神さんのお告げ
ガラスに上下灰色のスポーツ用のスウェットを着ている、12歳の少年が映っている。その少年は少年であるにもかかわらず、今話題のメタボリック中年のようにゴムであるはずのウエストからわずかとは言いがたい量の肉がはみ出ていた。
だがその少年はそんな憎い贅肉のことなど気にも留めず、手にした少年軟式用のバットを懸命に振っていた。
つまりおれのこと、なんだけどさ。
周囲は真っ暗。おれの家はマンションなわけだが、その一階にある駐輪場に今はいる。時々通りの方から車のヘッドライトとエンジン音が聞こえては消えていった。
おれはポッケに突っ込んできたポケットカイロを取り出してシャカシャカと振る。手に息を吹きかけ、凍える指先を温めた。おれの口から出てきた白い息は星の少ない空へかすんでいった。
バットを振る、というのは見た目以上に激しい運動なので寒くはない。むしろ熱くてだらだらと汗をかいてるくらいだ。だけど指先とみみたぶだけはそうはいかない。おれは温かくなってきたカイロを耳へ押し当てた。
今は12月も半ばをすぎようとしているころ。
人生最後の少年野球はクライマックスを向かえようとしており、今年から始まるという中学選択制の希望しめ切りがせまりつつあった。
そんなとある夜、である。
おれはバットを振る。
お前、当たれば飛ぶよな。
最近、その言葉が「お前、デブだよな」と聞こえてきていやに腹が立つ。
当たれば飛ぶ。
それが、おれに対する周囲の評価だった。
タクマなんかはそれこそ毎日この言葉を繰り返す。
いつも怖い監督も、ティーバッティングをするたびに言う。張ったネットに向かってC球の軟式ボールをパカーンと良い音で打ちっぱなすたびに、言う。
二人のこの言葉は悪口ではない。
おれにしたって「当たれば飛ぶ」という評価はまんざらでもない。だってまるでテレビに映るプロ野球の四番のようではないか。監督はともかくタクマに言われるのはたまにムカっとするが。
実際、おれはブルーライオンズの中では一番の強打者だ。タクマだってグランドのフェンスを打球が越えたことはない。おれはすでに一回とおしいのを二、三回打っている。
だから強打者だってことはみんな認めてくれていた。
だけどおれはタクマと違ってブルーライオンズのレギュラーではなかった。
なぜなら、おれのバットはなかなかボールに当たらなかった。
困ったものである。
最近のおれには悩みがあった。
野球のことではない。いや、全く関係ないわけではないが(むしろ大きく関係するのだが)、悩みとはいわゆる進路のことだった。
おれはその悩みを朝起きてから夜寝るまで、片時も頭の隅から離すことはなかった。
そりゃ飯を食ってる時は飯のことを考えているし、学校で友達とバカ話をすれば大声で猿みたいに笑ったりもするだろう。
だけどそんな時でさえ、頭のずっと奥の冷静な部分は「おい、お前はそんな場合じゃないだろう」と語りかけてくるのだ。
これが親父も母ちゃんも寝静まった眠れない夜だったりした時はもはや最悪の一言につきる。
おれはまるで悪夢にでもうなされるように、うんうんと終らない無限ループに落ちていくこととなるのだ。
その悩みとは今年から施行されることとなった学校選択制度だった。今までは学区域によって決められていた公立の中学校を自分で選べるようになったのだ。
その制度自体は喜ぶべきことだった。
だが、そこで脳裏をかすめるのはタクマたちブルーライオンズのチームメイトたちのことだ。
「オレたち、みんな十七中へ行くよ」
なー、と声を合わせながらみんなは言っていた。
十七中というのは元々おれたちの学区の中学校のことだった。
そこは野球部はあるが練習は毎日ではない。強くはないが楽しく野球をやれるようなところだ。みんなはそこへ入って土日はブルーライオンズの中等部を続けるのだという。気心の知れた仲間と共に中学野球をする。それは想像しただけで心躍る想像だった。
