひとりが時間をはかる。

「なんで一分なんだ?」

「酸欠で脳障害でも起こしたらやばいからな」

 川上は目の下に隈ができ、別人のような顔になっている。

 脳障害って、

「生き返らないかもしれないじゃないか。よせ、よせ」

 一分間のプチ臨死体験。一分間の半幽霊。一分間でどこまで行った? 白い光か? お花畑か? で、川の向こうから、ずっと昔死んだじいさんばあさんが手を振って、って、いったいなにが面白いんだよ。

 僕の心配をよそに、一進塾は臨死体験でもちきりになった。

 僕は身内に死人を見たことがない。父さんの両親は田舎で長生きしているし、母さんの父親は僕が生まれるずっと前に死んでいたから、僕は顔も知らない。僕の双子の片割れは、生まれて数日で死んでしまった。

 生まれる前から双子の名前は決まっていて、僕は俊一、死んだ弟は秀二。死んだ子の年を数えるというそうだけど、母さんには、僕の後にもうひとりの僕がいつも見えているらしく、ときどきぼんやりしていると、母さんは、シュンちゃんと僕を呼んだつもりでシュウちゃんになっていることがあった。

 悪阻と夏負けで、母さんは仕事を続けて休んでいる。ほおがこけて、とても妊産婦のようには見えない。血圧の高いお祖母ちゃんのほうが心配して、家族の世話から母さんの世話までかかりきりだ。 

 川上にしろ母さんにしろ、なんだ、僕の周りはゾンビみたいなのばっかりじゃないか。

「今度こそ、ほんとうに死ぬぞ。懲りないやつ」

 役は持ち回りで、前回執行人の役をやった川上が、今日は殺される番だった。

臨死グループを囲んで、取り巻きができている。

 おバカな川上は、緊張をあいまいな笑顔で隠しながら、両手でピースサインをつくってサービスしている。

「だからお前は長生き……チッ」

 僕は言いかけてやめた。

 三階の踊り場は照明もなく薄暗い。監視カメラがないのはこことトイレだけだった。

 富岡が小ぶりの握りこぶしを構えた。川上が大げさに深呼吸を数回繰り返す。派手な黄色いTシャツの胸が上下する。

「行くぞ」

 こぶしが上がる。それに合わせ、僕らも息を吸って、いっせいに止めた。

その時だった。廊下のスピーカーから僕の名前が呼ばれたのだ。

富岡の振り上げたこぶしが宙で止まった。僕らはそろって明るい四階の方を見上げた。

「おい」

 江田の細い姿が階段の上に現れ、僕を大きく手招きする。皆の視線が僕の上に集まった。

 一階の事務室で連絡を受けると、僕はそのままいそいで帰り支度をし、ひとりで塾の玄関を出た。駐輪場で自転車にとび乗る。

 いつもなら、川上とつるんでのらくら帰る夜道を、交通の少ないのを幸い、車道の真ん中をとばして帰る。

 橋が前方に見えてきた。なんとなくその辺が霞んでいるのは、川面から霧が立ち昇っているせいだろうか。

 橋の手前、左側に、ぽつんと街灯がある。黄色い明りの輪の中に細かい羽虫が群がり、埃の微粒子のように白く渦巻いている。その下に、あの自動販売機が裾に霧をまとって浮かびあがる。しめ縄のように自動販売機の胴体に巻かれているのは白っぽい紐で、故障中とへたくそな字で書かれた厚紙の札が下がっていた。

 近づくにつれ、霧が冷気を帯びているのがわかる。かび臭い大気がほおをなでた。

 暗闇と霧に隠れた販売機の受け口に、かがみこんでいる人影がある。ガードレールの陰になってよく見えない。僕は自転車の速度をおとし、通りしな、首をそちらにねじって様子をうかがった。

 見覚えのある短く刈った頭が街灯のぼんやりとした明りを反射して白い。川上か? そんなわけない。川上の自転車は駐輪場にあった。塾を出がけに見ている。川上なら今ごろ塾の三階の踊り場で、皆に囲まれて……。そこまで考えてドキリとした。

 黄色いTシャツの背。かがんだまま、ゆっくりとこちらに振り向けた顔が、光線の具合か、黒々と影になっている。近づいても、その影っている顔はみえない。まるでそこに深い穴でもあいているようだ。

