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領主館の少女  作者: 水月 裏々
紅茶色:ヴァーノン
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1. 潮騒の響き

 陰鬱になるほど青く、茫漠とした海。空もまた無慈悲なまでに青かった。王国の端、大陸の端、セレステ子爵の領地。ヴァーノンはその領主館で生まれた。


「ほら、あの子よ。お嬢様に似てるみたいだけど、もっと美人になりそう。父親も美形だったのかしら」

「きっと顔が良いだけの遊び人だったんでしょ。アミーリア様も愚かなことをなさったわよねえ」


 子守歌代わりの女中達のくすくす笑い。同情のささやき。ヴァーノンの母アミーリアは息子を生んだ後、ひどく衰弱して、弟である子爵に勧められるまま、数年間療養のため友人のいる遠い地に行っていた。

 叔父の子爵はヴァーノンにあまり近寄ろうとせず、興味も示さず、屋根裏部屋をひとつ与え、乳母だけ付けて放置した。乳母も『身持ちの悪いお嬢様』の息子に愛情を抱かなかった。

 だから幼い彼の周りにあったのは、使用人達の遠慮のない囁きや嘲笑、空虚な哀れみ。……それから物憂げに寄せては返す波の音だけ。


「知ってる? 前領主様とその奥様が亡くなった原因」

「あの子でしょ。アミーリア様ったら、もともとご病気だった母親にとどめを刺しちゃったのよ」

「従順のはずのお嬢様の不品行。おかげで隣の男爵家との縁談は破談になるし、奥様も亡くすしで。あまり丈夫じゃなかった前領主様が心労で亡くなっても仕方ない」

「あの子さえできなきゃ、バレなくて済んだかもしれないのにね」


 小さな彼はよく、ひとりで領主館の庭から断崖に沿って延びる階段をゆっくりと下り、その付け根の短い砂浜で寝転んで過ごした。陽光に照らされた砂の色が、彼の知るものの中で一番彼自身の色に似ている。父親譲りであろう、この地域では珍しい、周囲に馴染まぬ異質な淡い髪と瞳の色。

 ヴァーノンは海にも空にも波の音にも関心を向けなかった。そんなものに一体何の意味がある? 時おり白く燃え、高くなり低くなり打ち寄せ打ち返し、それ以外のことなんて永遠にする気が無い海など。


「大きくなりましたね、ヴァーノン……」


 帰ってきた母は息子によく似た顔に、いつも悲しげな表情を浮かべて、たいてい自室か庭園の四阿(あずまや)にいた。会うことは少なかった。そもそも貴族の子供は乳母や子守に任せられ、親と関る時間は短いものだ。

 お互いべつに会いたいとも思っていない母子なら、偶然遭遇する以外はほとんど会うことはない。会っても話すこともない。母の悲しげで哀れみに満ちた眼差しは、ヴァーノンにとって何の意味も持たないものだった。その奥にある温かいような感情には、少し興味を持ったけれど。


 母が帰ってきたのと同時期、王都に行っていた領主セレステ子爵が花嫁を連れて戻って来た。とても裕福な家の娘で、夫と服と宝石のことしか考えず、おっとりと日々を送るような(ひと)

 彼女はヴァーノンの父親が知れないことを聞き、扇子の向こうでかすかに恐怖と嫌悪に似た表情を浮かべた。聞こえないくらいのつぶやき。


「まあ。そんなの嫌だわ、穢らわしい」


 彼はすでに涙も寂しさも無邪気さも捨て去っていた。

 ざぁんざぁんと波音がする。相変わらず砂浜に寝転んで見る景色は青く広大で、あまりに荒涼として、そして……それだけだった。


 深い深い冷酷な青。


 やがて領主夫人は身籠り、男児を出産した。

 レースで飾られた新品の揺りかご、寝室、おもちゃでいっぱいの二間続きの子供部屋、数年は使うこと無い勉強部屋。乳母に何人もの子守。いくつものものが用意された。望まれ、すべてに祝福され、生まれながらに富と権威を与えられた子供。

