兆
微かに軋み音を立てた扉を開け店内に入る。からん、と来客を知らせるカウベルの音色が静かに響く。
店内は照明に温かみを持たせ、夜闇に慣れた目には優しかった。僅かな珈琲の香りとアルコールの香りが混じり、鼻腔を掠める。昼間は喫茶店、そしてこの時間帯、夜はショットバーを営むアンティークな店。こじんまりとしていて落ち着く店内だ。
奥のシートに女性二人組。不思議な艶を感じる。こちら向きに座っている、眼鏡をかけた女性が入店者の私をちょっとだけ見たが、直ぐに視線を戻し相方との話を再開させた。時刻は20時を回る手前、ここら辺りのキャバクラ嬢が出勤前に立ち寄った、というところだろうか。
他に客は見当たらない。バーに客が入るには早すぎる時間か。だが私には都合の良いタイミングだった。
私はカウンター席の入り口近くに腰掛ける。
「いらっしゃいませ。」
私だけに聞こえる程度の静かな声と共に、柔らかく目の前にコースターが置かれる。コースターに描かれた黒猫の図柄がエジプトの壁画を想起させる。
耳に入った声質、そして見た目からして40歳前後だろうか。身なりは整えられ、見た目相応の落ち着きを感じられたが、特徴のない男だ。いや、印象を意図的に消しているようにすら感じられる。深読みしすぎだろうか。
こちらの緊張を悟られないように視線を下げる。
「ウィスキーをロックで。」
「モルト、でよろしいでしょうか?」
「あぁ、銘柄はお任せで。」
バーカウンターに立つ男が磨いていたグラスの手を止め、ロックグラスへ静かに氷を落とし、自然な流れで琥珀色の液体を注ぐ。
静かに流れるオールディーズに交じり、氷が解ける。
「マスターはこのお店、長いんですか。」
コースターに静かに置かれたウィスキーを一口飲み、尋ねる。
「そうですね、10年ぐらいになるでしょうか。ショットバーのマスターとしては務めてそれぐらいですね。
日中は叔父が長年、喫茶店をやっていましてね。夜だけ借りているのです。
マスターとは言っても仮のマスターですよ。」
柔らかい声と共に、グラスの傍らに落花生を茹でたものが提供される。
「お店、で言えば40年近くになるでしょうか。私も学生の頃はここでバイトさせてもらいました。」
「40年、ですか。このお店はずっとここに?」
「えぇ。」
落花生を一つ、口に含む。お酒を提供するお店だからだろうか、塩味が少し強めに仕上げられている。
ウィスキーでそれを飲み込み、痺れを味わう。
「実は、ギャラリー、画廊を探していましてね。
ここら辺りにあるはずなんですが。」
「画廊、ですか。……思い当たりませんねぇ。
お客さんは、肘川市は初めてですか?」
「えぇ、仕事で。」
私は名刺を取り出し、カウンターへ置いて差し出した。
マスターが置いた名刺を手元に引き、丁寧に整える。
「ルポライターをなさってるんですね。
取材か何かでこの街に?」
私はそれなりの大手出版社で長年の間、記者、編集者として勤めた。しかし、書きたいものを自身の手で書きたくなり、フリーライターとして6年前に独立。幸運なことに努めていた出版社の他、縁のある他社へと定期的に記事を納めることで生活は維持できた。特別、贅沢は必要としていない。
不幸なこと。それは言い過ぎだろうが、独立したとて書きたいものを書けるるわけでもない。オーダーの合間を縫って、あるいはそれを利用して細々と「書きたいもの」を書いていた。
「えぇ、たまたまこの街の郷土料理の取材に来ましてね。
折角だから大学時代の友人の顔を見ようと思いまして。」
一瞬、背後から聞こえていた女性たちの声、店内に流れるBGM、音と時間そのものが消えたように感じた。
マスターが目を細め、微笑を浮かべる。
「郷土料理についてなら色々とお話しできるのでしょうが、生憎と画廊については存じ上げませんね。
きっと郷土料理やこの街については色々と調べ上げていられるのでしょう?
小さな街です。私の知る限りではこの辺の他、市内に画廊があるという話は聞いたことがありませんねぇ。」
嘘だ。
「この街に画廊がない」という話ではない。私が目的として来た画廊の住所はここなのだ。だが、確かにマスターの言う通り、このバー、この喫茶店の風貌は長年蓄積された色が出ていた。
私は職種柄、多くの「不可思議」、理解や常識の範疇外のものを見てきた。いや、見ないようにして過ごしてきた。そんなことに構っている暇など無かったからだ。「日常」に不可思議などは必要ない。
しかし、そういった「不可思議」が心に一段、また一段と煉瓦を積み、私の「好奇心」を掻き立てていった。
私は新聞、週刊誌、雑誌。雑多な「情報」の中から、疑問に感じたものをスクラップするのが趣味だった。
その中でこの「肘川市」で起こる、ここ一年間の事故の数々。自然現象や偶発的人災の一つとして報道されていたが、そこに違和感を感じた。明らかに頻発している。
そしてネット上で見つけた「画廊」の噂話。だがその画廊は調べても調べても、何処にも実在していなかった。唯一、ここの住所だけが見つかったのだった。
「お代りを、同じもので。」
私はグラスにあった琥珀色を飲み干し、コースターへと静かに置いた。
マスターが「言われた通りに」というようにボトルを手に取る。布巾を丁寧に添える。時間がゆっくりと流れるような錯覚を覚える。
「珈琲もお出しできますよ?」
「いや、それをお願いします。」
マスターがグラスへ氷を足し、静かに琥珀色を注ぐ。その色は長い時間をかけて作られた物語を思わせた。そしてそれは私の元へと運ばれる。
「お会計をお願いします。」
「好奇心は我々を未来への衝動と掻き立てる。だが過ぎたる好奇心は身を亡ぼす。
誰の言葉だったでしょうか。」
はたとマスターの顔を見る。
だがマスターはちょうど、ボトルを棚に戻すところで、私に背を向けていた。
声は正面から、いや耳元へとかけられたはずなのだが。
「領収書はご必要ですか?」
マスターが振り返り、柔らかく微笑む。
「えぇ、お願いします。あて名は書かなくて結構です。」
私は注がれたばかりのウィスキーを半分、飲み込んだ。
「生憎、私は名刺を持っていないものですから、店の名刺を。
また近くにいらっしゃった時には、是非お立ち寄りください。」
差し出された領収書と店名が書かれたカードを受け取り、清算する。
残りのウィスキーを一気に飲み、私は受け取ったものを財布へと入れた。
店を出て夜風を頬に当てる。
まだ夜は更けていない。しかし思考を回転させるために私は、宿泊先のビジネスホテルへと足を向けた。
街の雑音を避けるため、独りの無音を求めていた。