nekonekonyaon
階段を下りたところで、布衣さんとのボイスチャットの音声が完全に途絶えた。
だから布衣さんの反応は聞いていない。
私はそのままダイニングを抜けて母の寝室である畳部屋に入る。そしてその奥に区切られた小さな物置スペースへの襖へと手をかけ、思いきり開く。
そこは帰ってきた兄のために用意された部屋で、部屋とも呼べないような小さなスペースだ。
以前は畳んだ布団くらいしかなかったのだが、みるみるうちに魔改造されていき、いつの間にか布衣さん顔負けのガジェット倉庫となっていた。
異世界を旅してきた兄にとっては、デジタル機器は珍しく面白いのだろう。子供のように目を輝かせて説明してくる。
その中に、一台のパソコンを見つけおもむろに近づく。
そっと電源を入れ、起動を待つ。
モニター画面がついたと思うと、ログインのためのパスワード入力画面になった。
「妙なところで警戒心強いのね」
ふと思いついた数字を入れ込む。兄の誕生日だ。
しかし当然、それはエラーをはじき出す。
そもそも何桁の数字かもわからないし、数字だけなのか条件も不明だ。
だが通常でいけば、英数字だろう。
何度か思いついた文字を打ち込むも、しかしそれはエラーを吐き続ける。
3度目のミスを犯した時、画面下部に『ヒント:あの愚かしき日』と書かれていた。
「『あの愚かしき日』……?」
なんでヒントまで厨二病なのよ。
誰も見てないこういうところくらい普通でいいじゃない。
それにしてもこの言葉の意味はどういうことだろうと思いながら、一つだけ私の中に浮かび上がった数字があった。間違っても死ぬわけじゃないし、と思い切ってその8桁の数字を打ち込む。
すると――。
「きた」
ログイン成功。
あの愚かしき日とは、兄がこちらの世界から異世界へと旅立った日だ。
私も明確に覚えていた。
すべてが変わってしまった、あの愚かしき日を。
兄が消えた日を。
たしかに愚かしい。ふさわしい名前だ。
デスクトップ画面に映し出されたフォルダの数々の中に、気になるものを見つける。
――“練習”
恐る恐るそれを開くと――いや罪悪感はありまくりなんだけど、気になってしょうがなかった――いくつかの画像ファイルが並んでいた。
気になって仕方がないと、寄り道感覚で一枚の画像を開く。
「なっ――! ななっなっ――!!」
兄が描いたであろう、あられもない男子の全裸姿がそこにはあった。
拙い線画で、決してうまいとは思えないその絵は、兄が天職とのたまうBLのそれだろう。
絵はそこまでうまくないのに、その妙に熱のこもった空気感が、私の目を捉えて離さない。
――いや、離せ離せ!
慌てて画像を消し、フォルダから離脱する。
まさか私の部屋の下で、日夜こんな卑猥な絵を描き続けていただなんて。
旦那が裏で麻薬を作っていたスカイラーの気分よ。
って、そんなことを言っている場合でも考えている場合でもない。
意外と綺麗に整理されたデスクトップ画面の中、私は他とは違い特に意味が明瞭となっていないフォルダ名を発見し、それを開く。
「ビンゴ」
そのフォルダの中には、見知ったMMORPGのゲーム名とアイコンが見つかる。
それをダブルクリックで起動させた。
ゲームはあっという間に立ち上がる――が、私のゲーム機とは違いパソコンだからなのか、ログイン画面が発生した。
「ええい。ままよ」
ここまで来たら私の勘を信じるのみ。
アカウント名を「nekonekonyaon」。そしてパスワードを先ほどと同じ「あの愚かしき日」にした。
すると、奇跡的にもログインが成功する。
――してしまう。
モニターには、例のギルドの酒場の一席でふんぞり返る見知ったキャラクター。
周囲の人たちは少し驚いたように遠巻きに私を見ている。
この時間帯にログインすることは珍しいのだろう。
一瞬ぼーっとしてしまい、すぐに我に返る。
そうだ。
そうだそうだ。
謎を解いた余韻に浸っている場合ではない。
兄がnekonekokyaonだとしたら――。
兄が、兄自身が、私にキサキさんが暗殺者だと警告してきたのだということは――。
「兄が、危ない――」




