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ELYSION  作者: 秋風スノン
第2章 フェアリーテイルの雫
36/69

第36話『夜の片隅で星は踊る』

 夜の長い廊下を走り、息を切らせたレイズが出て行ったのは離れの小屋の前にある庭園。

 今夜の月に照らされて黄金色に輝くセイランの花は、ゆらゆらと風に揺れている。


 レイズは、心臓の悲鳴を感じながら花をかき分け奥へと向かう。背後には邪魔な花を剣で斬り捨てながら追ってくるリズが来ていた。

 ちょうどセイランの花畑の中央で、レイズは立ち止まり振り返る。

 

 ここまで来るのに無理をしていた体は軋みを上げ、咳に混じって鉄の味がした。

 それでもレイズは俯かない。自分自身でけじめをつけるため……何より手遅れになってしまった片割れを救う為に。


「お前、どれだけ薬を飲んだ……?」

「……」


 レイズは、少しでも息を整える時間を稼ぐ為に話を振った。

 わかっていたが、それに対する答えは返ってこない。

 リズに飲ませていたあの薬は、少量でも強力であり依存性が高い。

 管理者だった時のレイズは少しずつ量を調整し、リズの人格が消えないギリギリのところを保っていた。


 だが、それも出来なくなった今、フラクタの管理下に置かれていたリズは言われるままに薬を飲まされ続け、正気に戻ってはまた繰り返していたのだろう。

 いま、目の前にいるのは、誰かの命令がなければ動けない『哀れな人形になってしまった』片割れだった。


 こうなればもう元に戻すことは出来ない。仮に解毒剤が出来たとしても、この毒に対抗できる成分があるとは思えない。

 

 だからレイズは部屋で薬の空き瓶を見た時に覚悟を決めていた。深呼吸をし、魔銃を握る右手に力を込める。

 リズは初めて見る魔銃を警戒しているのか動かない。


「なぁ、リズ。俺はお前の兄貴だ。だからやりたくない事もやらないとならない」


 こちらを見つめる冷たい深淵にレイズは語り掛ける。

 例え、助けられずに、ここで相打ちになってしまったとしても――。

 約束した『海』が見られなかったとしても。


 もう二度と、共に生きることが出来なくなってしまっても……。


「このまま、お前がお前として生きられないのなら、死んでいるのと変わらねぇよな……」

 

 帰る場所を失った魂へ向ける言葉は、静かに夜の音に消えていく。

 ゆっくりと右腕を上げたレイズは、自分自身よりも大切だった片割れの胸へと銃口を向けた。

 

 そうして、一度だけ痛みをこらえるように顔をこわばらせ、無理に笑ってみせた。

 

「もう大丈夫だ、きっちり殺してやるよ」


 そう言って、引き金に指をかける。

 チャンスは一度きり、魔銃の性質が知られてしまえば勝ち目はない。

 躊躇いは死だ。レイズが引き金を引こうとした時、懐かしい声が聞こえた。


「れい……?」

 

 自分を見るリズの瞳が光を取り戻し、まるで夢から覚めたばかりのような掠れた声でレイズを呼んだ。


「レイ……!」

「ッ!」


子供の頃のように聞いていた、自分を呼ぶ懐かしい声にレイズは目を見開く。


「お前……俺がわかるのか……? まさか、薬が効いていないのか?」

 

 希望の欠片が頭によぎり、レイズは思わず引き金から指を放してしまった。

 その一瞬の迷いが命取りとなる。

 刹那、視界の端に黒い剣身が映った。


「!」

 

 反射的に後ろに下がったレイズの眼球を狙った斬撃は額を掠り、薄く切れた傷から血が流れ伝う。

 後ろによろけてしまいながらもすぐに体勢を整え、血が目に入らないように服の袖で拭い取る。

 

「クソッ!」


 何とか躱したレイズは、信じられないとリズを睨む。

 相手を騙す事は暗殺者の得意とするところで、よく訓練された暗殺者であるほど嘘が上手い。

 まさか今、よりによって正気に戻ったように仕掛けてくるとは思わなかったのだ。

 

