3. 小さな世界
遠い水平線、決して混じり合うことない海と空。
ライオネル様の楽しげな声はそのどちらにもよく馴染む。
「……そして、店を飛び出して行ったあいつが、窓の向こうで令嬢と話し始めたころ、私の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできたのです。その声はこう言いました。『ヴァーノン、あれはお前の幼馴染とかいう者ではないか?』とね」
王太子殿下のお声でした、とライオネル様はその時の驚きを表すように、少し目を見開いて付け足した。ライオネル様が座っていた席からすぐそばの、でもちょうど柱の陰になって見えない席から聞こえたのだと。
「すぐにヴァーノン殿の声も、かすかでしたが聞こえました。喫茶店はそこそこ混んでいたので、注意して聞かないとお二人の会話は全く聞こえなかったのです。注意していても、途切れ途切れにしか聞こえませんでしたが」
そこでふと眉を下げて、ライオネル様が肩をすくめる。
「おっと、誤解しないで下さいね。私は人の話を盗み聞くのが趣味なわけでなはいのですよ」
私は少し笑ってしまった。困り顔の中、青い目だけがいたずらっぽく輝いている。
「ええ、誤解なんてしません」
「良かった。それで、しばらくして今度は『で、お前はあの令嬢に話しかけている人間をどう思っているんだ』というような殿下のお言葉が聞こえまして」
先ほどの困ったような表情とは一転、意味ありげに微笑んでみせるライオネル様。私はその期待に応えて聞いた。事実、その先が気になってもいた。
王太子殿下と本当に親しそうなヴァーノン兄様。手紙も何もくれない兄様。あなたは今、若様のことを、私のことをどう思っているの。
「ヴァーノン様は、なんて?」
「しばらくは沈黙が続きました。あの頭の良い方にしては、珍しく悩んでいたようですね。ようやく口を開いたとき、ヴァーノン殿はこう言ったのです。『恋敵のようなものだ』と。私の驚きがお分かりでしょう」
分かったなんてものではなかった。当時のライオネル様の驚きより、今の私の驚きのほうが大きいに違いない。また階段から落ちかけなかったのが不思議なくらいだ。
恋敵。そんな。先程よりも数倍強烈な驚きと共に、急に消えかけていた昔の兄様の面影が、脳裏に鮮烈に蘇った。……むしろ、自分がこんなに驚いたことが、驚きかもしれない。十年も会っていないのに。
なんとか平静を装って聞いた。
「それで、そのご令嬢は、今?」
「王女殿下にひどく気に入られて、よく王宮に出入りしているようですね、王太子殿下や第二王子殿下、ヴァーノン殿とも親しいとか」
「まあ……」
兄様、ヴァーノン兄様。私は今まで返事も来ない手紙を出し続けていたのが、いかに馬鹿だったか理解した。
手紙が返ってこなくても、もう領主館の誰もが兄様の話をしなくなっても、それでも長いこと心の中にあなたの場所を置き続けていたなんて。どんなに、愚かだったことだろう。
十年、私の世界が領主館から広がらなかったからと言って、あなたの世界も広がっていないだろう、私はまだ幼馴染、親しい友人だろうと思っていたのは、どんなに。
にいさま。
「キャロリン嬢、どうかなさいましたか」
ライオネル様の青い目が心配そうに私を見ている。見慣れた海と同じ色の瞳、見慣れた海の黄昏色の髪。幼いころ読んだ物語の王子様みたいなひと。
私は「戻りましょう」と差し出された手を取った。若様と海に背を向け、階段を上がりながら、考える。まるで、このひとは……。
「きっと、こんな風のよく当たるところで長話をしていたから、お身体に障ったのですね。すみません。館でゆっくりお茶でも飲みましょう」
優しい微笑み。でも、心臓が鳴るのはいつもと違う理由。こんなことに気付いて、良かったのか悪かったのか分からない。外から来たひとなのに。まるで。
このひとは私の世界の象徴みたい。
海と空と領主館。私が愛する小さな世界の。
納得と奇妙な物悲しさで胸がいっぱいになった。ああ、その視線に胸が高鳴ったのは当然だったのだ。だって、彼はあまりに、ここの景色によく馴染んだから。
私はまた、このひとが来る前に感じていた動悸が、領主館から遥か遠い外の世界から来るものへの、畏怖だったことに気付いた。今の動悸が恐怖に近いものだということにも。
「ライオネル様……」
館に戻り、用意された紅茶をひと口嚥下して、私は向かいの椅子に座るひとの名を、ぼんやりと呼んだ。女中が粉砂糖のまぶされたスポンジケーキを置いて出て行く。
「私、あなたの髪と瞳が好きです」
「……それは」
ぽつりと出た私の言葉に、口元に手をやり、眉をしかめるライオネル様。ぼんやりしたまま青い目と金の髪を眺めていた私は、その表情にハッとした。今、私、とんでもなく、はしたないことを!
