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領主館の少女  作者: 水月 裏々
紅茶色:ヴァーノン
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3. 帰帆

 深雪の純白と木々の鉄黒、閉ざされた冬のオーツ伯領。

 赤と黄の町並みと薄金の王城、麗しの王都アイテール。

 それからその間にあるたくさんの村、町々……。


 外に出て、彼は世界にたくさんの色があることを知ったけれど、どの色も自分を見上げて微笑んだ彼女の持つ色には敵わななかった。彼女と比べれば、どれも無色と同じ。何の意味もない。――でも、彼女が愛する青は嫌いだ。









 王都の西端。広範な宮殿の敷地と接する場所、森に囲まれ、森から浮かび上がるように王立学院はあった。学院の寄宿寮も、またその端に。


「う……相変わらずだな」


 寮の最上階、西の角部屋の扉をノックもせずに開けた青年は、室内を見回して思わずうめいた。額縁だらけの部屋。中身はすべて刺繍が施された布。大小様々。四方の壁のうち、窓や扉、寝台や机や衣装棚がない場所はほとんどそれで埋まっている。

 誰も使っていないのではと思うほど整い、生活感がない室内にその多量の額縁だけが異様だった。


「エドモンド殿下」


 冷艶で静かな声と、カサリと紙をたたむ音がした。椅子ではなく机の上に座って手紙を読んでいた人物が立ち上がる。この部屋の住人、オーツ伯爵の嫡子ヴァーノン・ウィルクスだ。学院での数年間で伸びた髪がするりと美しく肩をすべっていく。光にやわらく溶けるような髪。

 彼は感情の薄い瞳で闖入者である自国の王太子を見た。


「朝から何か?」

「せっかくの休日を手紙を読み返すだけで終わらせる残念な男を、親切な友人である私が遊びに誘いにきてやったのだ。まさか嫌だとは言うまいな」

「嫌だ」


 即答。王族相手に他の人間ならば不敬とされるようなことも、ヴァーノン・ウィルクスだけは許された。王太子自身からだけでなく、王家に絶対の忠誠を誓う人々からも。

 彼が持つ、そばに寄ることすらためらわれる美貌、剣才、叡智、孤高――……それゆえに。


 もはや彼を異物だと思う者はなく、髪と瞳の色を奇異に感じる者もなく。誰ひとり彼の出自を、その才知や学識を軽視し侮る者はいない。誰もが彼に畏敬の念を抱き、感嘆と憧憬の眼差しを向ける。


 でも、王太子エドモンドは友人だった。エドモンドは自身の地位も気にかけず彼に敬意を表し、何の含みもない真っ直ぐな親愛を向けた。本物の育ちの良さと誇りとで大空みたいに磊落に笑って。王太子以外には絶対にできない笑い方で。

 ヴァーノンはそれを少しだけ妬ましく思い、でもだからこそ友情を受け入れ、自分でも返した。


 エドモンドは決して彼に命令をしない。ただひとりの対等な友として遊びに誘ってくるし、誘いを断られてもいつものことなので気にせず、笑いながら脅しをかけてくる。


「後悔するぞ」

「なぜ」

「手紙が来ていたようなので、お前のためにわざわざ私が持ってきてやった。さて、私は街に行くが一緒に来るか?」


 ひらりと振られた封筒に、ヴァーノンの瞳が確かに明るくなった。蒼黒のインクで書かれた宛名。きっと中の便箋はいつも通り薄い青だ。先ほど読んでいた手紙と同じ。

 白い指でエドモンドの手から封筒をすっと抜き取る。ヴァーノンの美しい顔は相変わらず愛想が無かったが、エドモンドの知る彼の乏しい表情の中では最も微笑みに近かった。返事をする声もどこか嬉しげ。


「ぜひ。エドモンド様」


 こういうとき、いつも王太子エドモンドはこの美貌の友人が女でないことを密かに残念に思う。彼の心がたった一人の少女に囚われて続けていて、彼女からの手紙と額に入れた贈り物だけを大切にしていることも。





 クリーム色の壁紙にくるみ色のテーブル、たまご色のカーテンのついた優しい陽光を零す大きな窓。どう考えても女性向きのような気しかしない喫茶店に、深く帽子を被った青年二人。しかしどちらもそんなことは気にしていなかった。

