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1 一進塾

 あの自動販売機が怖いと言ったら、川上のやつ、笑いやがった。

 夜の九時半になると、一進塾の自動ドアは大きく開けはなたれ、塾生がいっせいに吐き出される。僕らはつっつきあいながら、裏の駐輪場へ駆け出した。

玄関前の広い階段の上には先生方が勢ぞろいして、生徒を見送る習慣になっている。皆、医者のような白衣を着ているのは塾の方針だ。男子生徒達が教室でへんな妄想を走らせたりしないように、若い女の先生の体の線を隠すためらしい。それでも、僕らにはちゃんと体型ぐらい見えてるってこと、塾長は知らないんだろうか。

 明るく照らされた玄関先で、先生方はやたら口うるさくなる。たとえば、すぐ自転車のライトをつけないと叱られる。こんなところで必要もないのに宿題の念押しをする。道草を食うな、まっすぐ帰れ、車に気をつけろ、等々。これはみな、生徒ではなく車で子供たちを迎えに来た父兄に対するアピールだ。

 僕と川上は、やっと解放されてにぎやかにしゃべりまくる塾生たちの間を縫って、ゆっくりと自転車を走らせた。

 白い四階建てのビルの角を曲がると、建物の影になってそこはもう暗い。裏通りだから街灯もなく、夜間はほとんど交通もない。

 僕らと同じ自転車組の塾生が何人か、黒い影法師になって次々に脇を走り抜けて行く。辺りは急にしんとなった。

 狭い歩道の上を自転車でのらりくらりとしばらく行くと、小さな橋がある。僕も川上も家は橋を渡ってそのさきの商店街を外れたところだ。

橋のたもとに一つ目の街灯があって、その真下に自動販売機がひとつだけ、ぽつんとある。

これが怖いって言ったんだ。

「何言ってるんだよ」

 やつはまた僕を笑いとばす。

 川上はそこで毎晩飲みものを買って帰る習慣だ。自転車にまたがったまま、ポケットに手をつっこみ、小銭を探している。

 川上は水泳部の選手だ。いや、この夏休みには高校受験のためにもう部活を引退していたから過去形だ。うつむくと、あいかわらず短く刈りこんだ坊主頭に街灯の灯りが反射し、顔が影になって表情がわからなくなった。

 僕は片足を道路と歩道の間のガードレールにかけ、自転車を支えながら言った。

「お前は長生きするよ」

 実際、こんな古い型の販売機なんて見たことがなかった。

 販売機の下半分は赤錆だらけで、上部の、普通なら見本の飲み物が飾ってあるところは、透きとおったプラスチックの窓が欠け、その中はからっぽだった。見本を照らすはずの照明がいつでもスパークしていて、ついたり消えたりした。

 選択用のボタンがない。紙幣を入れるところもなくてコインしか使えない。金を入れて飲み物が転がり出てくるだけだ。

 ちゃんとしたメーカーとはいえ、缶コーラが出てきたり、アイスコーヒーや乳酸飲料だったりする。ときどき何の拍子か、二本出てくることもあった。それも違った種類の飲み物がいっしょに出てきたりする。いったい中はどうなってんだ?

「スロットマシーンだ!」

「だから、お前は長生きするって言うんだ」

 ほんの少し先の商店街まで行けば、ちゃんとした自動販売機がずらりと並んでいる。なんでここでなきゃいけないんだ?

「なんで、ここなんだよ?」

 背の高い街灯が、ぼんやりと丸い光りの輪を僕らの上に投げかけている。川上は僕に背を向け、コインを入れた。

 一瞬、間があって、それから販売機の中のどこか上のほうから缶が転がり落ちてくる音がする。その音がクレシェンドで下の受け口に近づいてくる。僕はその音がかすかに怖い。

 去年の夏、母さんとお祖母ちゃんのお供で、歌舞伎というものを生まれて初めて見た。盆狂言の演目は「四谷怪談」。お岩さんなんてと、バカにしてた。

でも、こう言ったら恥ずかしいけど、本物はけっこう怖かった。とくに、幽霊の出てくる場面はマジで迫力あったと思う。どろどろと太鼓がなり始めると、僕は隣に座っていたお祖母ちゃんの着物の袂をこっそりと握りしめた。

 今――缶が古い販売機の中を伝わって落ちてくる音。あの太鼓に似てなくもない。

 ついでに言えば、缶入りの飲み物というのも実はちょっと怖い。缶を傾け、中身が口の中に入ってくるまで、自分で確かめられないというのが怖い。本当を言えば、ドアだってふすまだって障子だって怖い。開ける瞬間、かすかな緊張がある。なんでみんな平気なんだろ? こんなこと考えるのは僕だけだろうか。