真っ赤になってあわあわと慌てだした私を、ライオネル様は青い瞳でじっと見つめ、ゆっくりと手を下ろした。唇には少し困ったような微笑。でも、紳士的に聞かなかったことにはしてくれなかった。
「どう取ればいいのでしょうね。好きなのは、私の髪と瞳だけ? そもそも、その好きとはどういった」
「あの、その、ええと」
「キャロリン嬢。実は私はここ数日、ずっとあなたに伺いたいことがあったのです」
「は、え、はい」
ふいに海の青い瞳が熱をおびた気がした。気付けば、ティーカップを持っていたはずの手にカップは無い。私の手は、席を立って私の横に膝を付き、私を見上げるライオネル様の手に握られていた。しっかりとした手のひら。
告白はやや唐突だった。
「私はあなたを愛しています。その控えめで慎み深い性格を優雅な物腰を、赤茶の髪、煙水晶の瞳を」
ライオネル様は、私の魅力と彼の愛情について熱っぽく語った。私を絶賛し、愛の強さと自分の苦悩について説く。
でも残念ながら、その切なげな口調と表情とは裏腹に、その目と態度は自信に満ちていた。「あなただって、私に申し込まれたら断る気などないでしょう」と言わんばかりの眼差し。悪気はなく、真実そう信じているのが分かった。
そう。実際、領主様も奥様も若様も、私をライオネル様の妻にしたがっていた。……私のために。
「結婚していただけますか?」
とうとうライオネル様はそう言った。私は。私は? 頭で考えるより先に、すらすらと言葉が口から出ていく。驚くほど冷静に。
「ありがとうございます、ライオネル様」
そして口を動かしながらも、私の頭は、どうするべきかぐるぐる動いていた。ライオネル様が若様と共に領主館にいらしたとき、その馬車に感じた恐怖。ときめき。あまりにここの景色に溶け込む金髪と青い目。領主様達のお考え。どうしよう、どうすれば。
「……申し込み本当に光栄に存じます。私には大変もったいないことで、どう感謝の気持ちをお伝えすれば良いのかわかりません」
「なら」
勝ち誇ったような笑みを刻みかけたその顔に、ようやく決論を出した私は、しっかりと視線を向けた。テーブルの上の可愛らしいスポンジケーキが、じっと私を見ている気がする。
「ですが、お断り致します」
ライオネル様の顔が驚きと、おそらく平民生まれの私に断られた腹立ちで、蒼白に染まる。彼だけでなく若様や領主様方にもある、無意識の貴族の驕り。ライオネル様は落ち着きを取り戻そうと懸命になり、見かけだけでも冷静さを取り戻すまで、口を開こうとなさらなかった。
「理由を伺っても? 先ほど私の髪と瞳が好きだと仰ったではないですか。身分の違いをお気になさることはありませんよ」
「身分も確かに釣り合いません。ライオネル様の髪も瞳も、その、好きです。けれどそれは違うのです」
「違うとは何がですか」
うまくは言えません、と私は立ち上がったライオネル様を見上げて前置きをする。
「私があなたに抱いている気持ちは、この領主館や海岸、庭園など、そういうものに抱いているものと同じなのです。申し込みをしていただいた名誉には、何度お礼を申し上げても足りませんが、お受けすることはできません」
言って、震える自分の手をぎゅっと握った。ここまではっきりと、ものを言ったのはずいぶん久しぶりだ。たぶん、領主館で唯一対等に近い関係だったヴァーノン兄様がいなくなって以来、初めて。
