68 やりがい
さて、離れがたい人間関係その2として、仕事について考えてみよう。
現代において、仕事はなかなかに離れがたい。
日々の糧を得るために、人々との繋がりのために、御客様の笑顔のために。
理由は数あれど、気軽に仕事を辞められたら苦労はしない。
そして、仕事は数あれど、特に困った仕事がふたつある。
ひとつ。必要不可欠な仕事。やりがい搾取を受ける仕事だ。
ふたつ。クソどうでもいい仕事。やりがいがまるでない仕事だ。
おや? そういえば、この「やりがい」というのも形のない……心理的『余裕』と言えそうだぞ?
やりがいって何だろう? 例えば、私にとってこの駄文を並べ立てることに、果たしてやりがいなんてあるんだろうか?
まず、個人的なやりがいだ。
『余裕』、こんな何でもないことを2ヶ月以上、えんえん書き続けるような奴はそうそういないだろう? こんなことをわざわざ、私が書かなきゃ誰が書くんだ? という自我が書く動機になっているね。
続いて、関係性によるやりがいだ。
こんな馬鹿げた話を真面目に書くことにより、君が笑ってくれることを期待している。それは嘲りを含んだものかもしれないし、呆れ混じりかもしれないし、もっと肩の力の抜けた自然な笑みかもしれないね。まぁ、どれでもいい。贅沢が言えるほどの文章力、表現力があるだなんて思っていない。でも、ただ書くだけではない、上手く書こうと思えるのは君が理由だ。
最後に、社会的なやりがいだ。
何かにつけて、過剰な世の中だと思う。特に、結果・結論。需要も供給も多すぎて、その価値はあまりに不安定だ。反面、それに至るまでの経緯、努力や動機づけ、方法論、なぜそんな考えに至ったのかなどは、背景に融けてしまって、スキップされがちだ。
だからこそ、過剰社会に対する認知的背理法として、努力論に至る空理空論には社会的な意義があると思うんだ。この疑問が背景に融けてしまう前に、書き留めておきたい。これもまた、書く理由になっている。
そして、『余裕』であるからには、適切以外にも過剰・不足・拗らせも考えておきたいね。
過剰であれば、義務感から書くようになるだろう。すると、恐らく視野が狭まってしまい、ネタが枯渇する。書こうと思うのに書けない。でも義務感で霞んでしまって、原因が自分では分からない。
不足すると、そもそも書く動機がないわけだから、書けなくなるね。
拗らせると、たぶん、押しつけがましいものを書いてしまうんじゃないかな? 良かれと思って「ゆとり」を押し売りし、君の笑顔を曇らせて本末転倒。そうなれば、「そっ閉じ」推奨だね。