贈
「ただい……ま……」
玄関に揃えられた妻のパンプス。一足だけ横を向いた娘の靴。
棚の上に飾られた、季節によって姿を変えてきた置物。娘の絵。鍵を置く小皿。
傘立てに並ぶ、それぞれの者がそこにいるかのような、紺と鶯色と黄色い傘。
「お帰りなさい、あなた。」
「おかえり~!」
そんな声が聞こえるはずがない。聞こえるわけが無い。
そんなものは幻想だ。私は奥歯を噛みしめ、居間への短い廊下を歩く。
「話があるんですけど。」
妻の声。冷静、冷淡。いや、今だから理解する諦めと押し殺した怒りの感情。
「すまないが、急ぎじゃなければ話は帰ってきてから聞く。
着替えを取りに帰っただけだ。」
「そうですか。」
妻の横にある、新婚旅行以来、使っていなかった大きなキャリーバッグ。
娘が俯き、妻の袖を掴んでいる。
「なんだ、そのバッグは。」
私はネクタイを緩めながらシンクへと向かい、コップへと水を注ぎ飲む。
「……。
メールします。暇になりましたら読んでください。」
背中に投げかけられる声。
「わかった。」
そんなことよりも私の中を埋めているのは、追いかけ続け、やっと急所を抉る核心に迫ることが出来た政治団体のことだけだった。
6日後、帰宅した家には誰も居なかった。
『離婚届にサインして下さい
あとはこちらでやります』
その妻からの短いメールを読んだのは、今と同じように居間のドアに手をかけた、その時だった。
居間には何もなかった。
ただ、その中央には、かつて食卓を囲むように置かれていた椅子が一脚。
そこに腰掛けた、喪服のような黒いスーツを着た一人の男。
「これが……、
貴方の想いですかぁ?」
男は拭うこともせずに涙を流す。
「悲しいですねぇ。仕事に熱中するあまり家庭を失いましたかぁ?
そうですよねぇ? 職場では賞賛されていましたよねぇ?
社会正義の為に働き、否定されるようなことは微塵もしていなかったはずですよねぇ?
纏め上げ、心血そそいで作り上げた作品はベストセラーになりましたよねぇ?
どうですか? 得たものと失ったもの。どちらが上でしたかぁ?」
「うるさい。」
「うわああああああああん!!!!!! おーいおいおいおい!」
男がドロドロと溶け出すように号泣する。
「一生懸命、一生懸命にやったはずなのにぃぃぃぃい!!
一生懸命に生きていただけなのにぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいい!!!」
いや、目の前の男はその自ら発する熱に本当に溶けていた。
ズブズブ、ズブズブとあぶくを立て、どろどろに溶けていった。
自らを焼き焦がす熱意、失意、苦悶。何もかもが混じり合い、発熱し、溶解していく。蝋燭が最後には自らの灯に耐え切れなくなり、原形を留められないように。
「うくっ……」
部屋中に蔓延する肉が焼け焦げる臭い。その臭いに嘔吐しそうになり、口を手で押さえ私は膝をついた。何故だ、何故、私の過去を知っている。この男は。
胃、いや内臓の全てがギリギリと締め上げられる苦痛に襲われ、耐え切れず溶解した男だったものに吐瀉した。
シャリ シャリ シャリ
ふいに聞こえる微かな音。
呼吸を整え口元を拭う。私の中で、嫌悪感が恐怖を凌駕し、そして怒りが上回る。睨みつけるように音のする方、キッチンへと視線を上げる。
男は、妻がよく付けていたエプロンをして、ジャガイモの皮を剥いていた。
「お前は……、何なんだ。」
「あぁ、名乗っていませんでしたっけ?
私、マサキと申します。」
その男は、私が先日訪れたバーのマスターだった。
「私には、それはそれは、とても大切な親友がおりましてね。」
男は剥く前のジャガイモを目線の高さに掲げ、まるでジャガイモに話しかけるように続ける。
その視線はまるで愛する人を想う、恋慕のような恍惚とした表情だった。
「彼はねぇ、想いを。強い想いをねぇ。
それはそれは強い想いをね、このジャガイモのような岩にね。
情念やら嫉妬やら憤怒やら。あぁ、端的に言えばその若さをね。
その岩のように硬い意思を岩に、意思だけに。多くを言わずにね。
乗せて投げることが出来るんですよぉ!」
私の背後から、ゴトッという無機質な音が微かに聞こえる。
「当然にッ! 当然にその「想い」を受けたく、
承けたく、感じたく、浴びたく思うじゃないですかぁ!!」
私を掠めるように、ヒュッという音が抜けていく。
直後、男の顔面に何かが当たり、グシャという鈍い音が耳へと届く。
「あぁ! もっと! もっとですよ!!
その想いを私は感じたいッ!!!」
次々に飛来する何か。見えない何か。
見えるはずがない。男の言う通りそれは情念なのだから。
その見えない情念に、男が歪み、砕かれ、流血しながら壊されていく。
「まだまだまだまだぁぁぁぁぁぁあああッ!!
たまらん! あぁぁぁぁたまらんッ!!!」
もはや、そこにあるのは肉塊だった。そこに高さを維持しているのが不思議なくらいだ。へこみ、ひしゃげ、歪んでいく男。
ぐしゃぐしゃになっていくその肉塊は、もうその原型、男の様相は見る影もない。
ゆっくりとカウンターキッチンの影へと倒れていく。
重たい岩を床に落としたかのような鈍い音が響く。
静寂の中、軋む音を立て、私の背後にあったドアが開く。
誰かが私の背後に寄る。姿勢を落とす衣音。そっと肩に手が置かれる。
いや、誰かではない。見なくてもわかる。マサキという男だ。
「貴方を突き動かしたものは何ですか? 悲しい思い出ですか?
それとも、やりきれぬ強い怒りですか? 誰に向けてですか?」
マサキの声が近づく。首筋に浅く吐息がかかる。
「違いますよねぇ? それはまやかしですよねぇ?
言い訳ですよねぇ?」
そして一呼吸置いた後、耳元で囁かれた。
「好奇心……、でしょ?」
肩に置かれた手は柔らかく優しかったが、抗うことのできない力が在った。
ゆっくりと私は男の方へと向きを変えられていく。
「私もねぇ、
貴方のそれと同じです。貴方のことが、その想いが知りたい。
それをねぇ、私は「GIFT」と呼んでいます。皆様から頂いてきたのです。
さぁ、貴方は私に何を贈ってくれますか?」
大きく見開かれたマサキの両眼。私は捕食動物に睨まれた餌のように目を背けることが出来ず、ただ見つめられた。
その目はまるで深い古井戸の底のようだった。光も何もない。全てを飲み込まんとするかのような深淵漆黒。覗くのは私か。覗かれているのが私か。
私の、
好奇心の原動力は何なのだ。好奇心の奥底にある感情は何なのだ。
暗闇の奥底でうねる大蛇。爛々と目を光らせ、短く舌を出す。
それが私か。それがお前か。
飲み込まれるのか。
私は私に。
「さぁ! 見せてくださいねぇ!! 貴方を!!!」
そこに在ったのは、部屋中を埋め尽くす漆黒の目、目、目だった。