2. 忘れ潮
窓の外の青い世界を眺め、ぼんやりと追憶に浸っていた私は、一度まぶた伏せてから手元の刺繍布に視線を戻した。布に針を刺していく。
この部屋と窓の外の青い景色を写し取った、鮮やかな糸と針で描かれる風景画。
王都のお城、王太子様の下で働いているらしいヴァーノン兄様に、贈ろうと思って作っていたものだ。でも今は、他のすべてのことと同じように、なんとなく身が入らない。ここ数日は何をするにも、ずっとそう。
思い出すのは、先日若様から届いた手紙のこと。
手紙によると、王都の学院を卒業した若様は、出ていったときの約束どおり、本当にすぐに戻って来ださるようだ。ただし、学院でできた、ひとりのご友人も連れて。
『彼はぼくの大切な女性の兄上だ。しょっちゅう君の話を聞かせていたからか、大変君に興味を持っている。未来の夫になってくれるかもしれないな』
そうすれば君とぼくは本当に兄妹になれる。と、嬉しそうに書いてあった手紙。ご両親でもある領主様夫妻にも、若様は同じ内容を送ったのか、私は新しいドレスを作っていただくことにもなった。
若様のご友人、若い貴族の男性に少しでも気に入られるように。夫、結婚……私の? 私が。
針を動かす手を止め、私はまた窓の外に視線を投げた。
青色。潮のかおり。
ずっと胸がドキドキと主張している。楽しみなのか、怖がっているのか、緊張なのか、なぜなのか。自分でもよく分からない。
すぐに若様がお戻りになる日はやって来た。
十年前に「にいさま」を連れて行った貴族を思い出させるように、館の前に止まった立派な馬車。領主様と奥様と共て出迎えに出ていた私は、ぞっとして半歩下がった。
馬車に乗って行ってしまった二人。兄様と若様。私の幼馴染たち。外から来た馬車。でも大丈夫、怖いことは何もない。だから……これは単なる、ちょっとした連想。
あれは、今度は誰を連れて行く?
閉ざされていた馬車の扉が開かれた。立ち竦む。でも。
「父上、母上! お久しぶりです、ただいま戻りました」
降り立ったのは、すっかり洗練された若い紳士になった、けれど六年前と変わらぬ朗らかな表情の若様だった。
ひとしきりご両親と再会を喜んだ若様は、側に立っていた私に目を向け、少し悩むように見つめた後、驚いたように口を開けた。
「キャロリンか?」
「はい。お帰りなさいませ、若様」
「ああ、いや……驚いた。とても美しくなったな」
若様が本当に心からの言葉のように、感心したように言うので、私は顔が熱くなって何も言えなくなってしまう。前言撤回、若様はかなり変わったに違いない。
笑顔の若様が私を抱き寄せて頬に口付けたとき、馬車の中から知らない声がした。
「もういいかな。その美しい人を私にも見せてくれたって構わないだろう?」
「ライオネル。ああ、いいぞ出て来い。キャロリン、父上母上、あちらが次期ルカス伯爵ライオネルです」
次の瞬間、私は物語の王子様を見た。夕陽で染まった海の色の金髪が、帽子の下できらめく。きれいな髪。彼はちらりとこちらに微笑んでみせ、領主様と奥様に挨拶をしてから私の手を取った。甘やかな美貌。
「はじめまして、キャロリン嬢。お目にかかれて光栄です」
軽い口付けが手に落とされる。うっとりするほど優しげな眼差しが注がれて、私は「ええ」とか「はあ」以外の言葉が言えない。鼓動の音が外に聞こえないか、ひどく不安だった。今までと全く別の動悸。熱い顔と頭で、私が考えられたことはひとつだけ。
ライオネル様の瞳は真昼の海の色に似ている。
それから数日。カーテンを開けた瞬間一気に朝日が射し込んだかのように、二人の紳士を迎えた領主館は明るく変化した。
若様とライオネル様は、領地のあちこちを見て回ったり、海に出て釣りをしたり、私のお茶や散歩に付き合ってくださったりした。特にライオネル様は、私といることを好んでいるようだった。
「王都には最近新しい菓子店ができたのですよ。ご令嬢方に大変な人気で、私の妹も、顔を合わせるごとに私たちにそこの菓子をねだったものです」
「私たち?」
「そう。私と、この屋敷のお坊ちゃま。あいつは私の妹の『おねだり』にとんでもなく弱くて。言われるままに買って食べさせていましたよ」
緑の庭で崖の下の白い海岸で、若様も入れて三人、時にはライオネル様と私と二人だけで散歩をしながら。いつもライオネル様は王都での話を聞かせてくださった。学院での生活、若様とルカス伯爵令嬢との間で始まった恋物語。それから。
「そういえば、あなたも次期オーツ伯爵のヴァーノン殿と幼馴染だとか」
私ははっとしてライオネル様の顔を見上げた。ここ数日、兄様のことをすっかり忘れていたのだ。若様も話題に出さない。……そもそも、若様が学院での六年間に送ってくださった手紙の中にも、ヴァーノン兄様のことを書いたものは多くなかった。あまり会う機会もなかったのだろう。
「ええ。にい……ヴァーノン様はお元気でしょうか。ライオネル様とはお親しいのですか?」
「いや、まともにお話したことすらありません。でも」
ライオネル様は優しげで端正な顔に苦笑を浮かべる。
「あの方ほど人の目を引く人間は他にいませんでした。微笑みひとつ浮かべる事がなくとも、誰もが魅せられる。奇跡そのもののような美しさです。女性でないのが幸いでしたね」
女ならば間違いなく傾国の美女。ヴァーノン兄様を唯一友と呼ぶ王太子殿下がそう評したのは、学院では有名な話だったという。男で残念だと。