ただ、問題なのは十七中と同じくらいの距離の範囲に五月中という学校があることだ。ここは練習が毎日ある。しかも噂ではかなり厳しい練習であるらしい。高校生顔負け、とまで噂されるようなところだった。ただその練習には実績も伴っていて、そこの監督は無名だった五月中をなんと五年で全国大会まで連れてしまっていた。
辛いだろうが、そこへ入ればきっと上手くなれる。
それがおれの悩みだった。
悔しいがおれはタクマよりもずっと野球が下手だった。下手なのだから五月中に入れば辛い思いもするだろう。もしかしたら三年間ずっと補欠かもしれない。だがこのままではずっと下手なままだ。恥ずかしくて誰にも言っていないが、おれはプロ野球選手になりたかった。二軍でもいい、テレビで見るあのフィールドに立ってみたかった。だから、このままではいけない気がした。
だけど同時に現時点でタクマにも勝てないお前には無理だ、という声も聞こえてくる。どうせ辛い思いをしてそれだけで終わるのだ、と。お前にはセンスも才能もない、と。ならばタクマたちと一緒に楽しくやるのが正解に違いない。
才能や天才を否定したい強い気持ちと認めて楽になりたい気持ち。最近、このことを考え出すと頭に靄がかかったようになる。地図もコンパスも持たずに密林を目印だけでさ迷い歩いているような不安にかられるのだ。そうしていつも、意味のないところをくるくると回り続けるのだ。
努力は必ず報われる、なんていうのは大人たちの偽善だ。
言っている本人たちですら信じていないのは目を見れば分かる。
世の中はどうしたって不公平にできている。そんなのは世間を見るまでもなく、同じ量の練習量で天と地にも月とスッポンにもなる自分たちの世界を見れば一目瞭然だ。
時々とても文句が言いたくなるけど、言ってもしょうがないことだって、分からなくもない。
それにタクマなんかは努力なんて言葉は格好悪いと言うけど、おれはそんなに嫌いじゃなかった。
でもおれが努力をするとなれば半端ではなんの意味もない。
普通よりもセンスがないのだ。
普通よりもずっと時間をかけなければならないだろう。
そうした道が報われればいい。でも報われなかったら?
普通じゃない時間をかけて、辛いだけのことをしてなんにも残らなかったらどうしよう。
人よりも楽しいことは少ない道だろう。きっとそれ以外の可能性ってやつも、野球をやることによってほとんどなくなってしまうに違いない。
そうなれば、きっとおれは親父のように平凡なありふれたサラリーマンとして社会の歯車にされてしまうのだろう。
それだけは嫌だった。
だったら他に自分にあった“なにか”を探してみたかった。
そんなことを考えながら、おれはバットを振り続ける。
だけど今はもう十二月。母ちゃんがはやく決めなさい、とうるさく言っていた。
書類をださなくちゃいけないんだから、と。
もう残された時間はそんなになかった。
だからおれはいつも考えていた。
長い時間、苦悩し続けていた。
子供らしくちゃんと相談もした。
だけど大人は役に立たない。したり顔で悩め悩めと言うばかりで、ちっとも参考になることを言いやしない。タクマたちの方がよっぽど良いことを言う。ただそれは十七中のPRばかりなので、――時には五月中の悪口まであった――とても公平な意見とは言えなかったが。
唯一ありがたかったのは母ちゃんだった。母ちゃんは五月中へ行ってる生徒の母親から話などを聞いてきてくれたり、十七中のパンフレットを持ってきてくれたりした。
だけど、その母ちゃんが言うのだ。
早くしなさい、と。
口うるさいババアではあるが、間違ったことは言わないのがうちの母親だった。だからきっと、本当にもう決めなくてはいけない時が近いのだろう。
時間はぜんぜん足りていなかった。
世の中、ままならないものである。
そんなことを、今日も今日とて考えながらおれは自主練習にいそしんでいるわけだ。
ちなみに、そんなおれにとって野球とはなにか。
それにはまずおれのことをもう少し簡単に説明しなくてはならない。
まず言えることはおれはデブだった。
これはすでに説明した。
そしておれはちょっと、――本当にちょっとだ!――一般的な顔立ちよりも全体の作りが悪いといえなくもなかった。
