表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
領主館の少女  作者: 水月 裏々
青と白:キャロリン
3/8

3. 小さな世界

 遠い水平線、決して混じり合うことない海と空。

 ライオネル様の楽しげな声はそのどちらにもよく馴染む。


「……そして、店を飛び出して行ったあいつが、窓の向こうで令嬢と話し始めたころ、私の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできたのです。その声はこう言いました。『ヴァーノン、あれはお前の幼馴染とかいう者ではないか?』とね」


 王太子殿下のお声でした、とライオネル様はその時の驚きを表すように、少し目を見開いて付け足した。ライオネル様が座っていた席からすぐそばの、でもちょうど柱の陰になって見えない席から聞こえたのだと。


「すぐにヴァーノン殿の声も、かすかでしたが聞こえました。喫茶店はそこそこ混んでいたので、注意して聞かないとお二人の会話は全く聞こえなかったのです。注意していても、途切れ途切れにしか聞こえませんでしたが」


 そこでふと眉を下げて、ライオネル様が肩をすくめる。


「おっと、誤解しないで下さいね。私は人の話を盗み聞くのが趣味なわけでなはいのですよ」


 私は少し笑ってしまった。困り顔の中、青い目だけがいたずらっぽく輝いている。


「ええ、誤解なんてしません」

「良かった。それで、しばらくして今度は『で、お前はあの令嬢に話しかけている人間をどう思っているんだ』というような殿下のお言葉が聞こえまして」


 先ほどの困ったような表情とは一転、意味ありげに微笑んでみせるライオネル様。私はその期待に応えて聞いた。事実、その先が気になってもいた。

 王太子殿下と本当に親しそうなヴァーノン兄様。手紙も何もくれない兄様。あなたは今、若様のことを、私のことをどう思っているの。


「ヴァーノン様は、なんて?」

「しばらくは沈黙が続きました。あの頭の良い方にしては、珍しく悩んでいたようですね。ようやく口を開いたとき、ヴァーノン殿はこう言ったのです。『恋敵のようなものだ』と。私の驚きがお分かりでしょう」


 分かったなんてものではなかった。当時のライオネル様の驚きより、今の私の驚きのほうが大きいに違いない。また階段から落ちかけなかったのが不思議なくらいだ。

 恋敵。そんな。先程よりも数倍強烈な驚きと共に、急に消えかけていた昔の兄様の面影が、脳裏に鮮烈に蘇った。……むしろ、自分がこんなに驚いたことが、驚きかもしれない。十年も会っていないのに。