 奇襲が失敗に終わったリズは、表情を一切変えないまま左手の薬指でグイっと唇の端を押し上げ、歪んで不気味な笑みを返した。

 

 レイズはこの意味を知っている。子供の頃に喧嘩をした時、口を利かない代わりに二人で決めた合図だ。

 指で片方の頬を吊り上げる時の意味はそう……。


「『お前が嫌い』か……。ああ、そうかい!」


 頭に血が上っていく感覚に体が熱くなり、レイズは歯を剥き出しにして笑う。

 体勢を低く構えたリズは正面から襲い掛かり、レイズの脇腹を狙って双剣で切り払った。

 運よく一撃を避けられても、もう一振りが反対の急所を狙う。

 

「ぐっ……!」


 レイズは魔法の防御壁で二本の剣を弾く。

 リズの青い瞳と視線が交わり、真っ直ぐに見つめ返す鋭い眼光が威圧する。

 魔銃を向けようとレイズは右腕を突き出す。だが、弾丸が放たれるよりも早く、剣先を下にして逆手に持ち替えたリズが懐に入り込んだ。

 

 無言で放たれる斬撃は重く素早い。

 相手が一緒に過ごしていた片割れだろうと容赦のない姿は、世界の裏側を生きるルークの人形というにふさわしい。


 激しい運動をすれば体はすぐに悲鳴を上げる。

 リズと同じように動けないレイズは、攻撃を防ぐ魔法の壁を召喚する。

 

 防御壁を破れないと気付いたリズは剣を振り上げ、切っ先で空に青い魔法陣を描いた。

 淡い光を帯びた魔法陣から冷気が溢れ出し、鋭い氷の矢が召喚され、真っ直ぐにレイズの頭を狙って突っ込んできた。

 

 考える時間も与えてもらえない隙のない猛攻。

 氷の結晶が舞い、辺りに白い霧がかかる。うっすらとした視界の中を、黒い影が近付いてきた。


 魔法壁で氷の矢を弾いたレイズは、直撃は避けられた。だが、間髪入れずに次の乱撃が降りかかる。

 双の剣を振るうリズが狙うのは頭や首、腹など一撃で死に至らしめる急所ばかりで、相手をじわじわと痛めつける事はしない。

 

 幼い頃、仕事で始末した相手が苦しむ姿を見たくないと怯えていたリズに、苦しませない人の殺め方を教えたのはレイズだ。

 あれから何年たっても同じ戦い方をする姿に、レイズは小さく笑った。


「お前は変わらねぇな! いつまでもグズグズグズグズ……!」


 吐き捨てるようにそう叫んだレイズは、防御壁を解いて両手に炎を作り出した。

 何度も言うが、レイズは戦いが得意ではない。幼い頃から魔力の量が少なく、虚弱体質のため同年代の友達も出来ない日々を過ごした。


 それでも、そんな荒んだ生活の中でも、ひとつだけ幸せだったと言い切れることがある。

 体内で今作れる最高温度の炎を握りしめたレイズは、最後の賭けに出た。


 絶えず放たれる氷の矢を受け止めながら、強く掴んだリズの両腕を炎で焼き落とし、双剣を力づくで捨てさせた。

 

 もがいて逃れようとするリズの腕から魔力が溢れ、片割れを拒絶する氷の茨を作り出す。

 魔法は術者の精神状態に左右される性質があり、未熟なリズの心の中は乱れ始めていた。

 

 愛情に恵まれなかったレイズが短く太い人生だったと思えたのは……幸せだったと言いきれるのは、他でもなくリズがいたからだ。


 価値のなかった自分の人生で唯一、光になってくれた存在。

 共に生きる片割れがいてくれた事、それがどんなに心の支えになっていただろうか。

 