 街灯の灯りで自動販売機には濃い陰影がついている。飲み物の落ちてくる受け口は暗い。川上は手探りで、出てきた缶を探している。

「行くぞ」

僕は川上を待たず、ガードレールを蹴って自転車のペダルに力を入れた。



「はい、お帰り」

 僕が帰って来たのを見ると、お祖母ちゃんは老眼鏡をはずし、読んでいた新聞をたたんでしゃきしゃきと立ち上がった。ガス台にすき焼き鍋をかける。

 妹の理恵はもう寝てしまったらしく、リビングのテレビは消えている。

「小学生は塾がないからいいよなあ」

 じゅんとガス台の上で勢いよく油のはねる音がして、開け放ったサッシ窓から湯気が外に流れていく。

 夕方軽く菓子パンでも食べて塾へ行き、帰って来てからお祖母ちゃんに夕飯を温めてもらうか、夜食を作ってもらう。もう長い間の習慣になっていた。

「どっちで食べるの?」

 リビングでテレビを見ながら食べると、お祖母ちゃんはさっさと僕を置いて自分の部屋へ行ってしまう。キッチンのテーブルで食べる時は、孫がひとりぽっちで夕飯を食べているのをさすがにかわいそうと思うのか、いっしょに座って話し相手をしてくれる。

「母さんは?」

 じゅんじゅん炒める音がして、醤油と肉のいい匂いがしてきた。

「うん、まだ、ダメみたいね。先に寝てるよ」

 父さんはまた残業。これは聞かなくてもわかっている。

 僕はキッチンテーブルの椅子をがたがた鳴らして引き、腰を下ろした。

 母さんは今三人目の子供がお腹にいて、悪阻(つわり)の真っ最中だった。この頃はとくにひどくて、勤めている役所を休んで横になっていることも多かった。

 僕と理恵が四つ違いで、今度生まれてくる赤ん坊は僕とは十四歳も違うことになる。なんかちょっときまり悪いような気もするけど、親がそれでいいなら、まっ、いいか。

 ちなみに僕は生まれた時双子だったそうだ。僕の弟にあたる双子の片割れは未熟児で、生まれてすぐ死んでいる。そっくり同じ遺伝子を持つ僕がもう一人存在していたっていうこと。そしてその僕は死んでしまったっていうこと。これが僕には不思議でならない。まるで失敗してブレた写真みたいに、僕にはいつだってふたり分の影がダブっているような気がする。

「手ぇ、ちゃんと洗った?」

 背中に目がついているみたいに、お祖母ちゃんはガス台から振り向きもせず、僕に言う。

「ねえ、お祖母ちゃん、商店街の向こうにへんな自動販売機があるの、知ってる?」

 僕はテーブルの上に出された糠付(ぬかづ)けのキュウリを指でつまみ、一切れ口に放り込んだ。

「え? なんの販売機だって? コーシーなんか買って寝しなに飲むんじゃないよ」

 僕は笑いをかみ殺す。

 土地柄、江戸っ子みたいに「ひ」と「し」の区別がつかない年配の人が、けっこうこの辺には多い。

 その昔女子高で家庭科の先生をしていたというお祖母ちゃんは、しゃきしゃきぽんぽん、江戸っ子みたいな口調で言いたいことを言う。母さんは実の娘だからいいけど、これが嫁さんだったら家庭争議が絶えないだろう。

 女でも子供でも自律しなきゃダメだっていうのがお祖母ちゃんの口癖だ。自立じゃなくて自律。ええと、自ら律するってこと。コーシーなんか夜飲んじゃだめってこと。

 そのくせお祖母ちゃんは、自分は高血圧の薬をめんどうくさがって飲まなかったりするんだ。でも、両親が共働きということもあって、僕はずいぶん小さい時からこの自律精神ってやつをしっかり養われた――ような気がする。

「ほら、自分で御飯をよそう」

 僕は言われるまま素直に、炊飯ジャーの蓋を開け、湯気の立つ御飯を自分の茶碗にこてこて盛った。

「自分で卵割んなさいよ。テーブルの上にあるでしょ」

 冷蔵庫から出したばかりの卵は、やけに細長く、うっすらと濡れて冷たい。

 僕はテーブルの(ふち)に軽く卵をあて、小鉢に割った。

「ワッ」

 鮮やかな色の小さめの黄味が二つ、白い器にするりとすべり、もりあがって並んだ。

「なにびっくりしてんのよ?」

 なんで僕はこんなことに驚いているんだ? 

 お祖母ちゃんが菜ばしを手にしたまま、僕の茶碗の中を覗き込む。

「あら、双子の卵、縁起いいじゃない」


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