鍵
微かな空調の音、緩く付けられた室内灯。閉められたカーテンの隙間から明かりが差し込んでいる。ベットに付けられていたデジタル表示を見て、もう昼近くであることを認識する。
気だるく身を起こし、備え付けの冷蔵庫を開ける。ミネラルウオーターを一息に半分ほど飲む。
室内を見回す。まるで盗みに入られたかのように散らばる書類。脱ぎ捨てられた衣服。申し訳程度のデスクの上には、空になった酒瓶。そして充電ケーブルに繋がれたスマホ。
自分のスマホであるのに、まるで異物のように状況にそぐわない存在だ。
覚醒し始める脳味噌を後押しするため、もう一口、二口と水を飲む。
昨夜はホテルに帰り、資料に目を通しながら思案に耽り、そしてそのまま寝てしまったか。若干、頭が痛む。
思案、とは言っても何一つ解決も前進もしたわけではない。ただ一つ一つの情報を読み直し、接点を探し、次への道を模索していただけだ。そして何も見つかってはいない。私は前進していない。
床に落ちた資料を拾い上げ、ひとまとめにしてクリアファイルに挟んでいく。
鞄に入れる段階で、別のクリアファイルに目が留まり思い出す。そういえば昨日の領収書は財布の中に入れたままだったか。領収書など経費処理に使うファイルを取り出し、財布を開ける。
領収書と共に入っていたカードを手に取る。「BAR I-KASAM」。
そんな名前の店だったろうか。領収書に書かれた店名と見比べる。「咲樹」。夜だけ店名を変えて営業しているのだろうか。
アイ、カサム……、イカサマ?
カードの裏を見る。そこにはいつの間に書いたのであろうか、簡単なメッセージが添えられていた。
「興味がおありでしたら行ってみてください。」
そしてラーメン屋の店名と住所。お勧めのラーメン。
飲んだ後の締めに立ち寄るならば、なるほど。ささやかな心遣いだ。
だが夜は明けてしまった。私はカードをスマホの上に置いた。
「次への道」としては程遠そうだが、今のところ進む道がほかに見当たらない。
熱めのシャワーを浴び、身支度を整え部屋を出る。読めなかった朝刊を拾い、鞄に入れる。ふと、閉めた部屋の扉を見る。もうここに戻らないような気がしたが、それは錯覚だろう。私はロビーカウンターで連泊する手続きを終え、今日の目的地へと向かった。
カードに書かれた住所通りに向ったはずだが、そこは閑静な住宅街だった。
こんなところにラーメン屋などあるのだろうか? それに昨夜訪れたバーから、かなりの距離がある。帰りに立ち寄れるような距離ではない。この土地の地理に疎い私は、現地にたどり着いて初めてそのことを理解した。
「それでね、ともくん、その時見つけたお宝がね……」
「え? まーちゃん? 散歩で何処まで行ってきたの??」
高校生の男女4人組が向かい側から歩いてくる。学校が近くにあるのだろうか。
すれ違う直前に、大人しそうな男の子が話に夢中になっていたせいか、躓き転びそうになった。咄嗟に後ろを歩いていた友達が手を伸ばし、抱き寄せるように助ける。なかなかのイケメンぶりだ。
エクストリームヘヴンフラッシュ? 謎の叫びが通り過ぎた私の背後から響く。きっと若い子の間で流行ってる言葉なのだろう。
私は振り返ることなくそのまま歩き、錆びついているカーブミラーの立っている角を曲がった。目的の住所。確かにそこにラーメン屋が存在した。
「シャッセ。」
暖簾をよけると、短く太い声に迎えられた。
一人で回しているのだろうか。店員はカウンター越しの親父以外に見当たらない。時間帯のせいかもしれない。お客もいなかった。
特に席を勧められなかったので二人掛けのテーブル席に腰を下ろす。店内には紙に書かれたいくつかのメニューがまるで短冊のように張られていたが、茶色く変色し、それだけの時間の長さが伺えた。
一通りメニューを確認するように店内を眺める。どこにでもある古いタイプのラーメン屋だ。流行っている様子もない。いわゆる常連、そして学生向きのラーメン屋のようだ。
スマホケースに忍ばせておいたカードを見る。
「タンメン、野菜マシマシ、麺ヌキで。
胡椒強めでお願いします。」
正直なところ「麺ヌキ」にはしたくなかったが、カードに書いてある「お勧め」の通りにオーダーした。
飲んだ後なら良いのかもしれないが。
持ってきた新聞を広げ目を通す。地方紙、この地域の新聞。特に気になるニュースは無い。一応、お悔み欄にも目を通すが、知っている名前は無い。
「オマチ。」
提供された丼ぶりから湯気が上がる。見た目は普通のタンメンと変わらない。残念ながらそこに麵は無いが。
初めにスープを蓮華で掬い一口飲む。優しい味わいだ。想像よりレベルは高い。
空腹のせいもあり、私は一気にそれを味わった。悪くない。身も心も労わってもらえているようだ。
その中で飽きを来させない胡椒の刺激。私は休むことなくそれを食べ続けた。
最終的には丼ぶりを両手に持ち、スープも全て飲み干した。満足感が四肢まで行き渡る。血流にのって温かさに満ちる。
「ごちそうさまでした……」
深く、ゆっくりと吐き出す息と共に、自然に言葉が出る。
丼ぶりをゆっくりとテーブルに置く。
ふと空になった丼ぶりに目が行く。雷紋、ラーメン丼ぶりの縁に描かれたお馴染みの図柄。そこに交じって四角く描かれた文様がアルファベットに見えなくもない。
H、Y、A、H、A、A、A……。
何かしらの「意図」に動かされているような、自分の意思に寄らず目的地まで勝手に進む電車に乗ってしまったような気分だ。バカな。そもそも電車には自分の意思で乗ったじゃないか。
頭をリセットするために目を瞑り、一度大きく深呼吸をする。
立ち上がり、会計を済ませようと伝票をもってカウンターへと進む。
伝票と共に五千円札を取り出し、トレーへ一緒に置いた。
親父が無言で清算し、お釣りをトレーに置く。お釣りの千円札4枚を財布に戻し、続けて小銭を取ろうとした。
「ん?」
小銭に交じり、錆びついた鍵が置かれている。その鈍い赤銅色は、一見すると一緒にある十円玉によって隠されるものかもしれない。だが形状のそれは長く、どこかのドアの鍵のようだ。
お金と間違えて置くような代物ではない。
「あの……」
親父に声を掛けようと視線をあげた時には、そこに誰も居なかった。
くつくつと湯気を立てる寸胴。微かに揺れる奥と店内をセパレートするすだれ。
私はその「錆びついた鍵」をポケットへと入れ、そのラーメン屋を後にした。