君が啼いた日
――――泣くこと自体が、依代であり、供物なのだ。
そう、村長は言った。
例えそれが、一つの命を犠牲にするものだったとしても。
海と山の恵みで生きる我らの集落にとって、海難を避け、豊穣を導くためにも、×××の死は逃れられない運命なのだ。
***
――――落下するような感覚を伴う覚醒には、とてつもない疲労感が付きまとう。吹き出すような汗をTシャツの袖で拭い、ばくばくと脈打つ心臓を深呼吸で落ち着かせる。
隕石でも落ちたかのような、圧迫感のある何かに圧し掛かられたような倦怠感が全身を包んでいた。
――――最近、酷く嫌な夢を見る。
大切な人の死を望まれて、その手を離してしまう夢だ。意識も自我もはっきりしており、ある程度自由に動けることから、これが所謂明晰夢というものなのだろうかと考察している。
そして不思議なことに、僕はこの夢の結末を、「大切な人の手を離し、結果としてその人を失う」というものだと知っているのに、実際夢の中の世界は、そこまで時間が進んでいないのだ。
また、「僕」の視点は夢に登場する誰のものでもなかった。まるで幽霊にでもなったかのように、その出来事を観察している。ではなぜ、僕がこの夢の中で「自分が大切な人を失う」と認識しているのか。
――――それは、その該当人物が、僕と同じ顔をしているからに他ならない。
果たしてこれは、いったいどんな意味を持つ夢なのだろうか。
予知夢? ――――服装が古臭すぎる。絶対に違う。
ゲームのやりすぎ? ――――和製ホラーやバッドエンドは嫌いだ。
僕の願望を、何らかの形で投影したもの?
……その説が、一番説得力のあるものだった。
なにせ、大事なところで大切な人を手放してしまう情けない青年は僕、失われる少女と、二人の親友である青年の二人は、僕の幼稚園から高校まで同じ学校に通う友人たち――――つまり、幼馴染である彼らと、全く同じ外見をしていたからである。
そして二人は美男美女、子供の頃からずっと一緒だということも相まって、学校の中では公認のカップル扱いされている。
僕? そんな二人に構い倒されるおまけかマスコットか、みたいなものだ。粗雑に扱われないのは二人のざっくばらんな性格と、二人に乞われて僕が持参するお弁当がそこそこ人気を評しているからだろうか。
……だからと言って、好きな女の子が他の奴とカップル扱いされていて気持ちがいいわけではないけれど。
「あーあ、とうとう僕も焼きが回ったかなぁ」
夢日記でもつけてきちんと考察し、いろいろ考えてみようかとも思ったけれど、「ゆめにっき」でググった時にその恐ろしさに震えてやめた。だからホラーはNGなんですって。事務所通してください事務所。特にどこにも所属はしてませんけど。
脳内で、一周だけ。忘れないように日記の内容を反芻する。それが最近の日課になっていた。村長だというひげおじいちゃんの言葉に愕然とする幼馴染三人衆の真っ青な顔まで思い出したところで、僕は「……よし、」と呟いて今日のお弁当を準備するためにキッチンへと向かった。
***
きんこんかんこぉん、と昼を告げるチャイムが鳴ると同時に、僕の机に二つの机が合体させられ、がらりと教室の扉が開く。のんびりと課題を説明していた日本史の瀬古先生が、机を移動させた少女――――美作朱音と、教室に飛び込んできた青年――――冴島睦生に「おいおい」と呆れた声を上げた。そこそこ緩い彼はまぁ良いか、と呟いてそのまま説明を終わらせると教室を出ていく。
「チャイムが鳴ったのに続けるせんせーが悪いのよ、昼は戦争よ戦争」
自分の分と睦生の分の机を動かし終えた朱音がそう言って定位置であるお誕生席に座る。睦生も無言で僕の正面に座った。
「まぁ瀬古さんだからよかったけど、数学の竹島さんとかだったヤバかったよ、今日のは」
「竹島の4限ではそもそもやらないから安心して」
「……うん、せやな」