 途切れることの無い祝賀客、部屋が埋まるほどの贈り物、笑顔。パーティーが開かれ領民や使用人たちにも酒が振る舞われる。歓喜に包まれた場所を、ヴァーノンはやはり冷めた目で眺めていた。


 たまたま機嫌の良かった叔父に一度だけ連れられ、行ったセレステ子爵家の領地の町、村々。領民達がヴァーノンに向ける目は、好奇心と軽蔑と。大して館の使用人達と変わりはしない。だから別にもう一度行きたいとは思わなかった。領民達と関わりたいとも。


「おや、君は……」


 人の来ない海岸で、砂に埋もれるように転がっていたヴァーノンは、その声に面倒そうな視線だけを投げた。声の主は祝賀客であろう見たことの無い青年。平凡な焦げ茶の髪で身なりも貴族には見えなかったが、どこか上品で理知的な顔立ちをしている。

 無表情に再びふいと視線を逸らそうとしたヴァーノンは、しかし、続いて降ってきた信じられない言葉に一瞬硬直した。


「アミーリアさんの息子だね、はじめまして。私はレェン、エリック・レェンという。君は?」


 ヴァーノンは身を起こした。横にしゃがんで自分に微笑みかけるレェンをまじまじと見つめる。チョコレート色の瞳には憐憫も嫌忌も嘲りも無かった。どこにでもいる五歳の子供に向ける目だ、と思う。慎重に口を開いた。


「……ヴァーノン」

「そうかそうか。で、君はこんなところで何をしてるんだい、ヴァーノン。館は今日、ご馳走と音楽とお客で溢れているというのに」

「それが?」


 感情の無い声に、レェンは信じられないという顔をした。


「それが、だって!? 私は食べ過ぎて動けなくなりかけたところ、可愛い妻に『運動していらっしゃい』と追い出されたのに。ああ、なぜ彼女はあんなに可愛いんだ。妖精だからか。妖精? 森に帰ってしまったらどうしよう」


 落ち着いた雰囲気を一瞬で吹っ飛ばした青年を、ヴァーノンは大きな目で遠慮なく観察した。彼の妻など心底どうでも良かったが、この人間のことは少し気になった。

 ひとしきり愛妻を引き止める方法について(なぜか出ていく前提)悩んでいたレェンが落ち着くのを待ってから、ぽつりと聞く。


「なぜ、俺に声をかけた」


 完全に目の前の幼児の存在を忘れ去っていたらしい青年は、やはり瞬時に理性と落ち着きを取り戻した。何事もなかったように微笑む。


「理由が必要なのかい」

「……普通は必要ない、と思う」

「でも君の場合は違うと思っているんだね」

「俺と話したいと思う人間は、あまりいないらしいから」


 感傷は込められず、ただ事実だけを言う声だった。でも「あまりいない」という微妙に控えめな表現。レェンはしゃがむのをやめて、しっかりと砂の上に腰を下ろした。


「私は南東の商家の出だからね。この地方の人たちほど潔癖じゃない。父にも母にも愛人がいたし」

「そうか」


 あどけなさなど少しも無い、そっけない相づち。表情の乏しい人形じみた横顔をながめ、レェンは寂しげに息を吐いた。


「ここの領主のセレステ子爵は友人だし、好きだと思うけど、ときどき苦手だよ。……君はここが好きかい」


 好きも嫌いもない、あるはずもない。と答えかけて、ヴァーノンは少し考え込んだ。粘つく海の風が濃い潮のにおいを運んでいく。潮騒の音。


「海は嫌いだ。青も。それ以外は特に何もない」


 レェンは驚いたような顔をして、それから苦笑した。この場所には海と空の青しかないのに。それでも。確認したくなった。


「たぶん、君は周囲の人間の誰ひとり憎んでいないのだろうね? 生まれたことを後悔してもいない」

「そんなものになんの意味がある」


 心を打たれるような、透明な言葉だった。聞いた青年は息を呑んで驚嘆せずにはいられなかった。生まれ落ちて微笑みの代わりに嘲笑を、愛撫の代わりに悪意を注がれて育ったろうに、この子供は澄んでいる。

