57 グローバル化、認識範囲の余裕<スラック>~人間×存在×評価×空間軸
続いて、人間×存在×評価×空間軸。
グローバル化について考えてみたい。
認識範囲の『余裕』。
適切なら、段階・手順を踏んで行動範囲が拡がっていきます。個々人で環境問題と向き合ったり、事業の拡大展開であったり。段階をきちんと踏むため、ハイリスクハイリターンな投資は減るでしょう。ただし、はるか遠くに意識は向かなくても、すぐ外には強い興味を持っている。遠くに対して焦ることなく、粘り強く安定した発展していける。これ以上の発展は望めない、あくまでローカルなものと分かった場合でも、余力を蓄え、手を替え品を替え、世界と繋がる手段を探り続けることができる。
過剰であれば、インターネットが最も尖った例になるかな。今の時代、世界と繋がる手段はとてもお手軽になりましたね。いつでも、どこでも、誰とでも。硝子細工の神経網と、生体神経網を接続できる。インターネット上のデータ総量は膨大だ。米国の調査会社が来年のデータ消費量は175ゼタバイトと予想しているらしい。1750億テラバイトだね。人間の脳が何テラバイトだか知らないが、桁違いであることは間違いないだろう。画面越しの曖昧な接続で良かった。ガチで神経繋いでたら人間性なんて軽く吹っ飛ぶだろうね。母語の読み書きがそれなりにできる年齢は10歳前後かな? 動画配信をテレビのようなものと考えるなら、5歳前後でもインターネットに触れられる時代だ。結局いつもの場当たり戦術、ネットリテラシーを小学校でも習う。だけれど、果たしてそれだけで足りるのだろうか? 個人攻撃と自戒の祈り。人格否定と要らぬお節介。怒りと正義。私と君とか。本当に区別が付くのだろうか? 上手く選り分けられるのだろうか? 齢1桁の子供が相手だ。無知と後悔、虚妄と残酷。そんなものを押しつけてやしないか? 魔女の宴か断頭台か知らないが、落とし穴が多すぎやしないか? 人間性の微睡みの中で、やたら煩い目覚ましの声。空ろな心に殺意の芽生え。笑顔を貼付、切取元は何処? 無貌の悪魔が人間のフリ? 全員人狼、ゲームは負け確? 認知的現実、バグまみれの今日。いつも世界は狂っていると、狂える心はそんなつぶやき。こんな感じで言葉の乱打に小さな心が潰れないように、一旦大きく距離を取ってから、少しずつ詰めていけばいいんじゃないでしょうか。ゆっくり気長にいこうぜ。
不足すると、ガラバゴス化して複雑なものになっていきます。独自ルールがどんどん増えていき、ある程度を超えると生きづらくなっていきます。洗練するという行為は、複雑化したり単純化したりの試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ新機軸の種を飲み込んでいくもの。ご都合主義的に何か素晴らしいものがポンと出てくるわけではない。星空のバイアス。背景が複雑になっていることに、現実に追われるその場の人たちは気付きにくい。ガラパゴス化一辺倒だと、より良いものを得るのにやたらと時間が掛かってしまいます。グローバル化一極で没個性になるのも問題ですが、シンプルな生きやすさを求めるための道具として、行ったり来たりを繰り返した方が時間効率がいいんじゃないかなと思います。
拗らせると、グローバル化の魅力に取り憑かれ、押しつけがましい自称正義を振りかざすようになります。結果として、言語が死に、文化が死に、人間性が死に絶えます。平和が失われます。万人の万人に対する闘争とか平然と言い出し、他者は打ちのめす対象にしかならないからです。多様性なんて想像の埒外でしょうね。もはや既にグローバル化ですらない公害じみた何かなんですが、これがグローバル化だと言い張ります。他者を受け入れる精神的な『余裕』がないままに、グローバル化だけを追求すると大体こんな感じです。当人が万人に対して闘争を仕掛けているだけなんですが、それが当たり前だと信じ込んでしまう。本人はそれなりに受け入れてくれる人もいると思っているが、あくまでそれは相手が圧倒的にデキた大人だからで、割と生暖かく要監視されてるだけだ。グローバル化に限らず、価値観がひとつしかないと誤謬訂正が仕事をしない。誰しもが通る道ではあるので、まず『余裕』を確保して、視野を広げて折り合いをつける。あとは認知的背理法だね。グローバル化を一度否定してしまった方が、かえってグローバル化がなんなのかがよく分かる。本当に大切なものがあるのなら、ごっこ遊びと思って一旦否定してみること。特に価値観は、輪郭がぼやけたまま盲目的に信じやすい。その思想背景を深く信じ、愛したいのなら、自己陶酔に気を取られているようじゃ、下手の横好き止まりになってしまう。
人間×存在×評価×空間軸として、グローバル化について考えてみました。
思想は本当に拗らせやすいな……。まるで他人事と思えないから恐ろしい。
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