 なんとか平静を装って聞いた。


「それで、そのご令嬢は、今?」

「王女殿下にひどく気に入られて、よく王宮に出入りしているようですね、王太子殿下や第二王子殿下、ヴァーノン殿とも親しいとか」

「まあ……」


 兄様、ヴァーノン兄様。私は今まで返事も来ない手紙を出し続けていたのが、いかに馬鹿だったか理解した。

 手紙が返ってこなくても、もう領主館の誰もが兄様の話をしなくなっても、それでも長いこと心の中にあなたの場所を置き続けていたなんて。どんなに、愚かだったことだろう。

 十年、私の世界が領主館から広がらなかったからと言って、あなたの世界も広がっていないだろう、私はまだ幼馴染、親しい友人だろうと思っていたのは、どんなに。

 にいさま。


「キャロリン嬢、どうかなさいましたか」


 ライオネル様の青い目が心配そうに私を見ている。見慣れた海と同じ色の瞳、見慣れた海の黄昏色の髪。幼いころ読んだ物語の王子様みたいなひと。

 私は「戻りましょう」と差し出された手を取った。若様と海に背を向け、階段を上がりながら、考える。まるで、このひとは……。


「きっと、こんな風のよく当たるところで長話をしていたから、お身体に障ったのですね。すみません。館でゆっくりお茶でも飲みましょう」


 優しい微笑み。でも、心臓が鳴るのはいつもと違う理由。こんなことに気付いて、良かったのか悪かったのか分からない。外から来たひとなのに。まるで。


 このひとは私の世界の象徴みたい。

 海と空と領主館。私が愛する小さな世界の。


 納得と奇妙な物悲しさで胸がいっぱいになった。ああ、その視線に胸が高鳴ったのは当然だったのだ。だって、彼はあまりに、ここの景色によく馴染んだから。


 私はまた、このひとが来る前に感じていた動悸が、領主館から遥か遠い外の世界から来るものへの、畏怖だったことに気付いた。今の動悸が恐怖に近いものだということにも。


「ライオネル様……」


 館に戻り、用意された紅茶をひと口嚥下して、私は向かいの椅子に座るひとの名を、ぼんやりと呼んだ。女中が粉砂糖のまぶされたスポンジケーキを置いて出て行く。


「私、あなたの髪と瞳が好きです」

「……それは」


 ぽつりと出た私の言葉に、口元に手をやり、眉をしかめるライオネル様。ぼんやりしたまま青い目と金の髪を眺めていた私は、その表情にハッとした。今、私、とんでもなく、はしたないことを!

 真っ赤になってあわあわと慌てだした私を、ライオネル様は青い瞳でじっと見つめ、ゆっくりと手を下ろした。唇には少し困ったような微笑。でも、紳士的に聞かなかったことにはしてくれなかった。


「どう取ればいいのでしょうね。好きなのは、私の髪と瞳だけ? そもそも、その好きとはどういった」

「あの、その、ええと」

「キャロリン嬢。実は私はここ数日、ずっとあなたに伺いたいことがあったのです」

「は、え、はい」


 ふいに海の青い瞳が熱をおびた気がした。気付けば、ティーカップを持っていたはずの手にカップは無い。私の手は、席を立って私の横に膝を付き、私を見上げるライオネル様の手に握られていた。しっかりとした手のひら。

 告白はやや唐突だった。


「私はあなたを愛しています。その控えめで慎み深い性格を優雅な物腰を、赤茶の髪、煙水晶の瞳を」


 ライオネル様は、私の魅力と彼の愛情について熱っぽく語った。私を絶賛し、愛の強さと自分の苦悩について説く。

 でも残念ながら、その切なげな口調と表情とは裏腹に、その目と態度は自信に満ちていた。「あなただって、私に申し込まれたら断る気などないでしょう」と言わんばかりの眼差し。悪気はなく、真実そう信じているのが分かった。


 そう。実際、領主様も奥様も若様も、私をライオネル様の妻にしたがっていた。……私のために。


「結婚していただけますか?」


 とうとうライオネル様はそう言った。私は。私は? 頭で考えるより先に、すらすらと言葉が口から出ていく。驚くほど冷静に。


「ありがとうございます、ライオネル様」


 そして口を動かしながらも、私の頭は、どうするべきかぐるぐる動いていた。ライオネル様が若様と共に領主館にいらしたとき、その馬車に感じた恐怖。ときめき。あまりにここの景色に溶け込む金髪と青い目。領主様達のお考え。どうしよう、どうすれば。


「……申し込み本当に光栄に存じます。私には大変もったいないことで、どう感謝の気持ちをお伝えすれば良いのかわかりません」

「なら」


 勝ち誇ったような笑みを刻みかけたその顔に、ようやく決論を出した私は、しっかりと視線を向けた。テーブルの上の可愛らしいスポンジケーキが、じっと私を見ている気がする。


「ですが、お断り致します」


 ライオネル様の顔が驚きと、おそらく平民生まれの私に断られた腹立ちで、蒼白に染まる。彼だけでなく若様や領主様方にもある、無意識の貴族の驕り。ライオネル様は落ち着きを取り戻そうと懸命になり、見かけだけでも冷静さを取り戻すまで、口を開こうとなさらなかった。


「理由を伺っても? 先ほど私の髪と瞳が好きだと仰ったではないですか。身分の違いをお気になさることはありませんよ」

「身分も確かに釣り合いません。ライオネル様の髪も瞳も、その、好きです。けれどそれは違うのです」

「違うとは何がですか」


 うまくは言えません、と私は立ち上がったライオネル様を見上げて前置きをする。


「私があなたに抱いている気持ちは、この領主館や海岸、庭園など、そういうものに抱いているものと同じなのです。申し込みをしていただいた名誉には、何度お礼を申し上げても足りませんが、お受けすることはできません」