世の中はままならないだけでなく、不公平でもあったわけだ。
神様なんて死ねばいい。
信じてないけどさ。
親はおれを見れば分かるとおり両方さえない顔をしているし、親父は平凡なサラリーマンだ。何度かなんでもっと格好よく生まなかった! と罵ってみたことがあるが、親父とはそのたびに殴り合いのケンカだ。一億分の一の幸運に感謝しやがれ、とかほざいていたがなんのこっちゃい。
まあそんなことはともかく、おれはイケメンでもなく――イケメンじゃないだけだ!――デブという救いがいのない少年だった。
だがそんなおれにも救いがまったくないわけではなかった。
それが野球だった。いや、もっと具体的に言えばバッティングだった。
顔を見れば分かるだろうが、おれには運動神経というものがない(運動神経は顔に比例する、というのはおれが短い人生の中で発見した真理だ)。だから、正直野球は厳しいものがあった。だが、同時に野球には唯一デブであることが許されるジャンルがあった。
それが、バッティングだ。
取るのも苦手、投げるのも苦手、走るのはもはや論外なおれにも脚光を浴びることのできるジャンル。それこそがバッティングなのだ。
身体の大きさと打球の飛距離の比例しぐあいは、おれの発見した真理(顔と運動神経)と同等と言っていいくらいの性能を見せた。
タクマに誘われて入った当初、惰性で続けていたおれはいつの間にかこのバッティングに魅せられてしまっていた。
そんなわけでの自主練習。素振りというわけである。
だからおれはガラス戸の正面に立っているのだ。フォームをチェックするために。
監督に本数は認めるがもっと形を気にしろ、と言われたのだ。
おれは耳元へグリップを持っていき、構えを作る。浅く呼吸をしてそれをきっかけにする。ピッチャーが足を上げたのをイメージして足を横に一歩、踏み込む。ボールがインコースへ鋭く切り込んでくる! それに対し、まるで身体が全体で反応するように無意識に腰が回る。バットは目の前の空間を切り裂く。グリップが素手を擦る感覚。フォロースルーは意識して大きく。同時に、ブーンという大きなスイング音が耳へ届く。
振った姿勢のまま、三秒ほど止まる。
「ふー」
どうやら足腰は安定しているようだ。
おれは同じ要領でさらに二度三度とバットを振っていく。
素振りはすでに毎日の日課となっていた。毎日百回。アサガオの水やりでさえ三日でなげだしたおれにとって、毎日百回の素振りというのはなかなか大したものだと思う。なんていったってすでに五ヵ月半も、続いているのだ。
ガラスに自分の姿を映しながらの素振り。
ガラスの前に立つようになったのは三日前からだが、イマイチ振りづらい。
だけどそれで打てるようになるのだったら、やるしかないだろう。
そんなことを考えながら、さらに一本バットを振った。
「――フッ」
腰をひねると口から息が漏れた。
明日は試合だから、今日は少し多めに振っていた。
そんな時、
――――明日の試合、ヒットが出たら五月中にしよう。
強豪で、辛い思いをしてこよう。自分の秘められているかもしれない才能を信じてみよう。
そう思い付いた。
それはまるで信じていない神さまからの啓示のように、これまでの苦悩に終止符を打つようなドラマチックな輝きをもっておれの中へ入り込んできたのだった。
明日はリーグ戦最終日。
最悪でも代打、上手くすれば先発もあるかもしれない。
◇ ◇ ◇
出番は、最終回(少年野球なので五回だ)の裏。三点ビハインド、ツーアウト満塁で回ってきた。
負けてはいるが、長打が出ればそれだけでサヨナラ勝ちの場面だ。
試合会場は河川敷のグランドだ。
相手チームはグリーンエンジェルス。うちのチームのライバルとも言えるチームだ。
土手のグランドなので設備は悪く、外野のずっと先では別な少年野球のチームが試合を行っている。バックネットの裏には木のベンチがあってそこには両チームの母親たちが騒がしくしていた。うちの母ちゃんもいる。来んなってんのに。
おれたちは今日は三塁側のベンチだ。おれは代打の準備のためにそのベンチの裏で素振りをしていた。