僕の小言をさらりと流し、朱音はきらきらした瞳で、睦生は無言だがきゅうくるくる、ぐぐぐぐぐるぅと音を立てる腹部で弁当を要求してくる。
僕は二人のこうしたおねだりに弱い。普段は色々なことで敵わないし口でも言い負かされっぱなしだけど、なんだかこういうときだけは二人の面倒を見ている気がして、ついでに自分が大切な二人に必要とされているんだっていう承認欲求まで満たされてついつい嬉しくなってしまう。卑屈? そんなの承知の上さ。
ポーズばかりの溜息を吐いて、机のわきにかけていた、風呂敷に包まれた大きな包みを取り出す。中身は、大きな――――それこそ重箱と言ってもいいようなお弁当箱だ。中にはレストランを営んでいる我が家の昨晩の残り物から始まり、二人のリクエストを聞いて作ったおかずやおにぎりがこれでもかとぎっしり詰め込まれている。
運動部の睦生は勿論のこと、ほっそりしていて力を入れたら折れてしまいそうな印象しか抱かない朱音も、かなりの健啖家なのである。多分これにデザートがある、と言ってもペロリと平らげるだろう。
「待ってました、ごかいちょー!」
「朱音、なんか下品だぞそれ」
「今日初めて聞いた睦生の台詞がそれなの、なんかヤだな」
そんなこんな軽口を叩きながらぱこぱこと重なった弁当箱を開けていく。1段目は昨日のあまりのサラダに、睦生に1か月前から小遣い貰ったらお金渡すから作って、と頼まれていたローストビーフを乗せたもの。2段目は梅干しとおかかのおにぎりが5合分。これは余ると睦生の部活中のおやつになる。ちなみに彼は高身長を活かしてバレー部の所属だ。うちのバレー部弱小だけど。だから入った、なんて言ってるけど、なんだかんだ熱心に自主練してるのも幼馴染である僕と朱音は知っている。
3段目にはオーソドックスな「ザ・おべんとう」のおかずたち。今日のお勧めは細かく刻んだ紫蘇と梅肉の入っただし巻き卵です。これは朱音のリクエスト。それと耐熱の容器に入ったグラタンも。冷凍食品によくあるやつだしそれで良くない? 占いとかついてるし……って言ったんだけど、「アレを……りっちゃんが全力で作ったお弁当が私は食べたいんだ……ッ!」って某堀りの深い顔立ちと謎の筋肉を大量に使うポーズで有名な漫画みたいな熱力で力説されて押し切られてしまった。だがまぁ自信作である。朱音はそれを見て歓喜の悲鳴を上げた。
「りっちゃん大好き!」
「はいはい、ありがと」
此処で僕も好きだよ、なんて軽口でも言えたらどんなにか楽だろうか。しかしマイハートイズチキン。放り込んできたお手拭きと割り箸を二人に渡すのが精いっぱいであった。
「――――りつ」
お手拭きで手を拭いて、割り箸を割って、さぁいただきます――――なんてタイミングで空気を切り裂いたのは睦生だった。彼のタイミングはどこかズレていて、そこがまぁミステリアスで魅力的――――なんて言われてもいるんだけど、すこん、と勢いを落とされることも少なくなかった。
「うん?」
「顔色が悪い気がする。……具合悪いのか?」
首を傾げ顔を覗き込んでくる彼にどきりとする。
――――心当たりならバチバチにある。そう、あの夢だ。あの夢をみるようになってから、正直寝ても寝た気はしないし疲労はたまる一方。正直勘弁してほしい……が、同じ顔の人間たちが動いていることもあるし、内容が内容だけにココロの病を心配されるんじゃないかという不安もあって、二人には夢の話をできずにいた。
「なんでもないよ、変な夢みちゃっただけ」
「ふぅん」
どんな夢? と掘り下げてこないところが彼の良いところだ。普段は聞きたがる朱音も、目前の食事に気を取られてか「辛いんなら5限保健室に行きなよ?」の一言で済ませてくれた。それにありがとう、辛かったらそうしようかな、なんて返しながら、気を取り直して手を合わせる。
「とりあえず、まずはお昼を食べちゃおう。……いただきます」
僕に続いて、二人も生き物、農家、僕、その他諸々への感謝の言葉を口にしてから端を手に取る。
