2. 沖つ風
キャロリン・レェンにあてがわれた部屋は、ヴァーノンのふたつ隣の屋根裏部屋だった。隣の部屋は以前は彼の乳母の部屋だったが、彼女が辞めてからは数年間空き室になっていた。そこに新しい赤子用の乳母が入る。
両親を亡くした「かわいそう」なキャロリンは、領主館の誰からも同情され、好意を向けられた。暇ができた女中達が入れ替わり立ち替わり彼女の部屋に訪れ、あやして子守歌を歌って寝顔を眺めていく。
女中達はヴァーノンを赤子に近寄らせようとしなかったので、彼は一年近くの間、ほとんどキャロリンを見ることすらなかった。しかしそれで構わなかった。……どうせ赤子の扱い方などわからない。
ただ、書庫の窓から見おろせる庭園を乳母に連れられ、よちよちと散歩するようになったキャロリンを見るのは気に入った。濃い紅茶色の髪が、陽光に透けてあかがね色に輝くのを、きれいだと思っていた。だから、それから書庫で彼が座ったのはいつも窓際の椅子。
空も海も相変わらず青かったけれど、それによってあの髪が引き立つのなら、それも悪くないような気もした。
彼が初めてキャロリンと、それから次期領主である若君とまともに顔を合わせ、会話をしたのは、彼女が来てから三年が経とうとしていた頃だった。
「ねえ、あなたは誰?」
いつも通り木々に隠された裏庭の一角で剣の稽古をして、海岸に向かったヴァーノンは、その声に階段を下りようとしていた足を止めて、ゆっくりと振り向いた。
兄妹のように、しかしやや乱暴にキャロリンの手を引いた、五歳の若君が話しかけてきたのだ。使用人達の目を盗んで抜け出してきたのか、子守の姿も乳母の姿も周囲に無い。
無視をしようと思って、やめた。若君の後ろで、大きなチョコレート色の目が自分を見ているのに気付いたから。そのとき、ようやく彼は彼女の瞳がその父親と同じ色だったことを知ったのだ。
だから、名乗ったのは、ほとんど彼女に向けて。
「……ヴァーノン」
潮の匂いの風が吹いて、キャロリンの髪をなびかせていった。赤く燃え上がらせるみたいに。
乳母や領主夫人は反対したようだが、領主であり父親であるセレステ子爵が何も言わなかったため、若君はヴァーノンを遊び仲間に加えることにしたらしい。別の時間、別の曜日に受けていた剣術の稽古も共に受けることになった。
でも、そんなことはヴァーノンにとってどうでもいいこと。彼の冷ややかに固まった感情の扉を揺らすのは、戸惑わせるのは、驕慢な貴族の子供そのものみたいな従弟の若君でなく。
「にいちゃま」
透き通っているのに暖かい声に呼ばれるたび、小さく柔らかな手が触れるたび、あどけない微笑みを向けられるたび、彼はどうしたらいいのか分からなくなった。
どこまでも深く純粋で、邪気のない真摯な愛情。そんなものヴァーノンは知らない。自分を見つけ駆け寄ってきて、嬉しそうに笑う。そんな生き物は知らない。
風に踊り、あかがね色にきらめく髪。
青い空に青い海、白い雲に白い波。世界は青と白だ。他には何もない。輝く暁の色なんて知らない。こんな感情なんて…………どうすれば良いのかなんて分からない。
ある日、庭園で母がキャロリンと一緒に笑っているのを見た。思わず立ち止まって眺めていた彼に気付いた母は、一瞬気まずそうな表情をしたが、やはり微笑んで息子を手招いた。
キャロリンが歩くたび、笑うたび、成長するたび領主館の空気は変わっていく。浄化されていく。
使用人達は相変わらず彼に積極的に関わろうとはしなかったが、いつのまにか嘲笑は消えた。でかけた領主は、息子だけでなく、キャロリンと甥にも土産を買って来るようになった。
「にいさま、いっしょに寝よ」
海鳴りに怯え、枕を抱えて寝室にやってくる子供。若君の寝台に誰かを入れると主人に咎められる危険があるが、ヴァーノンとキャロリンが一緒に寝ても誰にも咎められる心配はないため、彼の寝室に行くキャロリンを見ても、使用人達は特に何も言わない。
彼はいつも嫌だと言い張った。人のぬくもりなんて、ひっついてくる小さく柔らかな身体なんて、彼にとって脅威以外の何物でもなかった。愛情と同じで。
どうしても、無意識に求めずにはいられない。
「にいさま」
「……なんだ」
「ぽかぽかだね」
にっこり笑うチョコレート色の瞳に心が震えた。恐ろしかった。いつかこの笑顔を失うときを思って怯えた。だから遠ざけたかった。見えないところに行ってほしかった。手が届くと錯覚しないですむところに。
彼は注がれた愛情に報いるすべなど知らないし、彼女を繋ぎ止められるものなど、何ひとつ持っていなかったから。
しかし、そのくせやはり彼女を失うのが怖くて堪らない。
「ヴァーノン、父上がぼくを町に連れて行ってくださるそうだ。あなたも行きたいか?」
「……べつに」
わざわざ好奇と侮蔑の視線にさらされる趣味はなかった。領主館の使用人達はヴァーノンにほとんど無関心になっていたが、外は違う。そういう視線にさらされた後にキャロリンを見るのは最悪だ。無邪気な瞳に胸が苦しくなる。
一度、彼女が若君に付いて町に行ったことがあった。若君に手を引かれて馬車に乗り込むキャロリンを見て、彼はゾッとした。
行ってしまう? ――――違う。奪われてしまう。
いや、だめだ、いけない。
伸ばしそうになった手を引っ込める。あれは自分のものではない。自分は何も持っていない。若君と違って。