「どうしても、ですか」
「ええ。どうしてもです。あなた様を尊敬してはおりますが、妻になることはできないのです」
信じられないというライオネル様の表情は、悲しみと屈辱と混じり合い、海色の視線が私を見下ろす。唇はやはり青ざめていた。
「わかりました、お嬢さん。あなたの幸せを、いえ、今日の選択を後悔する日が来ないことをお祈りいたします」
言い終わるか終わらぬうちに、ライオネル様はこちらに背を向け、急いで部屋を出ていった。やや乱暴に扉が閉まる。
私は、それから数十秒は緊張のあまり震えが止まらず、ふっと息を吐き出し我に返ってからは、十数分の間、今度は自分のしたことへの動揺で力が抜けて動けなかった。痛いほどの動揺。
どうしてこんなことをしたのか、誰かにしっかりと説明しろと言われたら絶対にできない。私は、初めて領主様達に逆らったのだ。あの方の求婚を断ったいうことは、そういうこと。
部屋に誰もいないのをいいことに、机に突っ伏して目の前のスポンジケーキを見つめる。誰もいない。未婚の男女を二人っきりにするのは、領主様か奥様か、どちらの指示だったのだろう。もしくは若様か。
領主様や奥様の叱責の声が聞こえる気がする。
『なぜ断ったりなどしたのだね、キャロリン』
『これ以上の幸せな結婚など他にありませんよ』
彼らの手回しはすべて無駄に終わった。
フォークを取って、ぽいっと、いささか行儀悪くスポンジケーキを口に放り込む。うなだれた。今何が一番どうしようもないか? 決まってる。私が後悔していないこと。
何かを失くしたような感覚とは反対に、そしてそれ以上に目が覚めたような気さえする。でも、やはり十年以上育てて下さった、領主様たちの意向に逆らったことは恐ろしく。
ケーキの味もろくに分からぬまま、私はそれを食べきり、のろのろと立ち上がった。とにかく私はやってしまった。覚悟を決めなくては。毅然とするための覚悟を。
でも、今は海も見たくなかった。
階段を上がり寝室に戻って、出来上がり寸前の刺繍の風景画をつかみ、外に投げ捨ててから窓を閉める。そのまま窓に背を向けて、寝台の足元に置かれた長椅子に横たわった。潮の匂いは入って来なくとも、遠くから海鳴りが響いてくる。
弱く弱くすすり泣くように、時にはとどろくように。
昔々、私は闇の中で聞こえるこの音が怖くて、時おりヴァーノン兄様の寝室に忍び込んだものだった。あのころの寝室は、私のものも兄様のものも屋根裏にあったから。
そして、階下にある若様の寝室に忍び込むと子守に叱られたが、兄様の寝室に忍び込んでも軽く窘められる程度で、誰も怒りはしなかったから。
……ただ、兄さま自身に冷ややかな拒絶を受けるだけで。
『お前は常識を学ぶべきだ』
『自分の寝室に戻れ』
『出て行け』
しかし毎回最後には諦めて、一緒に寝てくれた。
王太子様、王宮、美しい令嬢。遠くに行ってしまった「にいさま」――いえ。ため息みたいに呼んだ。
「ヴァーノン様……」
それは意味あるものではなかった。何か意味のあることのはずがない。そのはずなのに。
ふいに、潮の香がした。
不審に思って顔を上げて振り向けば、両開きの窓が開いている。先ほど食べてしまったスポンジケーキ色の双眸が、私を見ている。
彼は言った。美しい声で物憂げに無感動に。片膝を抱いて窓枠に座り、淡い色の長い髪を風に揺らして。
「なんだ」
たった、それだけ。