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記述主義者がペンを捨てるまで。  作者: ほんの未来
第7章:記述主義者と努力嫌いのための努力論。
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58 思想的余裕<スラック>~人間×評価×時間×空間軸

 それでは、人間(ヒト)×評価(カネ)×時間×空間軸。

 今回は思想について考えてみたい。


 思想の『余裕(スラック)』。

 適切なら、人の思考の助けになる。過剰な情報に惑わされず、要点を絞り込んで素早い判断が可能になります。また、コミュ力が高かったり、大きな挫折を味わったり、哲学思想に数多く触れていたりすると、メタな思想を獲得する場合もあるでしょう。その時々に応じて、適した思想に切り替えたり、組み合わせたりする。異なる思想・価値観をいくつも照らし合わせることで、バランスの取れた判断をすることができる。課題や状況に適しているとはどういうことか、素早く切り替えができるか、組み合わせをどれだけ試したか、現実の評価(ダメ出し)をどれだけ喰らって、どれほど改善(もっと!)を繰り返したか? 創意工夫が呼吸になるほど習熟したか? まぁ、思想なんて一生掛かっても完成はしない。けれど、到達はする。日々の生活の中で、緊急性(せわしなさ)重要性(たいせつさ)と向き合うのに便利な道具だ。一生涯、磨き続けて大切に使うのも悪くないだろう。

 過剰であれば、かえって判断に迷ってしまう。例えば、インターネットは思想にあふれている。お手軽に解決策を調べたいのに、語る人によって対処法が真逆であることも少なくない。その手短な助言が当を得る確率は、50%を超えることはない。何故なら、君が右に逸れている時は左が正解で、左に逸れているときは右が正解になるからだ。君のことをよく知らずにする助言は、見当違いなことを言う確率をどれだけ0%に近づけたとしても、左右のふるいによって正答率50%を超えられない。しかし、せっかく時間的・精神的『余裕(スラック)』を掛けて判断をしたというのに、正答率50%を超えられないのは困る。それならコイントス占いで即断した方が、時間的・精神的『余裕(スラック)』を節約して正答率も高いことになってしまう。なので、これを防ぐために基準を決めよう。例えば、私の場合の基準は『君の笑顔』だ。この小説(ばしょ)を最悪でも指差して嘲笑(わら)えるものにはしてみせたいと思うけれど、それもどうだろう? 手段を問わないのであれば、君に言葉のナイフを突きつけて、笑えと命じたっていいことになる。あるいは、君の心を無遠慮にくすぐり倒して、抱腹絶倒の末、呼吸困難で病院に運ばれた場合は? こんな風に、基準を決めて過剰に縛られるんじゃ良くないね。笑えない冗談があっていいし、怒りに震えたり、嘆き悲しんだり、(うらや)み恨んでしまったり、そんなこともままあるもんだ。刺激(スパイス)辛辣(エスプリ)機知(ウィット)を添えたいつもの悪い冗談を各種取り揃え、馬鹿やって下手打ってのたうち回って、やってらんなくてぶん投げてしまいたくなっても、それでもやっぱり言葉を(つづ)れる、その理由。基準(『君の笑顔』)がそこにあるからだ。だから、ふらつくことなく、自分の意志でふらふらできるんだ。私の、私による、私のための『あそび』で、君に捧げる『余裕(スラック)』だ。そんな基準を決めたら、もう判断に迷うことはなくなる……のは大袈裟(おおげさ)だろうが、かなり方向性を絞り込むことはできるだろう。

 不足すると、判断できなくなるときがある。生まれてこの方、様々な刺激に振り回されるうち、なんとなくできあがった行動指針。君はおそらく、それに名前をつけていない。君自身に溶け込んでしまっていて、背景(やみ)に気付いていないだろう。君はそれを「普通」と思い、周りはそれを「常識」と呼んでいる。常識は素晴らしいだろうか? どんなときでも常識に従っていれば、上手くいくだろうか? そんなことはない。およそ上手くいくけれど、たまに致命的に上手くいかなくなる時機(タイミング)が生まれる。何故だろう? そもそも、常識ってなんだろう? ネット上の百科事典みたく、一生掛けても読み終わらない、むしろ絶えずページ数が増え続ける(たぐい)のもの? だったら、なんで常識人が実在するんだ? 一生掛けても完成しないのに? その秘密は、常識の定義にある。常識とは、「非常識でないこと」を指す言葉だ。常識人は、非常識な行動をしないからこそ、常識人だと思って貰えている。だから、常識を学びたかったら、非常識とは何なのかを調べてそれを否定するといい。直接常識を学ぼうとしたら一生掛かっても終わらない。そして、この事実が常識の限界をも定めてしまっている。何故なら、常識とは禁則処理の集合体だ。してはいけないことの寄せ集めだ。だからこそ、問題の解決には徹底的に向いていない。それどころか、問題を見つけることさえかなり苦手な部類になる。だから、常識に染まりきってしまうと、問題を押しつけられた時に対応に窮することになる。大抵は象の(エレファント)いる部屋(インザルーム)、その場の全員が異常事態(部屋の中の象)を見て見ぬふりをする、それが普通になり、ある日大惨事になるんだ。象を飼い慣らすという思考は恐らく常識的ではないが、問題解決に必要なのはそういう非常識さだ。反社会的でない非常識さとは何なのか? それが「普通」ではない思想を、敢えて学ぶ理由になる。まぁ、問題に押し潰される……いわゆる挫折って、精神破綻(メンタルブレイク)やら(うつ)病やら諸々の精神疾患の原因になるなど、割と面倒です。保険という意味合いでも、普通ではない思想に触れておくのは悪くない選択肢と言えるかと。