 額や、腕からの出血を拭う事もせず耐えるレイズの表情とは対照的に、氷の茨で身を守るリズの表情はどこまでも静かなものだった。


 この子は今、何を考えているのだろうか……。レイズの中にあることがよぎる。


「……お前、」


 どちらかが終わるまでの期限付きの喧嘩の中、レイズは自身の全てを賭して片割れに向かっていた。

 言葉は無力だ。それでも、意味はある。


「お前は、俺が守ってやるって言ってただろ! なのに、なんで諦めちまうんだよ!」


 レイズは、目の前の片割れに声を荒げる。

 レイズは、自分とは違うリズが可哀想で仕方がなかった。

 意志を持つ事を許されない人形は、誰かに守ってもらわなければ生きていけない――ならば、この子を守れるのは自分しかいないのだとも思っていた。

 

 正反対の性質を持つ二人は、子供の頃いつも互いで助け合っていたはずだった。 


「……れが……」


 ようやく口を開いたリズは、暗い海色を大きく見開きレイズを睨みつけ思いを吐き出す。


「誰が、守って欲しいって言った!」

「なっ……!」

「リズは! お前に守って欲しいだなんて一度も思ったことはない!」


 感情を失くしていたはずのリズの口から出たのは、レイズに対する意外な叫びだった。

 驚きのあまり言葉を失うレイズに、リズは氷の茨を向けると言葉の追撃をする。


「お前に守ってもらわなくても……リズは、立っていられた! 対等でいられた!」

「俺は、お前のためを思って……! 仕事の度に苦しむのを見てろってのかよ!」

「苦しいのだとしても! それでも!」


 また目を狙った茨が眼鏡を弾き飛ばす。レイズが無数に突き刺さる棘の痛みに顔をしかめたその時――。


「リズは……それでもお前の横を歩きたかった……!」


 自我を捨てさせられ、感情なんてとっくに失くしてしまったはずのリズが、今にも泣きそうな顔で叫んでいた。


 心臓を鷲掴みにされたような気になったレイズは、子供の頃にしか見たことのない片割れの泣きそうな顔に動きを止めた。


 細く、鋭く尖った氷が解けて水になり、炎が消える。


 そう言ったきり、リズの瞳から色が消え、命令に従うだけの無情な人形としての作業を再開する。


 一本の鋭い氷刃がレイズの腹を貫いた。


「っは……?」

 

 一瞬の激痛の後に、じわりと侵食されていく肉の裂ける感覚。それでも、掴んだこの手は離さなかった。

 痛みを舌打ちで誤魔化したレイズは体を反らせ、リズの腕が再生しきる前に思い切り息を吸う。

 どこぞの誰か(ジーク)と同じように自分の道を貫き示すため、そして片割れのために、勢いをつけた渾身の頭突きを食らわせた。

 

「言いたいコト言って、薬に負けんなや……! 最後の喧嘩くらい……!」


 レイズは一瞬、目の前に火花がちらついたが、痛みよりも怒りが勝り、心の底から叫んだ。

 

「テメェの意志でやれやぁっ!」


 腹に刺さっていた氷の刃を勢いのままに抜き取り、バランスを崩したリズを蹴り倒した。


「!」


 仰向けで花の上に倒れたリズは、額をぶつけられた痛みは感じなくとも、衝撃で脳を揺らされて動けないでいる。

 リズの身を守っていた氷の茨は割れて溶け水になり、乾いた大地に流れていく。

 

 当然だ。どこぞの誰かとは違ってレイズの頭は固い。


 レイズは落ちた眼鏡を拾うと、燃えるような炎の瞳を細める。軽く咳き込んだ口からは血の泡が出て来て袖で拭う。


 夜の荒野は気温が下がっているのか、レイズは白い息を吐き出しながらリズを見下ろす。

 