 芸術的なまでに素晴らしい焼き色のスポンジケーキを黙々と咀嚼する。エドモンドは紅茶に何も入れないが、ヴァーノンはミルク入り紅茶どころか紅茶入りミルクを作っていた。



 ……ずいぶん前、学院の入学式が終わって数ヶ月経ったころ。それまでお互いほとんど無関心だった二人が初めて会話をしたのはこの店だった。ヴァーノンは王都に来たばかりのときに食べたここのスポンジケーキが気に入り、学院の外に出て近くを通るときはついでに寄っていたのだ。

 常連客でもないエドモンドと会ったのは偶然。


『うまいのか、その飲み物』

『……不味い』


 お忍びの王太子は気紛れに声をかけ、次期オーツ伯爵はそれに視線すら向けずそっけなく答えた。それだけで終わるはずだった。しかしそのあと『だがお前の髪と同じ色だ。瞳はケーキだな』と王太子は言ったのだ。言われたヴァーノンは微かに瞠目し、初めて王太子エドモンドを見た。『その通りです、殿下』と。



 それから数年。変わらず不味いと評した紅茶を飲み続けるヴァーノンが、カップの中の液体をかき混ぜながら想うのは、耳の奥にのこる幼く柔らかな声のこと。


 ――にいさまの髪の色はね、この色よ、あまぁいの。


 だんだん上達していく刺繍、手紙の文字。彼女はどれほど大きくなったろう。早く大きくなるといい。世界には青と白しかないと信じている少女。彼が世界に彼女しかいないと思っているみたいに。

 空を流れる雲を見れば彼女の無垢な寝顔を、寮の窓から木陰を眺めれば楽しげな笑い声を、夕焼けが青を染めかえれば優しく波打つ髪を思い出した。すべてに彼女の面影が宿っている気さえする。

 だから彼女は彼の『すべて』で、彼にとっての『すべて』は彼女だった。彼女にとって彼がどうであろうと関係なく。


 でも彼女を忘れようと考えたことは、ある。



『お前はもし自分が愛する女性が、別の人間を愛していたらどうする?』


 冬の日、誰もいない第八図書館でエドモンドが聞いてきた。らしくない質問だ、と思い顔を上げたヴァーノンは、それまで王太子がパラパラと捲っていた本を見て微かに驚く。それは、おそらく女性向けの恋愛小説だった。この学術書だらけの図書館のどこにあったのか。

 エドモンドは眉を寄せていた。


『私はそんな状況になったら、愛した女性の幸福(しあわせ)と彼女の相手が彼女にふさわしい人間であることを願うが。しかし……この本の登場人物は女性の結婚相手が立派な人物であるにも関わらず、殺そうとするのだ。意味がわからない。愛した(ひと)が幸福になって笑っていてくれるなら充分だろう。不幸にしてどうする』


 身勝手な男だと憤慨する友人を、ヴァーノンは眩しいような気持ちで眺めた。高潔な王太子。自分はどうするだろう。もし彼女(キャロリン)が別の男を愛し、選んだら? 答えはひとつで、単純だった。――彼女を殺す。

 愛して、愛して、愛して。

 同じ想いが返って来なくても構わない。でも、他の人間にその気持ちを向けたなら殺すのだ。一瞬も迷わない。後悔もしない。ためらいなく剣を抜いてその胸に埋める。

 彼女を永遠に失った痛みなどとは比べられぬほど強い、もう誰にも奪われないという安堵感、微笑みながら抱きとめるくずおれた彼女の感触まで想像して、わなないた。


『身勝手な男だ』


 エドモンドの言葉。相手の男のほうを殺した人間に対する。ヴァーノンは、ふと、どちらを殺す人間のほうがマシだろうと考えた。けれどたぶん、やっぱり友人(エドモンド)は怒って両方身勝手だと言うだろう。愛しいものを不幸にしてどうする、と。


 記憶の底で、兄様と呼ぶ声がする。――にいさま。


 キャロリン。幸せになってほしい少女、微笑ってほしい少女。でもそこに自分がいないのは許せない。微笑みが違う者に向けられるなど想像したくもない。自覚して、自嘲する。なんと醜い想いだろう。王太子(とも)の高潔さに比べ、なんと醜悪な自分だろう。


 こんな想いを知って、彼女は自分に微笑み続けてくれるだろうか。手に入れたとして、彼女が微笑んでくれなくなったとき、自分はどうするだろうか。彼女を……?