 (こじ)らせると、普通ではない思想に気触(かぶ)れてしまう。昨今では環境活動(エコテロリズム)が最たる例になるのかな。抗議活動として主幹道路を塞いだり、有名絵画や文化遺産にスープを投げたり、ガラスケースに金槌でヒビを入れたり。不思議ですよね。唯一のものを傷つけるデモンストレーション。切迫する環境問題に対し、早急な対応が必要だ、行動が必要だ、この想いに共感して欲しい……そんな願いがあるはずです。なのに、環境活動家の振る舞いによって、環境活動家たちが敵視されるようになってしまい、肝心の環境問題から世間の目が逸れてしまう。星空のバイアス。環境活動(エコテロリズム)、その背景(やみ)を見落としがちな私たちだ。環境活動家たちに共感する『余裕(スラック)』が消え失せている。世界は今日も狂っているんだ。環境活動家が有名絵画を傷つけることが正しいというなら、私たちが地球を傷つけて何が悪いんだ? という狂った開き直りを生み出しかねない危険がある。『余裕(スラック)』がないってそういうことだ。このように思想には気触(かぶ)れる怖さがある。これを防ぐ方法は、2つの検査(チェック)を入れることだ。ひとつは『自己否定』。もうひとつは『自己言及性』だ。まず、自己否定について。認知的背理法(ツンデレごっこ)を受け入れられない思想は、現実にピントを合わせることができない。また、思想自体に拡張性がないのも問題点だ。相手に思想を押しつけることでしか、思想を拡大できない。話し合いや人間的成長の『余裕(スラック)』がない。そしてもうひとつ、自己言及性について。これは自分自身のことを棚に上げてはいけないということ。張り紙を禁止する張り紙の類だ。自分自身を例外(とくべつ)扱いする思想は、ただの上から目線の押しつけに過ぎない。選民思想は先鋭的だけれど、その亜種はあまりに多い。生まれたばかりの幼稚な思想はおよそ全てがそうなっているからだ。誰しもが幼さゆえの失敗をするものだから、それ自体は仕方ない。ただ、世界は手加減してくれない。より確かな思想を手に入れるために、現実の洗礼、『自己否定』と『自己言及性』は乗り越えておいた方がいいだろう。実際にやってみよう。多様性の尊重という思想を考える。まずは自己否定だ。多様性を尊重しない、これも多様性のひとつである。多様性を尊重しないことを尊重できるか? という皮肉にどう答えれば良いのだろうか? そして、『自己言及性』について。多様性を尊重すべきだ、と他人に押しつける。すると、多様性を尊重したい人たちは、多様性を尊重できなくなっている。この矛盾にどう立ち向かうべきか? これに回答してみよう。私たちの多様性を、私たち自身が受け入れられるように思想の『余裕(スラック)』を持とうぜ、という相互理解の人間讃歌だと解釈する。そうすることで多様性の尊重が実用に耐えうる思想になり、実践知として確たるものになっていくわけだ。


 人間(ヒト)×評価(カネ)×時間×空間軸として、思想について考えてみました。

 前第6章で多重構造主義とか(ひね)り出すだけあって、こういう抽象的な内容だと文章量が膨れ上がりますね。楽しく徒然(つれづれ)書いてました。『自己否定(このままで居られない)』と『自己言及性(自分を棚に上げない)』は私にとって根深いテーマ。割と辛口なこともさらっと書くのだけれど、自分に真っ先に刺さっていたり、論点を軽くずらしただけでクリティカルヒットしてたりする。……なあんて、いつもの悪い冗談だね。信じちゃった?


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