「じゃあな、リズ」


 片割れの傍にかがみ込んだレイズは、リズの心臓に銃口を押し当てた。右手に握る魔銃の引き金が音を立てる。


「……れい」


 あれから一言も話さなかったリズは、深い海のような色の瞳で兄の名を呼び左腕を伸ばした。

 何も言わないレイズは、最後になるであろう片割れの声に耳を傾ける。

 これがまた罠だとしても、自分にはこれ以上戦う力は残っていないから。


 力が入らない腕で、レイズに手を伸ばしたリズはポツリと呟いた。

 戦う力は残っていないのか、悲しく彷徨うその手つきは兄を呼ぶ下の子のよう。

 

「どうしてこうなっちゃったのかな……。リズは、れいと母様に会いたかっただけなのに」

「それは……」


 レイズは言葉に詰まりながら、リズの言葉を噛みしめていた。

 何が間違っていたのかなんて、今さら考えていられない。その時に出来る精一杯のことをしたのだから。


「さいごに、かあさまに会いたかったなァ……」


 自分の最期を悟ったリズは夢の中にいるように、ぼんやりと呟く。

 

 レイズの首筋に回されたリズの左腕の袖から、小さな鋭いナイフが滑り落ちた。

 リズはそれを手の中で遊ばせるように扱い、気付かれないようにレイズの首へと先端を突き付ける。

 

「……ごめんな、最後まで守ってやれなくて」

 

 最後の最後に向けられた暗殺者の嘘に気付かないふりをし、言葉に詰まったレイズは引き金を弾く指に力を込める。

 リズもまた、心臓を撃ち抜かれて死ぬ前に刺し違えようとナイフを振り下ろした。


 ここは、子供の頃に二人で部屋を抜け出して遊んだ思い出の場所だった。

 顔も見たことのない母親が愛したセイランの花に囲まれていれば、母と会えたような気になれたから。

 どんなに家の中に居場所がなくたって、一緒にいられたら平気だった。日が暮れるまで泥だらけになって遊んだ記憶が蘇る。


 でも、これでおしまい。


 セイランの花びらは空に舞い、風は緩く香りを運んでいく。


 どちらかの、さようならという声が聞こえ、愛情で出来た思い出の糸が千切れる音がした。





「は……はは……ははは……」


 『彼』の乾いた笑い声は、震え枯れていた。


 月明かりが二人を照らし、目を見開いたままのリズの目元に温かい雫が落ちた。

 ぽたり、ぽたりと不規則に零れ落ちていく水の玉は美しく、けれど切なく。


 大きな暖かい雨はとめどなく降り注ぐ。

 

「あぁ……本当に、はは……出来るわけねぇだろ……こんなの……馬鹿だろ……」


 大きな赤い目を見開いたまま、子供のように大粒の涙を零していたのはレイズだった。


「もう戻れないなら、俺が終わらせてやらなくちゃって決めてたのに、こんなの撃てるわけねぇだろ……! 出来てたまるかよ……」

 

 レイズはリズを撃てなかった。

 唯一の武器である魔銃を手放し、自分を奮い立たせる為に食いしばっていた歯を解いて、どうしようもなく困ったように笑って、泣いていた。


「……」

 

 頬に落ちた涙を右手の指で拭ったリズは、その液体が何なのかわからずに茫然としている。

 ただ、左手に握っていたナイフが落ちる音がした。


 薬により記憶も曖昧なリズは、目の前の人間が誰なのかわからない。

 ただ、記憶はその顔を知っていた。


「……れい? こんなところにいたの?」

 

 数々の戦いの中での傷跡が残るリズの指が、そっとレイズの涙に触れる。

 リズには感情がない。けれど今、あれほど欲しいと思っていたココロは痛みを感じていた。


「リズ……? お前、自分がわかるのか……?」


 そこまで言いかけたレイズは口を閉じた。リズは今、ここではない記憶の中にいるレイズウェルを見ている。

 どんな時もリズの中にいた「れい」は、幼い頃のレイズだ。

 初めて薬を飲んだ日に止まってしまった記憶の針が、いま少しずつ動き出していた。


「もう大丈夫、れいはリズが守ってあげる。だから、泣かない」

 