私が兄様の話を喜んで聞いていたからか、ライオネル様はそれから、私に私の知らない学院での兄様の話や、噂を色々教えてくださるようになった。
いつも王太子殿下と首席の座を争っていたとか、何年生かのとき開かれた王都の武術大会で優勝したとか、どれほどご令嬢方に人気があったかとか。
兄様はライオネル様よりも五つ年上だから、一緒に学院にいた時間は短かったはずなのに、彼は色々なことを知っていた。それだけ人気があったのだろう。
遠い世界の話のようなのに、私は話を聞くのが楽しくて嬉しかった。昔の、無表情で冷めた目をした笑わない「にいさま」。きっとほとんど変わっていない。
「ああ、そういえば」
優雅に紅茶を飲んで、ライオネル様が青い目をいたずらっぽく光らせた。その表情がなんだか少年のように見えて、思わずドキっとしてしまう。
「ヴァーノン殿の瞳の色を例えるなら、何だと思われますか? 最後に顔を見たのがもう十年も前のことでは、覚えていなくても仕方がありませんが」
私はティーカップにミルクと、砂糖を入れていた手を止めた。瞳の色? 皿の上のスポンジケーキに視線を向ける。それは、確か……。
「あれほどの方でなければ、ただ明るい茶色だとか金茶だとかで例えられるのでしょうが。しかし琥珀、黄玉、黄水晶、どれもなにか物足りない」
王太子殿下はヴァーノン兄様の髪と瞳の色を、正確に言い当てたから友人になれたのだと仰っていたとか。若君は知らないようだが、私なら何か知っているのではないか。とライオネル様は期待を込めて見つめてくる。
私はおずおずと目の前の皿を、切り分けられたケーキをライオネル様のほうに押しやった。
「あの、この色では」
「えっ?」
「きれいに焼けたスポンジケーキみたいだと、幼いころの私はいつも思っていたような気がするのです」
「ああ! なるほど」
ライオネル様はくすくす笑った。
「それはわからなくて当然だ。ケーキね、なるほど。それは分からない。あなたは小さなころから、考えることまで可愛らしかったのですね」
いつも真っ赤になる私、からかうようにまた笑うライオネル様。若様はだんだん私達が二人のときに近寄るのを嫌がるようになり、三人で過ごす時間は減った。
ライオネル様との時間は増えてゆき。
刺繍をしても、楽器を弾いても歌っても、何をしてもライオネル様は大げさに褒めてくださった。「あなたが平民の生まれなんて、これでは誰にもわかりませんよ」と。あまりに頼まれたので、私はつい兄様のために刺していた刺繍の風景画を、差し上げることを約束してしまった。
太陽の光の粒を撒いたような海、波に揺れる白い小舟。ここの景色は何もかもライオネル様に似合った。金の髪が揺れるたび、青い目が私を見つめるたび、胸は高鳴る。
楽しく兄様の話を聞くたび、私は逆に、自分が一番大切にしていた思い出、ヴァーノン兄様のもう消えかけていた面影が、さらに薄れていくのを感じていた。代わりにライオネル様の微笑みが心に広がっていく。
海に取り込まれるみたいに。
ある日、私達は海岸へ続く階段を下りる途中で、砂の上に座って物凄く熱心に手紙を読んでいる若様を見つけた。立ち止まった私に、ライオネル様は「私の妹からの手紙ですよ」と笑い混じりに教えてくださる。
「妹はあなたほどではありませんが、可愛らしい娘ですから、あいつも気が気じゃないのでしょう。妹に出逢う前は年上の女性が好みだったはずなのですがね」
「まあ、存じませんでした。年上の方が」
「そうそう。学院に来たばかりの頃など五つ年上の、ある子爵令嬢に夢中になって、あのときは……あ」
面白そうに青い目に光を踊らせながら、ライオネル様は重大な打ち明け話のようにささやく。
「これはあいつにも言ってないのです。実は、その令嬢は、ヴァーノン殿の想い人でもあったのですよ」
私はうっかり階段から落ちそうになった。慌てて受け止めてくださったライオネル様に「何ですって」と思わず聞き返す。自分の与えた衝撃に満足したのか、ライオネル様は「秘密ですよ」と指を唇に当てて、楽しそうにその話を始める。
「あれは休日で、私とあいつは二人で街に出ていました。用事を済ませて喫茶店で軽食を取っていたときです。窓の向こうに、侍女を連れたその子爵令嬢が通りかかりましてね。驚いたことに、あなたの若様は彼女に話しかけるため、店を飛びだして行ってしまったのです」
「それは……その」
若様に視線を向けてみると、いつのまに借りられたのか、私の携帯書き物机で手紙の返事を書き出していた。いや、まだ書くことを考えている段階のよう。肩がこっているのか、ペンを片手に首を回したりしているのに、私たちにはちっとも気付く様子が無い。
知らなかったけれど、一人の女性に夢中になると、周りが見えなくなる性格だったらしい。私は恥ずかしい気持ちで、ぼそぼそとライオネル様に謝罪した。
「若様に代って謝ります。大変失礼をいたしました」
「いえ。ずいぶん前のことですし、よくあることでしたし、当時も今も気になどしておりませんよ」
「よく、あったのですか」
幼馴染の行動に、ますます恥ずかしく申し訳なくなって赤面した私に、慰めるようにまた「お気になさらずに」と仰って、ライオネル様は話を続ける。
「どこまでお話しましたっけ、ああ、そうだ。そして……」