普段通りの、それでも楽しいランチタイムが始まった。
***
「皆さんこの町にある弥栄神社はご存じですね? そうです、あの、須佐之男命を祭神とする神社です。先生、あの神社でずっと気になっていたことがあるんですよね」
リーディング担当のはずの英語科教員、森江がそう語り始める。発端はテキストに書いてある日本の宗教観についての文章からだった。
一神教が多い欧米の視点から見る日本の「八百万の神」という発想は面白いですね……なんてところから始まり、神社にまで話が飛ぶ。語りだしたら止まらないのだ、、この女史。ただ、こうして語った何気ない話なんかを定期試験の長文問題に出してきたりするから要注意なのである。
「あの神社、主祭神が須佐之男命で、他の神様はお祀りしてないんですよね。だいたい主祭神以外に他の神様も祀っていることが多いんですけど……あの神社はかなり古くからあるといいますし、須佐之男への信仰が厚かったのでしょうか?」
人差し指を口元に当ててこてん、と首を傾げる彼女を視界の隅に捕えつつ、僕はノートの端っこに「弥栄神社」「スサノオ」とメモを取る。
――――その直後の、ことだった。
フラッシュバックとでもいうのだろうか。視界の中心にあった文字が生きているかのようにぐにゃぐにゃと形を変えて崩れる。そうして、同じ言葉が何度も何度も脳内で点滅した。
『――――くこと自体が、――であり、供物なのだ』
『――――、×××の死は逃れられない運――――』
落ち着こう、と大きく息を吸い込もうとしたのが間違いだったのかも知れない。のどがひゅう、とか細い悲鳴を上げた。心臓が高鳴る。あの夢を見たときのような、酷い重圧に身体が締め付けられているかのような。
胸元を抑えようとして、がたん、と腕を机にぶつけた。振動でシャープペンシルが床に落ちる。その大きな音に、教室中の視線が僕の方に集まった。
「りっちゃん……?」
隣の席に座る朱音が心配そうにのぞき込んでくる気配がする。近寄って来ようとするそれを手で制して、僕はふらりと立ち上がった。
「立科くん、大丈夫ですか?」
不安そうに見つめてくる先生に頷いて、「授業の邪魔をしてすみません」と謝罪する。
「でも、ちょっと体調がすぐれないので……保健室に、行っても、かまいませんか?」
「ええ、勿論です。付き添いは必要そうですか?」
いいえ、結構です。と首をふり、逃げるように、でも体を引きずりながら教室から出る。ひどく疲れていて、体が重くて、一刻も早く横になりたかった。
――――寝たらどうせ、あの夢に浸蝕されるのに。何故かその衝動に抗えない自分がいた。
***
周囲の集落との大きな隔たりである山々と、湾曲した岸辺。それらに囲まれた孤立した小さな村で不定期に行われる、須佐之男命への捧げもの。
それは、『須佐之男の啼きいさち』を再現したものであった。
死んだ伊邪那美――――妣の役として、一人の少女を生贄に。そしてそれを、須佐之男役の青年が狂気に侵されるているかのように泣き続ける、そんな、狂っているとしか言いようのないもので。だというのに、天変地異が起こるたびに、凶兆がでるたびに、村はこの祭儀を繰り返してきたという。
そうして日照りの続いたその年、妣役には双葉が、須佐之男役には三郎が選ばれた。
『――――逃げよう、双葉』
そう言ったのは、僕と同じ顔をしている古びた着物を着た青年――――三郎だった。漁業を営む家の三男坊で、家業を継いだ兄を助けつつ、村の中心ともいえる大きなお社である弥栄神社の神主様が子供たちに勉強を教える手伝いをしていた。
『爺様たちの動きなら、俺がわかる。大丈夫だ』
そう言って、震える双葉と三郎の肩を抱き込んだ体格の良い青年は、六汰。浅葱色の袴を履く彼は神社の後継ぎだった。
六人兄弟の末っ子だったというのに、上の姉弟はみな体の弱い母の体質を継いで亡くなってしまったのだという。……だが、それも今となっては方便だったのかもしれない、と三人は思っていた。