そこへ監督の声がかかった。
いつも顔の真っ赤な中年オヤジは言った。出番だぞ、と。
そしておれはヘルメットをかぶった。青一色のブルーライオンズのヘルメットだ。
おれは少し歩き、ネクストバッターズサークルのあたりで一度、ブンとバッドを振った。
監督はタイムをかけると主審へ代打を宣言していた。
バックネットから黄色い声が飛ぶ。
おれは自分の顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしいったらありゃしない。
だけど、今のおれはそんなことにうろたえている暇はなかった。
はやる心臓を抑え、呼吸を整える。
落ち着け。舞い上がって頭真っ白、気づいたら打席が終っている、というのがいつもの失敗パターンだろう。
おれは自分に言い聞かせる。
そんな時、後ろから声がかかった。
「三振すんなよ」
マッシュルームのようなお坊ちゃまカット、タクマが歯を見せて笑った。意地の悪そうな下品な笑い方だった。
「うっせ」
「三点差、オレまで回せば勝ちだぜ」
タクマはそう言ってネクストに膝をついて座った。
「おれで終わりだばーか」
「言うじゃねーか運動オンチ」
「黙ってみとけお坊ちゃま」
おれは後ろを振り返った。そしておれらは同時にイーっと歯を見せて威嚇しあう。
しかしいつまでもそうしてはいられない。それはたった一秒くらいの時間だった。
おれは踵を返した。
その背中に小さな声がかかる。
頼んだぜ。
小さな、心強い声が。
おれはその声に心の中だけでうなずいた。おう、と。小さく強くうなずいた。
そうやっておれはバッターボックスへたどり着く。
石灰の粉で描かれた小さな箱。
その横に立ってもう一度、力まないように今度は軽くバットを振った。
「バッター、急いで」
キャッチャーの後ろに立つ主審に言われる。
ドキっと、少し落ち着いていた心臓が嫌な音を立てた。
ちょっとムッとしながらも、おれはヘルメットのつばをさわりながら小さくおじぎをした。
「おねがいします」
その時、キャッチャーが小さく身じろぎした。サインを考えているのが、気配で分かる。
おれは右打席へ右足を突っ込む。みんなが振ってできたくぼみを、スパイクをはいた足で、かるくならす。自分のしっくりくるように、足元を固める。
そうして左足をボックス内へ踏み入れる。一度地面を噛み、力を抜く。
バットの先を掲げ、その先にピッチャーを見る。視界の端にホームベースをとらえ、ストライクゾーンの外を確認しながら高めに手を出してはいけない、と自分に言い聞かせる。
悪くない。
頭は真っ白になってないし、いつもはどれかが欠けてしまう確認作業も全て出来ている。なにより、ピッチャーがよく見えている。
ピッチャーは私立から声がかかっていると噂のサイトウだ。すでに170を越える身長があり、ボールは最高直球120キロを越える。そのサイトウの息遣い。ボールをグローブの中で弄んでいる手。ユニホームのしわ。キャッチャーのサインを睨む表情。全てが視えた。
カメラのピントが合う感じ。
この感覚は、“いける”時の感覚だ!
先へ先へ行こうとする鼓動にも、しっかりと手綱がかかっている。
野手の位置も見えていた。おれが引っ張り(レフト打ち)が得意なのを知っているのだろう。外野が左寄りに守っていた。
いつも監督が言っていたことが頭にすべりこんで来る。
「お前はいつも遠くへ引っ張ろうとするからボールの見切りが早くなっちまうんだよ。インコースは得意なんだろ? 意識しなくたって打てるくらい得意なら、わざわざ狙ってんじゃねぇ。狙うのはむしろアウトコース。外だ、外」
アウトコース。
それしかない、と思った。
おれは脳みそをフル回転させながら、バットをピッタリ寸分の狂いもなくいつもどおりの場所――耳もと――へ構えた。
「プレイ」
主審の声がした。
歓声が耳から遠ざかる。
それに合わせてサイトウがキャッチャーのサインにうなずくのが見えた。
足が上がり、しなるオーバースローから120キロの剛速球が、
来た。
インコース!
