423 「障害がある」を笑い飛ばす143
さて、政治性の「もっともらしい」だけで考えると、どうやらこのへんが限界だ。
しかし、社会性の「もっともらしい」が理解っていれば、どう変わるだろう?
この場合、「まとめる人」は必須ではなくなる。
なぜなら、「まとまる人たち」に置き換えることができるからだ。
わざわざ頭を抱えて、まとめようとしなくて良くなる。放っておいても、勝手にまとまってしまうからだ。それが社会性の「もっともらしい」というものだ。
なんでそんなことができるのか?
それは、自分で感想文を書くこと、そしてほかの人の感想文を読むことによる。
ともに追体験をして、心に残ったことはなにか? どんな心変わりがあった? これらを読んだり書いたりする。すると、結果として、おたがいの心をいくらか共有できるわけだ。残りの共有していない部分、心の多様性を残しながら、それなりに相手の心も理解できるようになる。
政治性の「もっともらしい」、ヘーゲルの弁証法によれば、最終的には「まとめる人」を中心とした、中央集権的なつながりになるだろう。
しかし、社会性の「もっともらしい」であれば、インターネットのような網の目のネットワークを作ることができる。
もちろん、インフルエンサーのように、網の目のネットワークのなかで集権的な「まとめる人」がいることにも問題はない。しかし、全人類をフォロワーとするような完璧なインフルエンサーはいなくてもかまわない。それでもちゃんとまとまることができる。