 これも薬のせいなのかはわからないが、微睡の中にいるようにレイズの後頭部を撫でたリズは、思い出の糸を辿るように「れい」の涙を拭い起き上がる。


 そうして、瞬きをするとレイズと目を合わせ、()()()()()()()()問いかけた。


「……れいは、ずっとそばにいたんだね?」

「ああ……」

 

 これ以上の言葉が出てこないレイズは頷く。

 長い間、ずっとリズに自分がレイなのだと言わなかった理由は、すぐに感情で動こうとするレイズ自身を止めるためでもあった。他人に弱みを見せれば利用されてしまう、だから信用しない生き方しかできなかった。


 万が一、何かあった時にリズが情に流されずレイズ自身を簡単に切り捨てられるように。

 一人でも生き延びられるように……レイズはそう願っていた。

 

 

 リズは、風に揺れ光を反射しキラキラと輝いているセイランの花を、母親にもらった青の目で見る。

 思い出の匂いを胸に吸い込んだリズは、少し間を置くと口を開いた。


「……レイ、教えて欲しい」


 この続きを言うのを躊躇う。わかっている、答えはきっと暗闇だ。

 それでも、リズは前に進むと決めていた。


「かあさまは、もういないの?」

「お前……」

 

 レイズは、幼かった片割れが自分の意志で薬の作用に抗い、過去の悪夢に立ち向かうことを決めたのだと悟る。

 きっと、今のリズならどんな残酷な運命も自分で受け入れることを望むのだろう。

 その真剣な表情に、もう何も誤魔化さない、と心の中に決めて口を開いた。


「……ああ、いない。全部、俺がついた嘘だ」


 あの日、初めて薬を飲ませた日。酷く混乱して暴れるリズを納得させるため咄嗟についた嘘だった。

 リズは、自分を愛してくれる母親に会えるという希望だけで生き延びていた。

 

 例え、その結果がこれだとしてもレイズは後悔していない。

 壊れていくリズの心を繋ぎとめたくて縋った母親の幻影に、ここで別れを告げる。

 

「ごめんな……母さんはいない。死んだんだ」

 

 寂しさと罪悪感で押し潰されそうになっていたのは、レイズも同じだった。

 真実を聞いたリズは俯き、自身の目元を指でなぞりながらポツリと呟いた。


「こんなにココロが痛くて苦しいのに、どうしたら涙が出るのかわからない。ぼくは、ばけものなの?」


 そう言って、リズは悲しそうに口の端を吊り上げ、レイズは片割れの肩を掴んで否定する。


「違う! お前は心があり、感情がある。人形でも化け物でもない、人間だ!」

「リズも人間? 一緒……?」

 

 レイズは、戸惑うように声を震わせるリズに強く頷く。


「ああ、同じだ。お前は人間だよ」


 腹から流れる血にかまわず、一番伝えたかった言葉をかけたレイズは、両腕を伸ばしてリズを抱きしめる。

 七歳の時から止まってしまった片割れの心を目覚めさせるため、なにより過去の無力な自分自身を認めてあげるために強く、強く抱きしめた。


「生きよう、リズ。生きて、これから色んなものを見よう。……それで、一緒に大人になろう」


 優しく語り掛けるレイズの言葉は、いつもストレートで遠慮がない。

 

 それ故に、冷え切った氷を解かす炎のように力強く、水面に波紋が広がるように響いていく。


「……うん、リズは生きたい、大人に、なりたい……!」

 

 声を震わせるリズの深い海のような色の瞳に輝きが灯り、一筋の涙の雫が流れ落ちた。

 それは深く暖かい雨のようにとめどなく溢れ、次から次へと流れ落ちていく。

 

「どうして? ココロが痛くないのに、どうして……?」


 目を大きく開いたまま、小さな子供のように泣き出したリズウェル・ルークは、戸惑いながらレイズの服を掴んだ。


「知らねぇ。人間は悲しくなくても泣くもんなんだよ……」


 口ではそう言うレイズだが、彼の声もまた震えていた。

 夜の海は暗く深い。上手く泳げなかった二人は溺れながらも手を取り合い、声を上げて泣いていた。


挿絵(By みてみん)