 僕は夢中で自転車のスピードをあげると、霧を裂いて一直線に橋を渡った。



「やっぱり虫の知らせってあるのねえ」

 血のつながりがあるわけでもないのに、叔母さんの声はお祖母ちゃんによく似ている。

 叔母さんがお祖母ちゃんの声を最後に聞いた人で、今日の昼過ぎ、長話をして電話を切った直後、お祖母ちゃんは倒れたのだった。

「降圧剤を嫌がってねえ。飲むと鼻が詰まるって言って」

 母さんが白い縫い物から糸を引き、大きなおなかをさすりながら、しんどそうに溜息をついた。

「それにしても、あっけないわねえ。あんなに元気だったのに」

 死者の枕もとには線香の煙がまっすぐに上がっている。それを囲み、親戚の女ばかりで経帷子を縫う。

 縫い方を教えているばあさんは、亡くなったお祖母ちゃんより、ずっとりっぱな婆さんだ。着物着て座っている姿は、小学生の理恵より小さい。

「こうして片方だけ玉にして、もう一方はそのまま糸を抜いて」

 遺体は顔に白布をかけられ、そこに北枕に横たわっている。

でも、それ以外、何が違うというのだろう。

 親戚の人さえ皆帰ってしまえば、またいつもの日常が始まりそうな気がする。ほら、子供はもう寝る時間でしょ、とか何とか言いながら、エプロンで手を拭き拭き、今にも本人が現れそうだった。

 理恵は、人が集まっていることに興奮して、やれお線香が倒れたとか、親戚のおじいさんの仕草がおかしいとか言っては、くすくす笑いをやめない。理恵が笑い始めると、僕も不謹慎とは思いながらついつられてしまい、困った。

 お祖母ちゃんとは、今日、塾へ行く前に昼ごはんをいっしょに食べている。死んだって言われても、飲み込めない。そんなに急に涙なんて出やしない。くやしくて泣いたことはしょっちゅうだったが、悲しくてこぼす涙というのはわからない。悲しいなんてわからない。

 境の襖を取り払ってしまったから、リビングがよく見える。

見たことないじいさんがはげ頭を撫でながら、父さんと叔父さんに話していた。

「三途の川の渡し賃ってな。これがないと、往生できないってことさね」

「六文銭ですか」

 父さんは、誰か親戚の人が脇をとおる度に、話を止めて頭を下げた。

彼岸(ひがん)、つまり川の向こう側だ。まっ、言ってみれば、あの世へ行くにはこれだけありゃあ、いいってことさね」

 誰か、川のことを、いや、橋とか、洞くつとか、木の洞とか、言ってなかったろうか。ええと、なんだっけ。誰が言ったんだっけ。 僕はふと川向こうのあの自動販売機のことを思い出し、いそいでそれを頭から追い払った。今はダメだ。

 葬儀屋や父さんの知り合いから果物籠がいくつか届けられていて、熟れた果物のきつい香が家中に漂っていた。線香と煙草の煙がそれに混じり、中古のクーラーでがんがん換気していても、家のなかはどこもうっすらと霧がかかったようだ。

 煙草をひっきりなしに吸っているのは叔父さんで、ふたりのやりとりを聞きながらしきりに相槌を入れる。三人の真ん中に置いた灰皿はあふれそうだった。

「お棺の中にな。なに、六文銭て、そんなもの紙に描きゃあいいんだ」

じいさんはほとんど毛のない頭をつるりと撫で回す。

すると、父さんが腰を浮かした。

「それなら本物がある。僕、古銭集めてましてね。ちょっと取って来ましょ」

「ああ、そんな、もったいないよ。どうせ、焼いちゃうんだからさ。六道銭ってのは、絵に描いて、それでいいんだから」

「いや、お(かあ)さんにこんな時使ってもらえれば本望ですよ」

 父さんは身軽に立ち上がり、二階の階段を上がって行った。

 その後姿を目で追って、叔父さんが灰皿に目を落とした。

「じゃあ、僕は、生前仲の悪かった罪滅ぼしに、今晩一晩くらいお袋に添い寝してやりますよ」

 母さんが白い帷子を置いて、静かに廊下へ出て行く。また、ひとりで泣くんだな。

 叔父さんが叔母さんのほうへ首を向ける。

「じゃ、僕は今晩、こっちの部屋に布団敷いてもらって」

 死体のある部屋で寝るってか? 大人ってすごい!

 叔母さんのしゃきしゃきした声が聞える。僕は聞き違えたかと思った。

「煙草のしの始末、ちゃんとお願いしますね」

 お祖母ちゃんと同じ言い方で、火のことを「し」だって。僕の背に隠れて、妹の理恵がくすくす笑う。

 ところが、翌日のこと。ちょっとした事件が持ち上がった。

葬儀が終わると、お棺の中に白い菊の花を入れ、蓋がとじられた。棺の蓋をとめる釘を、最後に親族ひとりひとりが小石で打っていく。打ちつける音が、中の空洞にうつろに響く。どこか聞き覚えがあるようで、僕は耳をすませた。

「あ、しまった!」

 父さんの押し殺したような声。喪服の内ポケットを探っている。

六文銭だった。

お棺に入れるのを忘れたんだ。


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