1. 波跡
「キャロリン様、もう召し上がらないのですか」
「ええ、もう良いの。ごちそうさま」
「……はい」
ほとんど手を付けなかった菓子の皿と茶器を下げながら、侍女が心配そうに顔を曇らせる。
それを申し訳ないような気持ちで見上げ、でも何も安心させるような言葉は思い浮かばず、私は結局そのまま立ち上がった。刺繍をするとき、いつも使っている窓辺の椅子に戻る。
布を張ったままの刺繍枠と針を取り出し……そこで、ふと窓の外に視線を移した。
窓の外には果てしないほど青い青い海と、境界線が分からないほどの、広く高く澄んだ空がある。ぼんやり眺めていると、海上を白い鳥が飛んで行った。
まるで世界に青と白しか無いみたいに。
ここは国の端、大陸の端。
断崖絶壁の岬の上に立つ領主様の居館。
私は王国の片隅にあるこの小さな土地で生まれ、すぐに両親を亡くしてからは、その友人であった領主様夫妻に引き取られて育った。――――二人の幼馴染と共に。
*・*・*
わかさま、にいさま、と私はいつも呼んでいた。
領主様の一人息子であるふたつ年上の「わかさま」と、領主様のお姉様の息子である、七つ年上の「にいさま」。
当時は兄様も、身体の弱いお母様と共に領主館に住んでおり、私たち三人はいつも一緒に過ごしたものだ。
庭園の花の中、潮風の中、海と空に挟まれて。
兄のような二人の少年と甘いお菓子。それさえあれば、幼い私はいつだってご機嫌だった。
たまに身勝手だが、優しく年の近い「わかさま」。
いつも冷めた目をして、年も離れた「にいさま」。
そんな幼馴染たちの内、私がより懐いていたのは、不思議なことに「にいさま」のほう。
両親のいない私と、父親のいない「にいさま」。領主様も奥様も、実子である若様だけではなく、私たちも同様に可愛がって下さったが、本当に同じであるはずはない。
おそらく、私は幼心にそれを感じ取り、同類意識のようなものから、兄様のほうをより好いたのだろう。
……彼が夢のように綺麗な少年で、おまけにミルクをたっぷり入れた紅茶のような、おいしそうな色の髪をしていた、というのもあるのかもしれないが。
「キャロリン、お前は馬鹿だな」
私が五歳くらいのときだったと思う。若様がお父様である領主様に連れられ、ひとりだけ領地の視察に行ってしまったある日。二人でおやつのスポンジケーキを食べながら、ケーキと同じ色の瞳の兄様は唐突にそう言った。
「なあに、にいさま。どうしたの?」
きょとんとする私に、滅多に笑わない兄様が、珍しく微かに口の端を上げる。綺麗な冷笑。
「媚を売るなら俺にではなく若君にしろ。今日だって、お前は町へ付いて行きたいと言えば、付いて行けたはずだ」
「でも、にいさまは行かないのでしょう」
子供のころの兄様は、決して領主様たちと館の外には出ようとしなかった。だから私も若様に誘われても、大抵は館に残ることにしていたのだ。
一度、私が領主様たちに連れられて出て行ったとき、いつも表情の薄い「にいさま」が、傷付いたような顔をしたのを見てしまったから。
文武に秀で、なのにそれを隠すように一歩下がり、控えめに振る舞っていた「にいさま」。三人のときは若様に遠慮するかのように、さらに無口で。
「お前は馬鹿だ」
濃い紅茶のようだと言われる私の髪を、これまた珍しくそろりと撫で、兄様は繰り返した。テーブルに頬杖をついて私を見下ろし、形の良い唇で。馬鹿だ、愚かだ。罵倒の言葉を次々落とす。
「何も持たない俺は、お前に何もしてやれない。若君に微笑ってやれ。そうすればいつか、お前はこの土地の女主人にもなれるかもしれない」
十をいくらか過ぎた程度の少年が、幼い女の子に言うには、あまりに悲しいような言葉。幼いころから利発だったらしい彼と違い、普通の子供だった私には、少しも理解できない言葉だった。
それでも、私は頑張って理解しようとしながら、「にいさま」の瞳と同じ色のスポンジケーキを、むぐむぐと咀嚼した。こくんと飲み込んだ後、出てきたのは確かに馬鹿みたいなセリフ。
「でも、あたし、にいさま好き」
「同情か? お前は若君も好きだろう」
「ん。わかさまも、りょうしゅさまも、おくさまも好き」
あと、おば様と子守のナンと庭師のネッドと……。と好きな人の名前をつらつら言っていく私を、兄様は何か得体の知れないものを見るような目で眺めていた。かなり長かったのに、遮ることもなく。そしてようやく言い終えた私は、再びケーキを口に運びながら付け足した。
「でも、にいさまが一番すき」
兄様はべつに感動したふうでもなく、そうか、とそっけなく頷いただけだった。いつも通り。
しかしそれ以来「にいさま」は、それまでよりも私と仲良くしてくれるようになった。どこがどう、という訳ではないが。ただ本当にぼんやりと、なんとなく。
若様は夕暮れ時に、領主様と一緒にお土産を山ほど抱えて帰ってきた。
どこまでも続く蒼穹、真昼の海、黄金色の日暮れ。
領主館の敷地から出ることはなくとも、世界はいつも輝き、静謐で、あまりに大きく広かった。
いくつもの季節を三人で過ごした。館で、庭で、海で。
どれほど幸せで、愛おしい時間だっただろう。