頭の奥で何かがささやいた。『こちらに繋ぎ止められないことなど分かっているはずだ。そうだろう?』その通り。
なのに、なのに彼女はそれから二度と町に行かなかった。いつもヴァーノンのそばにいることを選んだ。
あまりに嬉しく、それゆえに恐ろしく、小さな彼女を罵ったこともあった。でもキャロリンは微笑んだ。
「にいさまが一番すき」
彼女は海みたいだった。ヴァーノンが大嫌いな海。限りなく広がり、波打ち、光り輝き、すべてを飲み込んで浄化する。なのに彼女は青くない。口に入れれば苦いであろう紅茶色とチョコレート色。
だから引きずり込まれて、溺れてしまう。
彼は望んだ。切望した。渇望した。
生き方を選べるようにしてあげよう、と彼女の父であるレェンは言った。生き方なんてどうでもいい。
――ただ彼女のそばにいたかった。その微笑みが欲しい。
あとはなにもいらないから。
十四歳になったとき、運命は彼の手中に転がってきた。
「私の……あなたと私の息子ですわ、クレイグ様」
客間に入ってきた息子を、恥ずかしそうに紹介する母。ヴァーノンは微かに眉を寄せた。室内には彼の他に二人しかいない。母と身なりの良い男。そして『自分の息子』を紹介された客人らしきその男は、膝に乗せた恋人に夢中で彼に一瞥もくれない。
頬を擦り寄せ、顔中に口付けを落としている。
「あの、クレイグ様」
「ん。なんだいアミーリア」
「私達の子供ですわ。紹介させて下さいまし」
「君だけいれば良いよ」
「でもあなたの家族にもなります」
「妻になる女性のほうが重要だ」
当分会話は終わりそうもないので、ヴァーノンは勧められる前に勝手に両親(なのは間違いない)の向かいの長椅子に腰掛けた。母に愛をささやいている父親らしき男を、話しかけられないのを良い事に無遠慮に眺める。
息子よりもなおいっそう淡い色の髪、白皙、長身、美貌。その顔に浮かんでいるのは、安堵と歓喜と深い深い愛情。
父親が母を迎えに来るなんて、思ったこともなかった。どんな人間なのかすら考えたことはない。母が父について何か語ったこともなかった。……だが、これが。
「男か、それとも女か」
「男の子ですわ、そこにおります」
「君に似てるのかな」
「もう。ご自分で確かめてくださいまし」
「目をそらしても消えないでいてくれる? あの日、朝目を覚ましたら君はどこにもいなかった。僕のアミーリア」
「っ……ごめんなさい。でも、もう消えませんわ」
「いいよ。あれはお互い平民の格好をして、さらに酔っていたために起きた悲劇だ。もう、見つけた。だから良い」
母の濃色の髪に口付けてから、ようやく男は顔を上げた。甘く崩れていた表情が瞬時に、おそらくは元々の冷徹なものに変わる。金色の瞳だ。感情の薄い父子の視線がぶつかった。
「名前を聞こうか」
声もまた、母に向けるものは違い冷たい。目が如実に「アミーリアがそうして欲しいようだから聞いてやる。お前なんてどうでもいい」と語っていた。
「ヴァーノンです」
父に負けず劣らず不熱心に無表情で答え、一旦口を閉じてから、いちおう付け足した。「はじめまして、父上」。しかし父は感銘を受けなかったようだ。
「顔立ちはともかく、目付きが僕に似ているな」
「それが?」
「嫌な目だ。……まあいい、僕はクレイグ・ウィルクス。オーツ伯爵だ。お前の母を連れ帰るが、お前も来るか」
オーツ伯爵。ここからかなり遠い北方に広大な領地を持つ古い貴族だった。お前も来るか。ちらりと、客間に来る前のキャロリンの言葉が脳裏をよぎった。
『いか、ないで』
妙な願いだった。ヴァーノンを行かせれば、永遠に離れ離れになってしまう、と言わんばかりの表情。『行かないで……』その顔と言葉を彼はひどく気に入ったが、願いには頷かなかった。
「俺以外に子供は」
「お前が次期伯爵だよ」
唇で触れた柔らかな頬と塩辛い涙の味を思い出す。
「あなたと行けば、すべてが手に入りますか」
彼女を繋ぎ止められるもの、若君にも誰にも奪われずにすむ力。彼女のすべてが、それが。伯爵は目を細めて息子を見つめ、苦虫を数匹まとめて噛み潰したような顔になった。
「その年齢で、もう『すべて』を見つけたのか。十五年前に僕がアミーリアを見つけたように」
「いけませんか」
「貴族か?」
「いいえ」
「その『すべて』が手に入ったらどうする」
「べつにどうも。あれさえいれば何もいりません」
ヴァーノンは父の冷やかな視線を、冷たさすらない淡く無感情な瞳で受け止めた。「クレイグ様」と母が心配そうに父の名を呼ぶ。
「大丈夫だよ、アミーリア。君が悲しむことはしない。――しかたがないな。ヴァーノン、王立学院に入れてやろう。そろそろ王太子も通い出すころだ。ちょうどいい」
王立学院。貴族の子女、または試験に合格し入学許可を得ることができた、ずば抜けて優秀な少数の者が学ぶ場所。
「学院での振る舞いや交友関係というものは、卒業した後まで影響する。入って誰からも称賛されろ。どんな娘を妻にしても、お前が選んだという事実だけで尊敬の目を向けられるぐらいに」
その『すべて』が社交界でも、どこでも侮られることなく受け入れられるように。繋ぎ止め、でも幸せにできるよう。
オーツ伯爵は冷たく笑った。
「自分の親切さに寒気がするほどだな。……どうだ?」
返答はひと言。迷いはなかった。
「行きます」