あな嬉し
苦しい。
息ができない。
私はベッドの上に横たわっていて、天井を見上げている。
だけれど視界はどこかぼやけていて、体がまったく動かない。
まるで、ベッドの上に貼り付けられているかのように。
怖い。
本能で、真っ先にそう感じた。
でも動こうと思えば思うほど、私を縛る不可思議な力がよりいっそう増す。
怖い。怖い。怖い。
その無根拠な恐怖の根源が、黒い影が、私の視界の下から入ってくる。
瞳すら動かず、私はただそれが視界の中で動くのを見ていることしかできない。
それは。
その人型の何かが、私の顔に寄ってくる。
さらにいっそう、息が苦しくなった。
まるで息の仕方を忘れてしまったかのように。
違う。
これはきっと間違いなく、私の視界を覆いつくす黒い影が、私を殺そうとしている。
駄目。
抵抗したい。
したいけど、体は全く言うことをきかず動けない。
意識がさらに朦朧とする。
このままじゃ駄目。
死ーーーーーー。
「っ!」
突然、粘りつくように鈍化していた思考がフル回転する。
と同時に、黒く閉ざされていた目を開く。
開ける。
「ん?」
顔の上に何かが乗っていることに気が付き、それを普通に動くようになった手でどける。
「キュウ?」
「……シンディ?」
私の顔の上で眠っていたらしい白竜のシンディが、小首を傾げる。
すぐにシンディはもぞもぞと私の布団の中に潜り込み、再び眠りについた。
「夢」
どっと疲れが襲ってくる。
なまじ暗殺者に何度か殺されかけたからこそ、リアリティを持って体感できてしまった。
「正夢……ってことはないわよね」
「キュウ~」
私の独り言に応えるように、シンディが鳴いた。
階下から音が聞こえる。
母が朝食を作っているのだろうと思い、私は寝間着のまま1階へと降りた。
「あ、おはようございますっ」
キッチンに立っていたのは、母と、そしてなんとキサキさんだった。
キサキさんは学生服の上に可愛らしい黄色いエプロンを身に着け、手にはフライパンを持っている。ただの普通の光景であるはずなのに、モデルのように背の高いキサキさんがキッチンに立つと、なぜか妙に違和感がある。似合ってない。
「キサキさん、料理してるの?」
「は、はい。お母さまに教えていただいていて……」
そう話すキサキさんは、しかしその視線をフライパンに釘付けにしたまま動かさない。
「キサキちゃんがどうしても料理を学びたいって言うから」
母が隣で苦笑して私を見る。
「胃袋を掴むのよね? 創太の」
「ななななななっ! 何の話ですきゃっ!?」
キサキさんがあからさまな動揺を見せ、フライパンの上の卵焼きがミュージカルのように揺れ踊る。
母は再び小さく苦笑し、キサキさんのフライパンを持つ手にそっと自分の手を添え、菜箸で卵焼きをフライパンの上で丁寧に回転させる。
「なるほど」
それで突然料理を学び始めたのか。
ふむふむ。
良い心がけですな。
なーんて。
悟りを開いたオヤジか。
○
黒く焦げ付いた卵が、お弁当箱の中に鎮座している。
お昼休み、私はキサキさんが手伝ってくれたお弁当を食べていた。
見た目は黒いけど、味は悪くない。
キサキさんはセンスがいいから、すぐにコツをつかむだろう。
あれで料理もできて家庭的になったら、向かうところ敵なしだ。
お嫁さんに欲しい。告白の練習をしておこう。
「ハッピーニューデイ」
ささっと、私のテーブルに現れたのは、芽衣子ちゃんだった。
自分の分のお弁当箱を持っている。
「毎日が記念日だね」
「それくらいの気持ちで生きるのよ」
「そうなれればいいんだけど」
「お志津、お昼ご飯なのにつまらなさそう」
「んー、いつもは愛ちゃんがいるんだけどね」
「愛ちんは元気?」
「うん。毎日怒涛のようにメッセが来る。来週からは学校に来れるみたい」
「よかった。そんなことよりお志津に耳より情報ですがなにか?」
「そんなことよりって」
ずいぶんひどい言い草である。
「ぜひわたくしめと食事をしていただけませぬか?」
「あははっ。なにそれ」
「うぅ……」
「そんな改まらなくてもいいのに。一緒に食べましょ」
「お志津……天使か」
「ルシフェルよ」
「堕天使!? お志津もオタク知識があるんだ」
「うっ」
なんだか自分で言っておいて、とてつもない後悔。
なんか昔、兄の部屋にあった『世界の神・天使・悪魔大全』っていうのを見て覚えていたのだ。特に堕天使は兄がよく使っていた設定で、なんのことかと調べた記憶が鮮明に残っている。
「あの~それでなんだけどね、お志津」
「わかってる。ゲーム研究部のことでしょ?」
「あ、うん! あの、その、今度の大会が夏休み前にあるから、それまでで全然いいんだけど……」
「いいわよ」
「え?」
「ゲーム研究部。一時的にはなるけど、参加してみるわ」
「ほんとっ!?」
「そんな期待の眼差しで見ないで……本当にゲームの技術に関してはまったくだし」
「ううんっ。参加してくれるだけであな嬉し!」
「夏休みからは、私も塾とか本格的に受験勉強に向けて動き出すけど、それまでで良ければ」
「うんっ!」
喜び溢れる芽衣子ちゃんの顔を、正面から見ていられない。
純粋に喜んでくれている彼女には、私の思惑なんてこれっぽっちもわからないだろうから。
なんだか少し、申し訳ない。




