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ナイチェ

 逃げる。

 とにかく逃げる。

 見たこともない、真っ暗な旧日本家屋の中を、右へ左へと逃げ回る。

 そうすることしかできないから。

 草原でチーターに追われたかのような気分で。

 もうすでに生きた心地はしない。

 ――と。


 ズガガガァァァァ!!!!


 私が数秒前に過ぎ去った廊下が、まるで爆撃にでもあったかのように吹き飛んだ。

 驚く声をなんとか抑え込み、すぐそばにあった衣装ダンスの中へと隠れる。


「無駄なことはやめましょう。志津香さん」


 キサキさんの声が届く。

 私は、人一人分くらいの縦長の衣装箪笥の中から、そのわずかに空いた隙間から外を見ることくらいしかできない。

 キサキさんは特に音を隠すつもりもなく、きしんだ音を響かせながら、近づいてくる。


「じきに私も正常な聴覚を取り戻します。そうすれば、あなたの吐息一つ聞き逃しません。この星の裏側にいても、私はあなたを見つけられるでしょう。余計な犠牲を増やす前に、ここで潔く終わりにしませんか」


 彼女に問いかけたいことはいくつもあった。

 でも一言でも発すれば、殺されてしまう。

 彼女にそのためらいはないだろう。

 一歩一歩と近づいて来る音が大きくなる。

 そして、箪笥の中から覗き込めるわずかな隙間の先に、キサキさんの姿が見えた。

 息を、止める。

 キサキさんは私の場所を正確にはわかっていないようで、辺りを探しているようだった。そしてすぐそばに置いてある箪笥を見る。こちらからは、目があったように見える。彼女は気づいているのかいないのか、箪笥へと手を伸ばしてきた。

 私は咄嗟に扉を思いきり足で開け、キサキさんをひるませる。当然こんなものではひるまないだろうと思い、飛び出た後に元々傾いていた箪笥をキサキさんに向かって倒した。

 すると脆くなった床をぶち抜き、箪笥はキサキさんごと床下へと落ちていった。

 これはラッキーだ。

 即座に踵を返し、廊下をひた走る。階段があり、2階へと向かう。取り急ぎ入ったのは住人が書斎として使っていたのであろう部屋だ。中央に大きなグランドピアノが置いてあった。随分なお金持ちだったらしい。

変わらずあらゆるものが朽ちていたけれど、壁に取り付けられた懐中電灯を見つける。鈍器としては使えそうだ。

 手に取るが、もちろん電気はつかない。すぐ近くにあった引き出しを探ると、幸いにもまだ使われていないビニールに包まれた電池があった。それを手に取り、ダメ元で電池を入れる。真っ暗な視界でこれは命綱だ。

 心臓が、激しく鼓動をしていることに、今ようやく気付いた。

 口元から飛び出てきてしまいそうで。

 ぶっちゃけおしっこも出てきてしまいそうで。

 1階の先ほどまでいた居間から音が響き、びくりと体を震わせる。早くもキサキさんが脱出したのかと思いきや、次の瞬間には私の目の前の床が上へと吹き飛んだ。階下から飛びあがってきたそれはキサキさんで。


「いい加減にし――」


 瞬時に指が動き、キサキさんの顔に懐中電灯の光を当てる。

 するとさすがに予想もしていなかったのか、突然の強い光にキサキさんがうめき声をあげて目元を覆った。そのせいで着地を誤り、キサキさんは自分で開けた穴をそのまま真下へと落ちていく。

 これまたチャンスだと思い、キサキさんと私の間にあって、ぶち抜かれた穴に向かって傾いていたピアノを、私は思いきって蹴り押した。ピアノはゆっくりと傾いていき、そのまま穴を通って1階へと――すごい音が響く。まるでトムジェリのような、ピアノが破壊される音。


「し、死んだ……?」


 何の心配をしているのか。

 恐る恐る階下を覗く。

 もくもくと立っていた埃が消えていくと思いきや――何かが中から――。


「きゃっ!」


 らしくもなく可愛らしい声で言いながら、またもや上空に吹き飛んできたものを避けて床に倒れる。飛び上がってきた何かは2階どころか天井をも突き破って、しばらくの間上空を滞空していたのか、数秒後に降ってきた。

 ピアノだ。落としたピアノが、戻ってきた。

 そして――キサキさんも。


「諦めてください。すべてが無意味です」


 彼女は、私を諭すように言う。

 もはや逃げることに意味なんてない。

 これ以上どこに行けというのか。

 こんな化物から、どうやって逃げろと言うのか。

 異世界とはいえ、天下無双と呼ばれる英雄で。

 方や私は借金を返したばかりで何のとりえもない、ピチピチの麗しいただのJKで。

 結果は火を見るより明らかだ。


「どうして、ですか」


 だから私は尋ねる。

 せめて彼女の言葉で、真意を聞きたかったから。


「あんなに楽しかったのに! あんなに一緒だったのに! どうして……!」


 私を、殺すのがあなたなんですか。


「それが、私の世界の選択だからです」


 彼女は、語り出した。


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