 でも、愛も持っていないだろうに、憎しみすら持たないのなら、すべてを諦めているのなら、それは同時にひどく空虚で悲しい。


「……よし」


 ひとりで頷いてから、レェンは冷淡に海を眺めていたヴァーノンの頭を撫でる。潮のにおいにどこまでも似合わぬ、柔らかで甘そうな色合いの子供の体が強張った。そのあぜんとしたような目に満足気に笑ってみせる。


「決めた。君に勉強を教えてあげよう、ヴァーノン。セレステ子爵はいずれ君を神官にするか、軍に入れるかするだろう。軍に入る可能性のが高いかな。しかし、そうでない生き方も選べるようにしてあげよう」

「選べるように……」


 ヴァーノンは口の中でその言葉を転がした。選ぶ。彼は何ひとつ選んだことが無かった。与えられたもの以外を望んだこともない。――望むことも知らない。


「私はこれでも子爵と同じ学院を出てるからね、大抵のことは教えられると思うよ。どうだい?」


 五歳の子供は感情の薄い顔で頷いた。






 子爵に許可を取ったエリック・レェンは、暇を見つけては領主館に来てヴァーノンに文字を教え、様々な学問の手解きをした。

弁護士をしているレェンはそれほど暇が多いわけではなかったが、確かにヴァーノンには手解きだけで十分だった。あとは自身で書庫に行き本を読み、どんどん知識を吸収していく。


「何を読んでいたんだい。国史学第五巻『法制』? おとといは物理学の第三巻を読んでいたじゃないか。ここに積んである本も……どれも君の年齢ではまだ難しいのでは」

「べつに」

「君、今すぐ王立学院の入学試験を受けても合格しそうだね。私は教師としてやることがなくて悲しいよ」


 とはいえ教師は生徒のずば抜けた利発さに喜んだ。しかし読書にばかり精を出されると、今度は健康が心配になる。子供には運動も必要だ。


 レェンは「いずれあなたのご子息にも必要になる」と子爵に掛け合い、そのかいあって彼が紹介した剣術の教師が雇われた。彼の古い友人の傭兵の男だ。

 無口なその男はしかし、ある日レェンにぼそりと「あの子は素質がある」とささやいた。


 ヴァーノンは賢かった。どれほど知識を蓄えても、剣が上達しても、決してそれを人に悟らせなかった。目立ってはいけない。人より優れていてはいけない。……そういうことを、知っていた。

 相変わらず彼は悪意に囲まれていたし、次期領主となるべき子供は別にいるのだから。



 ――――そうして二年が過ぎた。



 青く青く、晴れた日だった。寄せては返す単調な波と茫洋とした海。何も変わらない、いつも通りの。

 でも、その日エリック・レェンは死んだのだ。

 愛する妻と一緒に馬車の下敷きになって。


 領主である叔父に呼び出され訃報を聞いたヴァーノンは、ただ静かに「そうですか」とだけ答え、きびすを返した。


 絡みつくような潮の香、反復し続ける波の音。


 砂浜に下りて大嫌いな海に浸かった。そうすれば、頬を伝う塩辛い水が何なのかなんて分からずに済む。そう思って。


 海は陽光を映して揺らして、嗤うように白くきらめく。


 ……かなり長い時間が経って館に戻ったヴァーノンは、自室に戻る途中、使用人達が知らない赤子をあやしているのを見た。すぐに通り過ぎたが、濃い紅茶みたいな髪の色が妙に心に残った。



 その子供がレェン夫妻の子供で、領主館で引き取られることになったのを聞いたのは、翌日のこと。

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