18 宣伝と広告<コマーシャル>
まずは大量の宣伝と広告。
それらをひとつひとつ、個別に見れば、君のためを思っているんだ。
格好いい服装? 美味しいご飯? 健康的な生活? もっと文化的なもの、教育的なもの、娯楽、エンターテイメント。
それぞれ、とても素晴らしい!
が、それら全てが一気に押し寄せた場合、意味が変わってしまう。
君は理想的な生活(?)を手に入れるべきとテンプレートを押しつけられ、その支払いは全て君持ちだ。実際、広告にあるものを全て揃えるなんて世界を買うぐらい無謀で、理想的な生活なんてそもそも存在しない。誰もそんなことはしていない。ただ自分の人生してるだけなんだ。
そんなことのために、君が奴隷のごとく働かされて、それでもなお足りぬと広告で鞭打たれるなんて冗談じゃないだろ?
ただ、広告が多い時代に生まれてしまっただけだ。
だから、スルーしよう。
広告に反応するから、広告が価値を持ってしまい、広告が世界にあふれるんだ。
皆で広告スルーしまくれば、自ずと広告は減っていく。
実際、広告は「掴みの一言しかない小説」「小説のプロローグだけ試し読み」のようなもの。基本的に不完全か、不公平なコンテンツだ。食事は最初の一口が一番おいしい、なんてよく言われること。見かけ倒しも多く、最初から最後まで素晴らしい内容であることは稀だ。完全でもなければ、公平でもない。それが広告だ。
さて、大量のチラシはそのまま精神衛生的にゴミ箱へ。
新聞と広告の蜜月は、多くの人に教養をもたらした。だが、いつしか癒着となり、公共放送や電子化と広汎にわたった結果、目的と手段が入れ替わるなんて本末転倒だ。
しかし、世捨て人になりたいわけでもないだろう。
理想的な生活なんて願ってしまうのはそもそもなんで?
というわけで、SNSについて考えてみよう。
人は『余裕』を見せびらかすのに必死だ。息をするように自慢をし、それを止めたら死んじまうと思っている。
もちろん、息を荒げるなんて品のないことだ。呼吸はさりげなく、でも深く。
映えを求めてスマホを掲げ、短文投稿&写真をアップ。他人の不幸と悪戯も添えて。
誰かの火葬で暖を取る。そんな呪術も、凍えた心には丁度いい?
凍えてなんかない? そうだね、ホントは良く妬けているのかも。
網膜が妬けるのは、憧憬が強すぎるからだ。そりゃ勝てないよな。
心に遮光板を。自分の心に真っ当な『余裕』を。
『余裕』を分類、『ゆとり』と『あそび』。『余裕』に振り回されるようじゃ『ゆとり』の段階だね。距離を取る。適切な距離を決める。その決定権は君自身にある。
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