モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプスK618
"Ave verum corpus"は、レクイエムK626と同じく、モーツァルトの亡くなった年(1791年)に作曲されたものです。これ以前に作曲された宗教曲は、K427のハ短調ミサ(1782-83)ですから10年近い空白があるわけです。
何か機会や注文がないと作曲しない当時の作曲家の例に漏れず、モーツァルトもザルツブルクの大司教の支配下を離れると、大量に作曲してきた宗教曲を送り出す必要がなくなったということですが、ハ短調ミサがコンスタンツェと結婚できたことを祝福するために作曲されたことは何とも暗示的です。
この曲にも彼の妻が関係しています。その年の晩春に妊娠して具合が良くなかった彼女を連れて、ウィーン郊外の温泉保養地バーデンに行き、その地で仲良くなった合唱指導者のアントン・シュトルツのために、これを贈ったのでした。その初演もバーデンのザンクト・シュテファン教会で、小さなチャペルの中にレリーフが掲げられています。わたしがバーデンを訪れた際にそれを見つけて、思わず「へえ」と声が出ました。
バーデンでの湯治が効果があったのか、コンスタンツェは無事に出産しました。生まれた子どもはFranz Xaver Wolfgang Mozart、後年モーツァルト2世などと名乗って音楽家として立とうとしましたが、親の七光りが通用すべくもなく、全く知られていません。ザルツブルクのモーツァルトの生家にその肖像画がありますが、いかにも才能がなさそうな感じでした。
バーデンには、ウィーン市内からクリーム色のトラムが出ています。チンチン電車では何時間かかることやら、乗ったことはありません。ウィーンのミニチュアのような街で、ザンクト・シュテファン教会だけでなく、ペスト塔やオペラハウス(屋外オペレッタハウスと言った方がいいかも)、カジノなどなどがほんの狭い地域にまとまってあります。ベートーヴェンの第9の家なんていうのもありますが、例によって天井の低い家賃の安そうなアパルトメントです。
この曲のテクストとその日本語訳は次のとおりです。
Ave, ave verum corpus
natum de Maria virgine,
vere passum immolatum
in cruce pro homine.
Cuius latus perforatum
unda fluxit et sanguine,
esto nobis praegustatum
in mortis examine.
めでたし まことのお体よ
処女マリアより生まれ給もう
人々のため犠牲となりて
十字架上でまことの苦しみを受け
貫かれたその脇腹から
血と水を流し給いし方よ
我らの臨終の試練を
あらかじめ知らせ給え
aveはaveo(健やかである、幸せである)の命令法で、「おめでとう」の意味の祝福の言葉で、Ave Mariaが最も知られた使い方でしょう。ちなみに本来のラテン語のvは英語のwの発音をしますから、「アウェ、ウェルム、コルプス」が正しいのですが、モーツァルト自身を含めてそんなふうに発音するヨーロッパ人はまずいないでしょう。テクストの内容は、まあ、イエスの受難に言及しつつ、その純潔、真正な肉体を讃えるといったところでしょうか。
2本のヴァイオリンとヴィオラ、オルガンの簡素な伴奏と混声4部で、ほとんど4分音符以上で書かれていて、メロディも大変シンプルです。おそらくシュトルツの率いる合唱団らの実力に合わせたのでしょう。しかしながら、しみじみとした味わいの名作で、レクイエムの次に知られている彼の宗教曲の一つかも知れません。
晩年の透明な心境なんていうふうに解説されることが多いようですが、あまり根拠なく、ロマンティックな解釈をするのはどうかなって思います。それならいっそのこと、志半ばにして倒れた英雄に一人連れ添う少女の趣とでも言ったらどうでしょうか。……
http://www.schillerinstitute.org/fid_91-96/fid_964_ave_ver.htmlに英語ですが、詳細な解説があり、【PDF version of the Ave Verum Score】をクリックするとスコアを見ることができます。