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キサキさん。だったもの。

 兄が。

 そこには立っている。

 息を激しく乱し、目が血走った兄が。

 キサキさんがいたはずのその場所に。

 まるで入れ替わるかのようにして。

 兄が怒りの瞳を、地面に向けている。

 私もそこを見る。

 そこには。

 そこには。


「いっ――――」


 反射的に、私は叫び声を抑えた。

 だが心の中では尋常じゃない声を叫び散らす。

 そこには腕があった。

 厳密には、手と手首。

 その指には、可愛らしく赤いマニキュアが塗ってある。

 その腕は、誰のものでもない、キサキさんの――。


「志津香、大丈夫か!?」


 数秒遅れて兄は私を見遣る。

 これまで見たこともないほど焦り顔で、普段は見えない筋肉が隆起している。

 死の淵に追いやられた妹を助け心配する兄。

 そうなんだけど。

 でも。


「キサキ、さんが……」

「落ち着いて聞いてくれ。キサキは、あいつは向こうの世界からお前を殺すために来た暗殺者で――」

「知ってる!」


 それはもう。

 知っている。


「でも、キサキさんなの!」


 自分でも何を言っているのか。何を言いたいのか。

 わからない。

 でもただ、そう叫びたかった。

 訴える私の顔を見て、兄は続ける言葉を飲んだ。

 すると、兄が空けた異世界とこちらとを繋ぐ亀裂が、ぐるりと渦に飲み込まれて消える。そこにはさらに巨大な円が出来上がり、夜空の向こうに巨大な円窓が現れ、その先に晴れた昼空が見えた。


「色々話さなきゃいけないことが多いけど、まずは後始末だ」


 兄はそう言ってゆったりと立ち上がり、空をねめつける。

 異世界の穴からは白い太陽光が届いていたが、次第にその白い円が黒く塗りつぶされていく。まるで排水溝の鼠のように、うようよと何かが集まり、こちらを覗き込んでいる。


「あれ、は……?」

「ウラだ」

「あれが。向こうの暗殺者集団?」

「ああ。向こうに飛ばされた俺を留めるための時間稼ぎ要因だったらしい」


 「ああ」。久しぶりに聞いた。

 でも今は、突っ込む気力もない。

 ウラと呼ばれた黒い装束を身にまとったやつらは、見るに数百人はいそうで。

 彼らは決して友好的とは思えない瞳でこちらを睨みつけている。


「志津香。少しだけ暴れるぞ。隠れとけ」

「暗殺のプロでしょ? あんなにいっぱいいるのに、大丈夫? 今回も誰か助けてもらわないの?」

「無理だ。今や、あっちの世界全員が敵だと思った方が良さそうだ」

「そんな……」


 あちらの世界とこちらの世界の衝突。

 それはキサキさんが言っていた、開けるべき未来なのに。


「大丈夫」


 不安に駆られる私に、兄はそう言った。


「俺がいる」


 こぼれそうになった不安を、兄がそっと受け止めて支えてくれる。


「シンディ!」

「きゅう~!」 


 シンディの甲高い鳴き声が響き、草葉の陰から元気よく飛び出してくる。

 シンディは以前と同じように白く発光したかと思うと、その光の粒子が兄の全身をまとい、それは具現化されていく。

 フォトンスキンだかなんだかという、他人を体にまとうやつだ。

 仕組みは知らない。

 兄は白い装束を全身にまとい、以前とはまた少し違って顔も目以外を覆っている。


「これは初期に仲間が誰もいない単独行動の時に主に使ってたスタイルで、隠密に特化してる」


 聞いてないのに説明が始まった。何かそういう制約でもあるのだろうか。説明すると強くなるとか。

 しかも隠密って。白いのに。


「今隠密する意味なくない?」

「一人でやるときは、この方が気合いが入るんだよ」


 兄が両腕を前に出す。

 すると、そこに光が一閃入り、その一閃が槍の形状に固まった。

 兄はその白い槍を手に取る。

 そしてゴリゴリと首を鳴らし、軽い準備運動のようなものをした。


「今は向こうの世界と繋がってるから、フォトンも充実してる。久しぶりに本気を出せそうだ」


 いいから早く行け。

 どうせ戦うんでしょ。

 先にしびれを切らしたのは、相手だった。

 異世界への巨大な穴の半分を埋め尽くしていた黒い影が、一斉にこちらに飛び掛かって来る。あの高さから落ちて大丈夫なんだろうかとか、そもそも異世界でも空に穴が開いてるっぽいのに、どうやってあそこまでよじ登ったのかとか疑問を持ってしまうけれど、もはや異世界人は常識の範疇では語れないのだ。

 私はただ見ているだけ。

 モブらしく。

 主人公に救われる少年漫画のヒロインのごとく。

 ただ、見ていることしかできない。

 だから先に宣言しておく。

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