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領主館の少女  作者: 水月 裏々
青と白:キャロリン
4/8

4. 踏み出した足

 陽光に透けるような白茶色、甘い甘いミルクティーの髪。優しい色合いなのに、感情をほとんど映さない瞳。

 背景の青い青い空と海にも、流れる白い雲にも何にも溶け込まないひと。なのに彼は遥か昔からそこにいるかのように、確かに存在していた。記憶よりも十年分年をとって。


 以前ライオネル様が彼について『微笑みひとつ浮かべる事がなくとも、誰もが魅せられる』と言っていたが、確かにその通りだった。彼には微笑みも言葉も、視線を動かすことすら必要ないだろう。そこに存在するだけで充分だ。本物の奇跡に似た美貌。


「にい、さま……?」


 信じられない思いで聞いた。見紛うはずはない、でも。


「本物の?」

「触れてみればいい」


 体重を感じさせない動作で窓から下りた彼は、長椅子から上半身を起こしただけの私につかつかと歩み寄った。触れてみればいい、と言ったくせに自分から私の顔に指先でぺたぺたと触れてくる。

 額に触れ眉に触れて、鼻、頬、輪郭をなぞり、唇を撫でていく。むしろ彼のほうが、私を本物かどうか疑っているみたいに。


「婚約者は」


 服の上から首元と鎖骨までなぞり、ようやく気が済んだらしいヴァーノン兄様は、どこか名残惜しそうに手を離し、いきなり問うた。しかし私は首を傾げるしかない。


「婚約者って、私の、ですか」

「ルカス伯の長男が来ているはずだが」

「ライオネル様のこと? 確かにいらっしゃいますけど、あの、まさか私がライオネル様の婚約者だと」

「違うのか」

「ええ」


 一体どこからそんな話を。ライオネル様の婚約者になる可能性は先ほど、それもつい先ほど永遠に消え去ったばかりなのに。

 ヴァーノン兄様は感情の薄い目で私の顔をじっと眺めた。しかも珍しいことに(十年ぶりで珍しいも何もないのかもしれないが)食い下がってくる。


「だが求婚くらいはされただろう」

「な、なんで知って」

「受ける気か」

「え」


 私と兄様の視線がからみ合った。何かを見つけ出そうとするような、真剣な探るようなスポンジケーキ色の視線。なんだか恥ずかしくなって、慌てて目をそらす。


「お断りしましたけれど。さっき」

「断った、本当に?」

「本当です」

「そうか」


 短い沈黙。それから、ふっと息を吐く音が聞こえた。


「良かった」


 え。と思って視線を戻せば、硬く大きな手が、掬うように両頬に添えられる。端正な唇が開かれた。


「キャロリン」

「なん、でしょう」

「……()()ってみろ」


 十年でさらに美く神秘的になったのに、やっぱり昔と何ひとつ変わらない静かな目。懐かしさに自然と微笑みそうになって、ふと、以前もこんなことがあった気がした。

 既視感。そうだ、あれは兄様が行ってしまった日。微笑んだ私に、彼は柔らかく微笑み返してまぶたに口付けた。あれは本当にあったこと? それとも夢だろうか。


「にいさま」

「兄じゃない」

「でも」

「微笑ってくれ、キャロリン」


 驚いた。微かに秀眉をしかめ、発せられたそれは間違いなく懇願だった。胸が締め付けられるような気分。少年のころの無表情で冷めた目をした「にいさま」。けれど私は、()()のこのひとの目が、静かだが決して冷めてなどいないことに気付いた。

 ぞくっとした痺れるような感覚を無理矢理押し込めて、なんとか微笑みをつくる。


「こう?」

「……ああ」


 今このひとに微笑まれたら失神できる自信があったのだが、幸いべつに兄様は笑う気分では無かったようだ。しかし代わりに私の顔を穴が空くほど見つめてくる。


「じ、侍女を呼びましょうか。お茶でも」

「いらない」

「お腹は減っていませんか」

「べつに」

「でもお疲れでは」

「あまり」


 にべもない。なのに視線は痛いくらいだ。肌がチリチリと焦げてこないのが不思議なほど。もしかしたら気付かないだけで焦げているのかも。だんだん私はいたたまれない気持ちになってきた。顔が引きつる。


「あの……ええと、何をしにここに」


 ここってどこ。この土地? 領主館? この部屋? それとも私の前ということだろうか。自分で言っておいて分からない。そもそも彼はどうやってこの三階の部屋に。

 ヴァーノン兄様は優美に首を傾けた。結ばず流した綺麗な髪がさらりと動く。


「わからないのか、キャロリン」


 なぜ分かると思うのだろう。昔も「にいさま」の考えが分かったことなんて、ほとんど無かったのに。でも精一杯考えてはみる。


 ふと郷愁に駆られて? そんな性格ではない気が。

 館に忘れ物でも? ありえない、十年経ってる。

 遊びに来た? すごく彼に似合わない表現だ。


 私はしおしおと謝った。さっぱりです、ごめんなさい。


「手紙が来なかった」


 ハッとした。捨ててしまった完成しかけの風景画。出来上がったら、兄様に手紙と一緒に送ろうと思って作っていたもの。しかし本当はその前に、もう一通手紙を送るつもりだった。ひと月に一度は出していたから。