 その瞬間、確かに彼女を忘れようと思った。彼女にまったくふさわしくない自身に辟易して、しかし同時に想いをどうにもできないのを知っていたから。身勝手から彼女の命を奪う前に、忘却の箱に放り込んでしまおうと思った。今ならまだ間に合うかもしれないと。

 なのに、送られて来る手紙。

 日常のことが書き綴られたそれらは返信を送ろうにも、彼には「ああ」と「そうか」以外の何を書けば分からないものだったが、確かに彼だけに向けられた言葉が詰まっていた。開いて読まずにいられるわけがない。そして、青い糸ばかり使われた刺繍。

 忘れられるはずがなかった。あの領主館を出たときも、手紙の中でも、彼女は一度もヴァーノンに「さよなら」を言っていない。手紙が来なくなれば、彼女がひと言()()を言ってくれれば、どうにかなるかもしれないのに。手紙を開かずにすむようにできるかもしれないのに。でも「さよなら」のない手紙は毎月届いた。

 とっくに手遅れだった。彼自身にだって「さよなら」を言う勇気がないのに、それで忘れられるはずがない。





「お前、卒業してからもしばらく王都にいるか」


 スポンジケーキを口に運びながらエドモンドがそう聞いてきて、ヴァーノンは物思いから覚めた。陽の光に柔らかく照らされた喫茶店。眼前にはほとんどミルク色から変わっていないミルクティー入りのティーカップ。


「数年は」


 それは父であるオーツ伯爵と交わした約束のひとつだった。彼女(キャロリン)との結婚を許可する代わりに、ヴァーノンは彼女が十七歳になるまで会わない。なぜ十七歳かというと、それが両親が出会ったときの母の年齢だから、らしい。


「ふむ。ではその間私の補佐をしてくれないか」

「……あの強烈な妹姫と顔を合わせずにすむのなら」

「はは、気が合うな。私も妹は苦手だ。燃え上がる炎みたいな娘だな、あれの前世は獣だったに違いない」

「あなたによく似ているが」

「喧嘩は買わんぞ」


 フォークを皿に起き、屈託なく笑って、エドモンドはふとなにかに気付いたように窓の外を指し示した。


「おや、なあヴァーノン、あれはお前の幼馴染とかいう者ではないか?」

「……ああ」


 濃い色の髪と叔父セレステ子爵に似た体格。確かに、窓の外で一人の令嬢に声をかけている不審な男には見覚えがあった。最近学院に入ってきた従弟だ。


「それが何か」

「いや、だが口説かれている令嬢には見覚えがあるな、確かマイルズ子爵のところの娘だ。美人だぞ。気が強くて私の妹に似ているから好みじゃないが」


 そこまで言って、王太子は口をつぐんだ。窓の向こうでハンカチが落ちた。落とした少年はそれに気付かない。でもあれは……友人(ヴァーノン)の部屋に飾ってあるものの中の一枚とよく似た刺繍。

 濃い紅茶を飲み干して、聞く。


「で、お前はあの令嬢に話しかけている人間をどう思っているんだ」


 向かいの席に視線を戻して、後悔した。ヴァーノン・ウィルクスは窓外を見ていた。落ちたハンカチを。感情の無いようだった目が、寒気がするほど凄絶なものに変容している。長い沈黙。

 ようやくエドモンドを振り向いたとき、彼は宝物を取り上げられるのを恐れる子供みたいな()()をしていた。


「恋敵のようなものだ、と、そう思っている。いや……俺が勝手に敵視しているんだ。彼女に好かれているから」


 彼が失うのを恐れ、執着し、渇望するのは彼女だけ。エドモンドはそのあまりに切なく美しい顔を見つめ、一呼吸置いてから、哀れみを込めないように言った。


「学院に戻るか。お前はさっきの手紙を読むといい」

「ああ、そうしよう」




 この数年後。幼馴染が友人を連れて帰ったという話と、来なくなった『手紙』にヴァーノンは血相を変えて王都を飛び出した。海と空に囲まれたセレステ子爵領に向かって。

 十七歳になった『すべて』を手に入れるため。


 ――青と白の世界へ。

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