だって、いっとう三人に優しかった二人目の姉である仁菜江は、亡くなるその日の夕方まで一緒に遊んでくれていたのだ。しかも三人は、発作に苦しんで死んだその顔をお前たちには見せられない、と彼女の亡骸に手を合わせることさえも許されなかった。
――――すべてを理解したからこそ、思う。皆きっと、この因習に捧げられて死んだのだと。
計画は、後継として当日の祭儀の段取り、神職たちの行動を事細かに聞かせられていた六汰が中心になって立てた。何度か協力的すぎる彼を三郎が疑うことさえあった。何故、お前の家が一番被害を被るだろうにお前はそんなに協力的なんだ、裏があるんじゃないのか、と。
死ぬ役でないとはいえ、大きなお役目を背負わされた三郎も、きっと神経質になっていたのだろう。六汰はそんな三郎を落ち着かせるように穏やかに、しかし真摯に、「俺は逢ったことない神よりも、身近なお前たちのことが大好きだ」なんてまっすぐな言葉を投げかけた。そんな実直に言われては、正直恥ずかしいし信じるより他はなかった。
斯くして、三人の逃亡計画は実行された。双葉を妣役の祭壇――――伊邪那美が加具土命を産み落として亡くなったことに因み、火炙りにするための場所である――――に運ぶお役目の一人であった六汰が、他の者たちの飲み物に特製の眠り薬を仕込み、全員を昏倒させる。そうして、人気の少ないところを渡り歩きながら、三郎と合流した。
三郎の方は三郎の方で監視の者がいたが、命を削るものではないからかその目は非常に緩かった。そもそも小さな集落で幼いころから顔見知りである村民たちだ。落ち着かないから一緒に茶を飲んでくれないか、などと言われたら、ほんのりこいつか六汰が双葉を嫁に取るんだろうなぁなんて考えていた人々はつい哀れになってその身に寄り添ってやろうと同じ卓についてやってしまったのだ。
――――しかし、上手くいったのは社を出るまでであった。後継として手塩にかけて六汰を育てていた曾祖父たる神主は、その性質を何よりも理解していた。きっとあの愚直な曾孫は幼馴染たちを逃がすことを選ぶだろう、と。
見張りの位置が、綺麗に変わっていた。誰もいないはずの場所に立つ見知った顔に出くわし、「贄が逃げたぞ! 男も一緒だ!」などと叫ばれ、三人は慌てて逃げだした。
勝手知ったる村の中だ。一度山に入り、隠れ、息を殺して追跡を交わし、また見つかり……何度目かで、最初に六汰が欠けた。……否、自ら二人を逃がすために村人たちの前に飛び出していったのだ。
「大丈夫だ、俺は酷い仕置きは受けるかもしれないけれど、神社の跡継ぎだから殺されない。でも、お前たちは違う。爺様は替えの効くものだと思ってる。でも、俺にとって三郎と双葉の代わりはいない」
いつも通り、二人を抱き寄せて六汰はそう語った。いつも通りのはっきりとした声音ではなく、見つからないよう細心の注意を払った、押し殺した声だった。
「だから、二人で逃げてくれ。二人がどこかで幸せに生きてると思えたら、俺は大丈夫だから。絶対に絶対に、捕まるな」
飛び出していこうとうする六汰の着物の裾を、双葉が握った。けれどそれを三郎が宥める。三人とも、涙でぐちゃぐちゃの顔だった。
「大好きだ、二人とも」
――――だから、どうか、幸せで。
そういって六汰が駆け出していく。すぐに、彼を見つけたと叫ぶ大小さまざまな声が森に木霊する。その大きな音の群れは、二人が息を潜めて聞き耳を立てていると徐々にその場から遠ざかっていくようだった。
「きっと、六汰が私たちが逃げた場所を誤魔化したんだ……」
呟く双葉の手を握って、三郎はそうだな、と頷いた。そうして、「六汰の気持ちを無駄にできない、行こう」と彼女の手を引いて歩き出す。双葉はずっと、歩きながら声を押し殺して泣いていた。
六汰の策略通りだったのか、歩みを進める度に人の気配は遠ざかり、村の端にある川に着いたころには二人のか細い息遣い以外、木々が風に靡く音さえしなくなっていた。