過去には、いつだって真実がある。
十年前、私が七歳のとき。最初の別れが訪れた。
やってきた立派な馬車、降り立った紳士。
「ヴァーノン様、旦那様がお呼びです」
その日、呼ばれたのは若様ではなく兄様だった。子供を客人に会わせるために呼ばれるとしても、それはいつも若様だけなのに。怪訝そうに眉を寄せ、でも立ち上がった「にいさま」の上着の裾を、私はとっさに掴んだ。
「キャロリン? どうしたんだ」
不思議そうな声は若様から。兄様は無言で、いつも通り感情の薄い目を私に向けた。その人形じみた顔に、なぜか泣きそうになりながら、願う。
「いか、ないで」
ゆっくりとスポンジケーキの目が見開かれた。以前よりも低くなった声が、なぜ、と問うてくる。私はただ「行かないで」と繰り返した。嫌な予感がしていた。なぜかは分からない。でも。……行ってしまう。
「ヴァーノン様、旦那様がお待ちです」
呼びに来た従僕が急かす。兄様はそちらをちらりと見て、私を抱き上げ、ぽろりと涙を零してしまった私の頬に唇を軽く押し付けた。それは覚えている限り、初めての口付け。
そして、彼はそのまま若様に私を押し付け、行ってしまった。途方にくれていた若様には申し訳ないことに、私は泣き疲れて眠ってしまうまで、声を上げて泣き続けた。
「今まで息子と仲良くしてくれてありがとう。さようなら」
兄様のお母様である、優婉で儚げなおば様がけぶるような微笑みを浮かべながら、そう言う。
私の予感は当たった。驚くほど素早く別れは訪れ。
立派な馬車に乗ってやって来た客人は、兄様のお父様だった。領主様よりも位の高い貴族で、昔姿を消してしまった美しい恋人を十年以上捜し続けていた方。ようやく見つけた恋人を、息子ともども領地へ連れて帰り、そこで結婚するという。
落ち着いたら、兄様は王都の学院に入るそうだ。
「姉上、どうかお元気で。ヴァーノンも。四、五年後には息子も王都に留学させるから、そのときはまた頼む」
「本当ですか父上! 良かったヴァーノン。あなたと別れるのは辛いけど、また会えるな」
領主様も、私の手を引いた若様も、馬車に乗り込もうとしている母子二人に、涙を見せることなく別れを惜しんでいる。王都は遠い。気軽に行き来できる距離ではない。
留学をする若様はともかく、私はもう彼に会えないだろうと、領主様はおっしゃった。恐らく今生の別れだと。
別れ。お別れ。明日もあさっても、しあさっても、それからも――二度と、会えない。辞めてしまった使用人達と同じように。もう会うことはない。
私は別れを知ってから夜通し泣いた。でも「そのほうがヴァーノンにとっては良いことなのよ」と奥様が仰ったから、行かないで、とももう言えず。見送りの時には、泣き疲れた目で、ぼんやりと兄様を見ていた。
ミルクとお砂糖をいっぱい入れた、おいしそうな大好きな紅茶の髪。朝の光をはらんで淡く輝く。彼には強い陽光も濃い海の青も似合わない。
涙を流すお母様と真逆に、特に表情を変えるでもなく、領主様達に別れの挨拶をした兄様は、ふと長身をかがめ、少し上から私を見下ろした。
「キャロリン」
「……なあに」
「微笑ってみろ」
その目があまりにいつも通りなので、私はちょっぴり悲しいのを忘れ、べつに無理矢理でもなく微笑んだ。こう? と聞けば「にいさま」こそが、ふわりと陽に溶けるように微笑む。
ドキリとするほど無防備な、一瞬だけの笑みだった。口に入れた繊細な砂糖菓子のように、ふわっと消えても心に優しく染み込むような、極上の笑顔。
彼の顔が見える位置にいたのは私だけなので、私と手を繋いでいた若様も、他の誰もそれを見ていない。思わず我が目を疑った私は、空いている手で、目と熱くなった頬をこする。
「にいさま……?」
彼はもう表情を変えることも、何か言葉を残すこともなかった。擦っていないほうのまぶたに軽い口付けを落として、背を向けた。
走り去る馬車。空と海を置いて。
潮のにおい、ガラガラという音。
私は彼に『さよなら』を言っていない。
それきり十年間、次期伯爵となった「にいさま」は、私たちに会いに来ることはおろか、送った手紙の返事をくれることも無い。私はそれでも時折手紙を書いては、刺繍したハンカチなどと共に送っていた。
お元気ですか、にいさま。今日もお外は青いです――。
馬車に乗って「にいさま」が行ってしまってから、四年後。今度は、もうひとりの幼馴染との別れがやって来た。「わかさま」が、王都の学院に入学することになったのだ。
「そんなに泣くなキャロリン。六年会えないだけだ。二度と会えないわけじゃないんだから」
「でも、でも若様」
「手紙も書くし、卒業したらすぐに戻ってくるから」
ほら、だから泣くな。と困ったように眉を下げ、苦笑する若様。私はえぐえぐ泣いていた。それでも領主様や、奥様と共に「さよなら、いってらっしゃい」となんとか別れを言う。言うことができた。
「兄様にお会いしたら、よろしく伝えてください」
「ああ。……元気で」
「若様も」
そうして領主館の子供は、私ひとりを残していなくなってしまった。何もかもが清く青く陽光に照らされ、きらぎらと光り輝くこの場所に、ただひとり。私だけを残して。