 言って、震える自分の手をぎゅっと握った。ここまではっきりと、ものを言ったのはずいぶん久しぶりだ。たぶん、領主館で唯一対等に近い関係だったヴァーノン兄様がいなくなって以来、初めて。


「どうしても、ですか」

「ええ。どうしてもです。あなた様を尊敬してはおりますが、妻になることはできないのです」


 信じられないというライオネル様の表情は、悲しみと屈辱と混じり合い、海色の視線が私を見下ろす。唇はやはり青ざめていた。


「わかりました、お嬢さん。あなたの幸せを、いえ、今日の選択を後悔する日が来ないことをお祈りいたします」


 言い終わるか終わらぬうちに、ライオネル様はこちらに背を向け、急いで部屋を出ていった。やや乱暴に扉が閉まる。


 私は、それから数十秒は緊張のあまり震えが止まらず、ふっと息を吐き出し我に返ってからは、十数分の間、今度は自分のしたことへの動揺で力が抜けて動けなかった。痛いほどの動揺。


 どうしてこんなことをしたのか、誰かにしっかりと説明しろと言われたら絶対にできない。私は、初めて領主様達に逆らったのだ。あの方の求婚を断ったいうことは、そういうこと。


 部屋に誰もいないのをいいことに、机に突っ伏して目の前のスポンジケーキを見つめる。誰もいない。未婚の男女を二人っきりにするのは、領主様か奥様か、どちらの指示だったのだろう。もしくは若様か。


 領主様や奥様の叱責の声が聞こえる気がする。


『なぜ断ったりなどしたのだね、キャロリン』

『これ以上の幸せな結婚など他にありませんよ』


 彼らの手回しはすべて無駄に終わった。


 フォークを取って、ぽいっと、いささか行儀悪くスポンジケーキを口に放り込む。うなだれた。今何が一番どうしようもないか? 決まってる。私が後悔していないこと。


 何かを失くしたような感覚とは反対に、そしてそれ以上に目が覚めたような気さえする。でも、やはり十年以上育てて下さった、領主様たちの意向に逆らったことは恐ろしく。


 ケーキの味もろくに分からぬまま、私はそれを食べきり、のろのろと立ち上がった。とにかく私はやってしまった。覚悟を決めなくては。毅然とするための覚悟を。


 でも、今は海も見たくなかった。


 階段を上がり寝室に戻って、出来上がり寸前の刺繍の風景画をつかみ、外に投げ捨ててから窓を閉める。そのまま窓に背を向けて、寝台の足元に置かれた長椅子に横たわった。潮の匂いは入って来なくとも、遠くから海鳴りが響いてくる。

 弱く弱くすすり泣くように、時にはとどろくように。


 昔々、私は闇の中で聞こえるこの音が怖くて、時おりヴァーノン兄様の寝室に忍び込んだものだった。あのころの寝室は、私のものも兄様のものも屋根裏にあったから。

 そして、階下にある若様の寝室に忍び込むと子守に叱られたが、兄様の寝室に忍び込んでも軽く窘められる程度で、誰も怒りはしなかったから。

 ……ただ、兄さま自身に冷ややかな拒絶を受けるだけで。


『お前は常識を学ぶべきだ』

『自分の寝室に戻れ』

『出て行け』


 しかし毎回最後には諦めて、一緒に寝てくれた。

 王太子様、王宮、美しい令嬢。遠くに行ってしまった「にいさま」――いえ。ため息みたいに呼んだ。


「ヴァーノン様……」


 それは意味あるものではなかった。何か意味のあることのはずがない。そのはずなのに。


 ふいに、潮の香がした。


 不審に思って顔を上げて振り向けば、両開きの窓が開いている。先ほど食べてしまったスポンジケーキ色の双眸が、私を見ている。

 ()は言った。美しい声で物憂げに無感動に。片膝を抱いて窓枠に座り、淡い色の長い髪を風に揺らして。


「なんだ」


 たった、それだけ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