「この川を越えて、軽く山を越えたら隣村のはずだ。……双葉、歩けるか?」
問いかけつつ三郎は振り返り、息を呑んだ。双葉の顔が、能面のように真っ青になっていたからだ。繋いだ手から、彼女の震えが伝わりだす。はっきりと、双葉は何かに怯えていた。
「三郎、あれ」
繋いでいないほうの手で、双葉が対岸を指さす。宵闇のなか、其処には植物と山に潜む動物以外何もいないはずで――――目を凝らした三郎がまず気付いたのは、何かの存在ではなく鼻腔にまとまりつくぬめりとした磯の香りだった。
漁師の家で育った三郎は知っている。これは、夏独特の海の香だった。潮の香りに交じりった、何かが腐ったような臭い。その、嗅ぎなれたはずのものが異様に感じられた。全身の産毛が逆立つ。
何故ならば、この川は海につながっているとはいえ――――上流、なのだ。磯の香りがするはずがない。腐臭が濃い。三郎は双葉を庇う様に抱え込んだ。
気付いた。気付いてしまった。匂いを認めた途端、対岸に居る者たちに気づいてしまった。あれは亡者だ。うごうごと折り重なり蠢きながら、こちらに手を伸ばしてくる。誘う様に、引きずり込むように。
三郎の頭に一瞬浮かんだのは、三途の川、という言葉だった。そこを渡れば、もうそこは彼岸。黄泉の国。幼いころ、祖母から何度も聞かされた。川は異界との境なのだと。
恐らくもう、儀式は既に始まってしまっていたのだ。もしかしたら、神主の爺が何らかの手段で始めたのかもしれない。そうして、妣たる双葉が黄泉に逝かないから、あちらがこうして迎えに来た。きっとそういうことなのだろう。
ずぶずぶと、彼岸の闇は深くなる。腐臭は増し、既に身体に染み付いた磯の香りなどもう感じられなくなっていた。もうこの川は渡れない。だが、ここ以外逃げるすべはない。どうする、どうすればいい――――
本能的な恐怖に抗いながら打開策を考えようと、ただ腕の中の温もりを抱きしめて唸るその手を、双葉がそっと抑えた。
「三郎、」
柔らかく言い聞かせるような声音なのに、それは否やを言わせない強さを持っていた。その手に促されるまま、三郎は彼女を抱き込んでいた手を降ろす。そうして最後に、つないだ手が名残惜しそうにつぅ、と離れていく。
「ァ、だめだ、双葉」
彼女の糸を察し、三郎は彼女の着物の袖を引いた。まるで先程、彼女が六汰にしたように。散々山の中を駆け回って逃げ惑った彼女の着物は、儀式用の美しいものだったというのに薄汚れてところどころ避けていた。
双葉はそれに振り返り、ふわりと微笑む。何もかもを決めてしまった、曲げられない意思を宿した顔だった。三郎は、「だめだ」「やめてくれ」なんて、陳腐な言葉を呻くことしかできない。
そんな彼に、双葉は裂けた切れ目から着物の袖を破いた。同時に、三郎と彼女の最期の繋がりも断たれてしまう。
「ありがとう、三郎。六汰にも、伝えてね」
――――ふたりとも、だいすきよ、わたしも。
双葉の顔には、恐れが滲んでいた。泣きっぱなしだった目尻からは未だに涙がこぼれ続けていた。三郎が感じているようなものの何倍もの恐怖が、彼女の心の中を侵しているはずだった。だというのに、片袖をなくした少女は、意を決したように境の川へと足を踏み入れる。
たぷん、と、水に浸るというよりも、泥の中に沈んだような粘り気のある音が響いた。何か重たいものを背負う様に、体をひきずるようにずるずると、彼女は蠢く影の方へと向かっていく。
そうしてその身が彼岸へと到達するや否や――――蠢いていた手が、一心不乱に彼女の体めがけて纏わりついた。深い霧の中に消えゆくように、彼女の体が消えていく。
きっと彼女は振り返るまいと、思っていたのだと思う。しかし、最期の最期、彼女は三郎の方を振り返った。恐怖と、悲しみに満たされた、真っ青な顔だった。
三郎はただ、彼女の着物の裾を握りしめ、その様を見送っただけだった。身じろぎ一つできず、いつか嫁にしたいと思っていた愛する娘が異境に連れ去られるのを、黙って見届けた。