腰が回る。
パカーン!
カーボン素材のバット独特の快音が響いた。
サイトウの焦る顔が見えた。
顔が緩むのも押さえられずに走り出しながらボールの行方を見る。
「ファールボール」
だが、ボールは大きくフェアゾーンをそれていた。
「くっ」
おれはそれを見ると走り出した一塁線からバッターボックスへと戻った。
「今のまぐれ当たりで満足するなよ」
「するか」
ボックスの脇ではニヤニヤしたタクマがバットを拾ってくれていた。
おれはその差し出されたグリップを受け取ると、もう一度軽く振った。
タクマはそれを見るとおれのユニホームのケツを叩いてなにも言わずにネクストへ戻っていった。
おれはそれを確認すると、再びバッターボックスへと足を踏み入れた。
「プレイ」
サイトウは口を膨らませてふー、と大きく息をついていた。
そして再びサインにうなずく。
おれもピントを、合わせた。
足が上がり、グローブが大きく空を切り、しなる腕から第二球が放たれた。
来た、アウトコース。
いや、遠い。
宙をすべるボールは、ベース上を通過するころにはストライクゾーンを外れるように見えた。
おれは振ってしまいそうになる体を必死に止めた。
バシーン。
ミットのポケットにボールの納まる快音が耳に響いた。
と、止まった。
しかし、
「ストライーク、ツー!」
「なっ」
おれは反射的に主審を振り返った。
だが主審のおやじは、
「ストライクだ」
こちらがなにも言う前に釘をさすように言った。
そんなに不満そうな顔をしていたのだろうか。まだなにも言っていないじゃねーか。言うつもりだったけど。
まあもともと、審判への抗議はルール違反なのだ。仕方ないといえば仕方ない。
おれは諦めて振り返った。
「ナイスボール」
横ではキャッチャーが清々しい声で言いながらピッチャーへボールを返していた。
「ナイスキャッチング」
サイトウもほっとしたように笑いながらボールを受け取った。
「くそ」
おれはもう一度ホームベースを確認しながらバットの先を掲げ、ピッチャーを睨んだ。
ツーストライク。
少年野球で変化球は禁止されている。だから球種はストレートだけだ。
問題は、外か真ん中か内か。高か低か。ストライクかボールか。
三振はできない。当てさえすれば、なにが起こるか分からないのが野球だ。
追い込まれたらストライクゾーンを広く。
野球の鉄則だ。審判の判断ひとつで広がったり狭くなったりするストライクゾーンは、三振の可能性のあるツーストライクになれば広めに取らざるを得ない。今の球を見るだけでも、審判のストライクゾーンとおれのストライクゾーンはイコールではないのだ。
サイトウはボールを受け取ると、テンポよくプレートを踏んだ。
軽く頷き、足を上げる。
ここで一度ゆったりとした動きになり、ためを作る。
その動きに合わせて、おれはバックスイングを取る。軽く腰をねじりこんでこちらもためを作る。
サイトウの手がグローブから出され、体の後ろで大きく半円を描く。おれにはその様がゆっくりと見えた。グローブが空を切り、サイトウの体に巻き取られていく。それに連動して右手を大きくしなり頂上を目指す。ためられた腰が完全に振り切られ、軸足はプレートを蹴り上げる。頂上へ到達した手がボールを弾くように手首を打ち下ろした。
綺麗な立て回転のかかった軟球が、弾き出された。
その後ろで離れた軸足が着地し、グリーンの帽子がずり落ちたサイトウの姿まで見えた。
その球は間違いなく120キロを越えていた。
これまで見たどんな球よりも速かった。
その球が宙を切り裂いて、伸び上がってきた。
「クッ」
おれは肺がよじれるような感覚を味わいながらもそれを叩きつぶしにかかった。
アウトハイ!