 声をのみ込み、肩を震わせたリズは、ぐちゃぐちゃになった泣き顔で言う。


「……レイ。人は、悪いことをしたらどうしたらいいの?」


 リズは、自分が罪もないジゼルや子供達を傷つけたことが悪い事なのだと自覚していた。

 誰に言われたのでもない、自分自身の意志でそう思えていた。

 

「リズは、すごく酷いことをいっぱいした。何もしていない人を殺して泣かせた。子供を一人ぼっちにした……」

「ああ、そうか……」

 

 それを聞いていたレイズは、誰の事を言っているのかすぐにわかった。

 人の心を――、人間性を手に入れたリズならもう大丈夫だ、と心の底から安心し柔らかく微笑んだ。

 だから、あえて声のトーンを上げる。

 

「そうだな……。じゃあ、ジゼルさんの所に一発殴られにでも行くか! それで許してくれるだろうよ」

「それじゃだめだと思う」

「はは! それもそうか!」

 

 腕の中で頑なに首を振るリズが何だかおかしくて、レイズは声を出して笑ってしまう。


 月がセイランの花畑を照らし、光を取り込んだ花びらが一斉に風を受けて舞い上がる。

 母親が遺してくれた、このセイランの花は別名『夜星花』。

 どんなに暗い夜でも、月光さえあれば星のように輝きを持つ花の名だ。

 

 夜空の大海へ踊るように飛んでいく花びらを見ていたリズが「ずっと長い夢を見ていたみたい」と言った。

 立ち上がり両手を広げ、止まっていた時を取り戻すように、大人びた横顔で瞼を落とし鼻歌を歌う。

 それは、子供の頃に二人で歌っていた女神エリュシオンの唄の一節。


 あれから声の高さも何もかも変わってしまったけれど、物悲しさの中でも希望を謳うこの詩が好きだった。

 思い出は色褪せず、レイズは静かに耳を傾けていた。


 不意に、歌を止めたリズが言う。

 

「レイ、ずっと守ってくれてありがとう」

「は? あ、ああ……!」


 驚いたレイズは思わず俯いてしまう。

 金色の花に囲まれ無自覚に笑うリズは、もう夜の隅で一人朝を待つことはない。

 ヒトに憧れ、泣いて笑って、ココロが欲しいと願っていた人形の子供もいない。


 思いのままに、自由に生きる人間の子がいるだけだ。

 

「……いや、俺の方こそ。ありがとう。俺達は対等だ、どちらかが犠牲になるのは終わりにしよう」


 そう言って、兄が幼い弟妹にやるようにリズの頭をぽんぽんと軽く叩き、レイズは伏せていた顔を上げた。

 まだ乾ききっていない涙が頬を伝い落ちていったが、今は拭う気にはなれなかった。


 風が静かになり、セイランの花はまた穏やかに揺れる。

 さて、と振り返ったリズは落とした双剣を拾うと、思い出したようにレイズの腹の傷を剣の柄でつつく。

 

「どう? リズは痛いがわからないけど、痛かった気がする。ごめん」


 全く悪びれることなく無表情でリズはそう言い、レイズは呆れたように笑いながら返す。


「普通にいてぇよ。次から喧嘩する時は素手にするわ。あと今度は茨出すなよ、あれもマジでいてぇから!」

「約束は出来ない」

「いや、お前が本気出したらこっちは死ぬんだわ! あとお前、途中からわかってて喧嘩売ってきただろ!」

 

 そんな話をしながら、リズはレイズの腹の傷に触れ、母親ゆずりの癒しの魔力で治療していく。

 子供の頃からそう。喧嘩をした後は、必ず仲直りをするのが二人のルールだった。


 お互いに軽口を叩きながらも、レイズの夕空色の凛とした瞳は希望を映して輝き、リズの青空色の澄んだ瞳もまた、未来を見つめていた。


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