「ぁ、ぁぁ――――」
膝を着く。贄を得たことに満足したのか、彼岸は徐々にその姿を消し始めていた。腐臭が薄くなり、磯の香りが満ち――――最終的には、元通りの景色だけが残された。
「う、わぁぁ、ぁぁぁぁぁ――――――!」
三郎は慟哭する。六汰と別れた時よりも痛切な声で、喉が切れそうな音で、全身を震わせ、地を殴り、愛する人の形見だけを大事に抱えて、何度も何度も叫んだ。いずれ自分が迎え入れられる常世とはあんなものだったのかという恐怖に、おぞましいものを見た恐怖に立ちすくみ、大切な人の手を離した自分への無念さに、彼女の最期の表情に。無力な自分に、狂ったように泣き喚いた。何故手を離したのか、なぜあんなに怖がっていた彼女を一人で逝かせたのか、一緒に逝ってやればよかった、嗚呼、嗚呼、嗚呼。
次第に夜が明けるに連れ、人の気配が三郎を囲んだ。彼は泣き腫らしたせいで充血した赤い目で、神主を睨みつけてから気を失った。
そんな彼を見下ろして、神主が言う。愚かじゃの、と。
「村長が言うておったろうが。――――泣くこと自体が、依代であり、供物なのじゃ、と」
***
「あかね」
保健室の前で座り込み、ぼんやりしていた少女の名を少年が呼ぶ。部活の途中なのか、ジャージに身を包んだ睦生だった。
「おつかれ、むっちゃん」
彼はパックジュースを二本抱えており、片方を朱音に渡し、もう片方にストローを指す。一口飲んでから、「どう?」と尋ねた。
何のことかなど、言わなくてもわかる。……中のベッドで魘されているりつのことだ。保健室に辿り着き、ベッドに倒れた彼は酷く魘されだしたという。そのあまりの様子に保険医が何度も起こそうとしたが反応はなく、よほど疲れているのだろうという結論になったようであった。けれど、そのあまりの悲痛さに、ほかの生徒を中に入れることもできず――――保健室には今、『立ち入り禁止/用のある生徒は職員室へ』という看板が掛けられている。その看板を見ずとも、時折漏れてくる唸るような声でわざわざ中に入ろうという生徒は居ないだろうが。
そうして朱音も入ろうとしたが保険医に諫められ、こうして外で待っているという次第であった。
「わかんないけど、きっと――――最期の時を、見てるんじゃないかなぁ」
ぎゅう、と朱音の手がパックジュースを握りしめる。爆発の危機を感じた睦生が慌ててそれを取り上げた。
「そうか……ごめん」
「なんで謝るのさ」
むっちゃんは悪いことしてないでしょ、と微笑む朱音に彼は首を振る。睦生には、何度彼女に否定されようとも後ろめたいと感じていることがあった。
「だって、俺は、知らないんだ。あの時二人を置いて、結局爺の思うままに動いて――――お前を、三郎を、そして双葉を、恐ろしい目に」
そこまで吐き捨てるように語りだした睦生の口を、朱音が人差し指でとどめる。これ以上は言うな、と瞳が語っていた。
「なぁ、六汰。それは結果論だよ。……もしあの時俺たち二人があそこに居合わせてたって、どっちも動けてなかった。……アレは、そんな簡単に立ち向かえるものじゃない」
朱音は――――前世、三郎という好青年であった少女は、いまだにあの闇の深さを実体験のように覚えている。それ故に根性では暗所恐怖症になってしまった。そして川を渡るのも一人では嫌がり、夏の海辺に近寄ることを拒む。睦生はそんな彼女を見るたびに、二人を置いて逃げたかつての自分、六汰という男の事を憎んでいた。
「でもさぁ、六汰。俺、今まで安心してたんだよ」
「何が?」
朱音は睦生と二人きりで、「三郎と六汰」として話す時だけ、口調がひどく崩れ男のようになる。彼女はそれを、「自分の中に住んでる三郎に体を貸してるだけだよ」と笑っていた。
「りつに……双葉に、なんの記憶もないこと。ああ、今生では、あんな因習の消えたこの世界では、何も知らずに幸せになれるって」
でも、思い出しちゃったんだなぁ、多分。なんとなくわかるんだ。