外角の高めだ。
グッリップがボール目掛けて走った。逆にねじられた腰が元に戻る力を利用してさらに振り切る。顔だけがボールを見続け、それ以外の体がまるで独楽のように回転した。バットとボールがすれ違う寸前、手首が返りバットのヘッドが大きく円を描くようにして体へ巻きついた。
勝負は、一瞬で着いた。
そんなもんだ。
プロ野球の試合が二時間三時間かけて戦おうと、その試合を決定付ける勝負というものはいつだって一秒にも満たない一瞬なんだ。
その一瞬のために何時間も戦い、その一瞬のために一生ともいえる時間を野球に費やす人たちがいる。おれらだって今はまだまだ短いかもしれないが、それだって結構な時間をこの一瞬のために費やし続けているのだ。
その一瞬が終った時。
おれの耳は引き千切られるかと思うような静けさの中にあった。
その次の一瞬も終った時、辺り一帯は歓声に包まれた。
その歓声は、一塁側。
グリーンエンジェルスのベンチから漏れたものだった。
「ストライク、バッターアウト! ゲームセット」
おれは、三振した。
おれたちは整列していた。
三振をして返ってきたおれにいつもうるさいくらいの監督はなにも言わず静かにうなずき、タクマはヘルメットを被ったおれの頭を脱いだ自分のヘルメットで殴ってきた。顔を見ると、そこには気まずさを茶化してくれているような意地の悪い笑みがあった。
その後、ベンチにいたみんなもぱらぱらと立上がり、ホームベースの前へ列を作るのだった。
数秒もすればブルーライオンズとグリーンエンジェルスが主審の前に、ぴたりときれいな二列を作った。
両チームの監督やコーチもベンチから出てくる。
そうして、
「七―四でグリーンエンジェルスの勝ち。ゲーム!」
主審の一声によってみんなが帽子を取って一礼する。
『ありがとうございましたぁー!!』
おれも、自分の腹が顔面に迫るくらいに腰を折って大声であいさつをした。
――やっぱ五月中、行くか。
その時、昨夜と同じようにおれの中へ想いが滑り込んできた。
そこにあるのは悔しさから来るど根性でもなく、天才を否定する強き意思でもなく、ただ平然と約束をなかったかのように振舞う、傍若無人な『決定』だった。
数分後、おれはみんなと一緒にベンチを片付けていた。
バット置き場からバットを抜き取って大声で持ち主をさがしたり、ヘルメットケースへヘルメットを入れるのに四苦八苦したり、各自スパイクのドロを落したりしていた。
そんな中、おれはついさっきのことを思い出す。
それは稲妻のように鋭く、風邪薬よりも静かに体へ染み込んでいくような感覚だった。
あるいは今までのおれの苦悩を返してくれ、と思わずにはいられないような拍子抜けするような決定だった。
しかしつまるところ、どんなに長く戦っていても勝負の決着は一瞬であるように、どんなに考えごとをしていたところで決意をするのは一瞬なのだ。
そう、それはまるで信じていない神さまのお告げにも似た、
――一瞬の、出来事だった。
この作品はムーンチャイルド企画に参加させていただいています。
タイトルはとりあえず誤字ではありません。
一度あとがきなるものを書いてみたのですが、操作ミスにより見事に綺麗さっぱり消えてしまいやがりました。
というわけで目くるめく黒歴史ストーリーは次回作へ持ち越し、ということになりそうです。
作者は黙して語らず。
伝えたかったことも語りたかったことも描きたかったことも、そして伝わりきらなかったことも実力不足なところも、ありとあらゆるものは全て本文が語ってくれているでしょう。
この小説を書くにあたって叱咤激励をしてくださったみなさま、推敲につきあってくれた北崎や蜻蛉、大学友人のみなさま、本当にありがとうございました。
最後に、私の拙作に最後まで付き合ってくださった読者の方、ありがとうございます。とにかく精進していきたいと思います。
結局あとがき風じゃん、とか自分に自分で突っ込みを入れながらここいら辺で出しゃばりを終わらせておこうかと思います。
それでは。