お前はもう、社会的に死んでいる。
甲高いシンディの鳴き声で目が覚めた。
驚き、慌てて周囲を見渡す。
今は朝で、そこはベッドの上で、私は布団を被っていて。足元にはシンディがいて、しかし彼女は厳めしい表情で天井を見上げている。
「……何?」
寝惚け眼で天井の隅、日光が届きにくいその暗い場所に視線をやる。
なにかが、もぞりと動いた。
そしてそれは天井を這うようにこちらに近づいてくる。
「#$$#$#%##$%$&!!」
言葉にならない声を上げる。
数十センチはあろう巨大なクモが、こちらを見つめていたからだ。
数十センチ。ありえない。
それはあまりにも禍々しく、全身に生えた毛は触れるだけで昏倒してしまいそうだ。
「どうした! 志津香!!」
私の悲鳴を聞いた兄が許可もなしに部屋に入ってくる。
兄は目で、何があったのかと問いかけてくる。
「かかきくく、くくくく……」
あまりに驚きすぎて、言葉にならない。
こんなことってあるんだ。
「か? く? く、なんだ?」
「ああばばば……」
「く? わかった! 空腹か!? おなかが減ってるんだな!?」
違う! どうしてそうなるの!!
言葉にすんなり出てこないため、私はジェスチャーでクモがいることを伝える。
「ん? 両手を上下に動かす……わかった! 空中浮遊した夢を見たんだな!?」
違うわよ!!
「だ、くくく、く……」
「志津香、落ち着いてちゃんと教えてくれないとわからな……そうかっ!! クレントか!」
クレントってなに!?
知らない単語は突っ込めない!!
――と、真剣に私を見つめていた兄の上部に、もぞりと影が動いた。
先程の巨大なクモが、兄の頭上にまで這っていた。そしてその鋭い牙を剥きだしにする。
「あ、う、上!」
「上? 上……? 上下の上か?」
「クイズじゃない! 天井!!」
そこまで言って、兄は異変に気付き、しかし時すでに遅く、巨大なクモは兄の脳天にまで落下してきていた。
――と。
本来なら直撃したはずのクモを、兄はさらりと身をひるがえし避ける。
そして落ち着いて足の裏でクモを踏みつけた。
うげっ。
「おお?」
「そそ、そいつ! ずっと天井にいた!」
「キュウ! キュウ!」
シンディが兄の足元までジャンプして、抵抗するクモに向かって吠える。
「どうしてこんなところにこいつが……でも志津香よくこいつのこと知ってたな?」
「? 何の話よ?」
「クレントだろ、こいつ」
「そいつがクレントだったの!?」
クレントさんちわーっす。
って能天気なこと言ってる場合じゃない。
「クモって言おうとしてたの」
「ああ。なるほど」
なんて兄は変わらず能天気に言いながら、クモをシンディに向かって蹴りつける。
「シンディ。食っていいぞ」
「キュウ!」
「え」
そこから数秒間のシーンは言葉にしない。
バリボリ。
ギュリギャオ。
ブシュウブシュウ。
筆舌しがたい咀嚼音(悲鳴、うめき声)が部屋中に響き渡り、気が付けば数十センチの巨体を誇る巨大クモがその存在を否定されたかのようにこの場からいなくなっていた。
「ゲフッ」
シンディが満足げにゲップをして、また私のベッドの上にジャンプする。
そして足元で丸くなって眠り始めた。
「ひっ」
可愛いはずのシンディが、今はとてつもなく恐ろしく思える。
てかキモい。
「ねえ、今のってもしかして……」
「ああ、あっちの世界の虫だな。クレントは強烈な毒を持っていて、刺されなくても毒液に触れるだけで卒倒する。卒倒させた生き物を糸でくるんで巣に持ち帰るんだ」
「やっぱり……異世界……」
「まあデアドラゴンがこっちに紛れ込んでたんだから、これくらいの小さな生き物が迷い込んでてもおかしくはないか」
「いやいやいや、おかしいくはあるわーよ」
混乱しすぎて言葉もままならない。
朝から衝撃的なイベントだった。
まるで波乱万丈の幕開けを語るかのように。
「あ、そういえばウラなんかが、暗殺道具としてよく使ってたかな」
「それ! 絶対それじゃない!!」
出た、ウラさん!
「おもっきし暗殺しに掛かってるじゃない!!」
「あはは、大丈夫だって。これくらいなら俺は日常茶飯事だし」
「笑うな腹立つ! 殺されろ!」
「むしろ殺してみてほしいくらいだよ。やれるものならね」
「社会的に死んでるのに偉そうにするな! いいから出てけ! 乙女の着替えの時間よ!」
暖簾に腕押し。
馬の耳に念仏。
兄と当たり前の感覚を共有しようとしても無駄なのは、とうの昔に理解させられた。
ひとまず危機は去ったから良しとしよう。
嶺志津香17歳。今から華の女子高生生活である。
なんて切り替えの早さが、異常事態に順応しているみたいで少しだけ嫌になった。