か細くそう呟いて、朱音は睦生の方に手を出す。飲み物を寄越せという無言の催促だった。彼は黙ってストローを指してやり、そっと手渡す。彼女はそれを一口飲んでから、再び口を開いた。
「俺とお前で、もう二度とあんなことにならないようにって全部消したのにな」
「……ああ、そうだな」
――――三郎が気絶して目覚めた後、儀式が変則的な形とはいえ無事に終了したからか、遺された二人にはあまり強い咎めはなかった。故に二人は話し合い、曾祖父がなくなったと同時に儀式に関する記録をすべて抹消し、もう二度とあのような恐ろしく残酷なことが起きないようにと村民の意識改革にも奔走したのだ。
――――結果として、今この町には、あの神社が残るのみ。儀式の儀の字も出てこない。幼いころ、りつに出会ったと同時に前世のことを思い出した二人は、再開に喜びの涙を流し、此の村の恐ろしい秘密が全て消し去られていることに安堵の涙を流したのだった。
「なぁ、三郎」
睦生はあまり、朱音をかつての名で自発的に呼ぶことは無い。話の流れで数度あっても、自分からというのは非常に珍しいことだった。
「なんだ、六汰」
「……今年の夏ってさ、冷夏で、異常気象だよな」
「……何が言いたい?」
ズゴゴ、と睦生がジュースを飲み干す。そして彼は丁寧にパックを潰し始めた。俯きがちになったその表情を、朱音が見上げる。
「その年に、双葉の記憶が戻ったの、なんて。なんの関係性も、ないよな」
恐る恐る、という風に疑問を口にした睦生に、朱音はひょいと自分の隣に置いていた鞄を手に取り、がさごそと中を掻き回し始めた。
――――その中から取り出したのは、何故か藁人形である。
「なぁ六汰、諸葛孔明の饅頭の話、知ってるか? 人身御供の首の代わりに、饅頭投げ入れたってやつ」
「あ、ああ、有名だし…」
言わんとしていることを察し、六汰――――否、睦生は正直引いた。かつて親友だった男の生まれ変わりである少女は、前世の経験からかたまにトチ狂ったことやぶっ飛んだことを言ったりやったりする傾向にある。
「……それで良いんじゃないかな、って思うんだ。人の代わりにこの藁人形神社で燃やして、俺とお前で前世の事――――双葉の事を思い出して泣くんだ。それってある意味、『僕は妣が国、根之堅洲国に罷らむと欲ふが故に哭く』ってことだろ」
ほらやっぱり、ちょっとぶっ飛んでるって。
内心でそう独り言ちながら、睦生は「アア、ソウダナ……」と遠い目をして答えた。願わくばそれをやって火遊びで補導されませんように、だ。ついでに花火持って行って神主に花火がしたいって言えば誤魔化せるかな、なんてところまで意識を飛ばした。
「それで赦されないならさ――――今度は、俺が行くよ。多分、今俺がこの容姿で、しかも女に生まれてきたのって、それが理由なんだと思うから」
「朱音……」
その瞳には、確固たる意志が宿っていた。おそらく何よりも誰よりも前の生に捕らわれているのは朱音だ。当たり前だ、目の前で、縁だけを遺されて、大事な人の手を離した。その鮮明な記憶は、文明が発達し前時代的なことがすっかり消え去った現代でも、この少女に楔のようにまとわりついている。
「その時は、おれもいくからな」
「足が竦んで動けないに小遣い三か月分賭けるわ」
ふざける朱音の頭を軽く叩いたところで、保健室からドタン、という誰かがベットから落ちたような音が聞こえてきた。それに二人で顔を見合わせる。
「さて、どうやら我らの姫が目を覚ましたようだ――――行こうか」
「嗚呼、そうだな」
そうして二人は、立ち入り禁止の看板を回収しつつ保健室に入る。
その後確認を重ねた結果、りつが自分のことを三郎だと勘違いしていることに二人が愕然としたり感謝したり、様々な想定していたことが覆されて裏工作に奔走したりするのはまた、別の話である。
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