 それを、若様がライオネル様を連れて戻ってきて、それからの日々で忘れていた。何週間も。そして先日もう手紙を出さないと決めた。だって、あなたは。


「一度もお返事をくれなかったのに」

「……何を書けばいいのか分からなかったんだ」


 悪かった、と静かな呟きが落とされる。遠く遠くに行ってしまった「にいさま」。本当は、ついさっきまで全部忘れようと思っていた。きっと手紙は迷惑以外の何物でもないと。声が震えた。


「私のこと、忘れてしまったんじゃ、なかったの」

「忘れようとしたことはある。無駄だったが」

「どうして。忘れても当然なのに」

「では消えてくれるか」


 今まで頬に触れていた大きな手が、ゆっくりと下に滑っていく。涼やかな声はそのままなのに、美しい瞳は金色に燃えるようだった。長く優雅な指が私の首にからみつく。


「お前がこの世に存在している限り忘れられない。流れる雲、木陰、夕焼けに青い空。何を見ても、何をしてもお前の姿がちらつく。十年間ずっとだ」

「……そんな」

「おかしいだろう。七歳までの様々な姿のお前が、ずっと俺に付きまとっていた。理由はわかっている。十七歳のお前を見てさらに分かった。どうしようもない」


 彼らしくない激しい感情のこもった口調だった。「お前の欠点もなにもかも知っているのに、どうしようもないんだ」自分の言ったことに腹を立てているかのように。


「手紙が来なくなれば良いと思った。でもそれがなければ気が狂いそうだった。だから来た。お前がこの世にいなくればマシになるかもしれない。消えてくれ。だめだったら俺も死んでやる。そうじゃなきゃ」


 指に微かな力がこもる。でも私は彼から目をそらせなかった。ささやくように聞いた。そうじゃなきゃ……?

 彼は苦しげに眉を寄せた。長い睫毛を一瞬だけ伏せて、両手を離す。床に片膝を付いた。跪くように。もしくは懺悔するように。


「お前しかいないんだ、キャロリン」

「にいさま……」

「違う。兄じゃない。一度も兄だったことはない」


 彼は、結婚してくれと乞うた。綺麗で聡明で武術にも優れ、王太子殿下の友である次期オーツ伯爵ヴァーノン・ウィルクスが。あろうことか特別美しくも賢くもなく、身分も低く親もいない世間知らずの小娘(この私)に! ありえない。


「私をその、あ、愛しているというの」

「愛している。お前がいないと生きていけない」

「……嘘つき」

「信じないのか」

「これっぽっちも」


 殺そうとしたくせに。彼は真顔のままでうなずいた。


「ああ。お前が手の届かないところで生きて存在している、と考えるだけで耐えられない。手に入らないのなら殺してしまいたい。言っただろう。そうじゃなきゃ」


 ――そうじゃなきゃ、焦がれ死んでしまう。


「言ってくれキャロリン。俺と結婚すると。どうか」


 普段の感情の無い表情が嘘のような双眸、口調。奇跡みたいに綺麗なひと。私にはやっぱり信じられなかった。まったく何もかも。これが現実なんて、そんなこと。

 十年彼を待っていた。

 私は『さよなら』を言っていないから、だから。

 息を吸った。もう、どうしようもない。何もかもありえないようなのに、今このひとに別の想い人がいると誰かに言われても、瞬時に嘘だと笑い飛ばせる気分。

 心が頭を通り越して、口から勝手に言葉が出ていく。


「本当に? ――本当に私を妻にと望んでくれるの? 対等なひとりの人間として――死がふたりを分かつまで?」

「お前がそれを許さなくなっても」

「それなら、お受けします」


 スポンジケーキ色の目が妖しく輝いた。腕が引かれて長椅子から落ちる。私は、私を抱きすくめる腕の中で、低いささやきを聞いた。「キャロリン、お前は馬鹿だ」幸福(しあわせ)そうに。


()()()()()様」

「……なんだ」

「わらって」


 このお願いは必要なかったかもしれない。腕を緩めて私を覗き込んだ彼は、すでに微笑していた。想い出と同じ、無防備で極上の砂糖菓子みたいな笑み。柔らかな髪と瞳の色によく調和して、光と空気に透けて消えてしまいそうなほど。……きれい。

 陽光に磨かれ輝く海より、金と飴色の黄昏より、潮騒と暗い静寂に浮かぶ凍えた満月より、何より綺麗。

 けれど、それより、どこまでも愛おしかった。若様が帰っていらしたときには感じなかった充足感。私の中の世界が全部溶けて、今度は一人のひとの形に固まる。塗り替えられていく。幼いころ、本当は()()だったみたいに。海と空だけでない世界に。


「おかえり、なさい」


 ヴァーノン様は少し驚いたみたいだった。そうだ、帰る場所はこの館じゃない。来ただけだ。でも彼は少し私を見つめたあと、笑みの名残をのこした柔らかな眼差しで、言う。


「ただいま、キャロリン」


 ああ、私の世界に、本当に彼は戻ってきたのだ。

 私は声を立てて笑った。



 言いそびれた『さよなら』は、もう永遠に必要ない。

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