白壁姫―シラヘキヒメ―
お姫様はいつだって孤独だ。
だってお姫様はひとりしかいないんだから。
お姫様はいつだって孤独だ。
だってお姫様には友達なんていないんだから。
お姫様はいつだって孤独だ。
だってお姫様のお部屋は真っ白な壁に囲まれてお姫様以外は誰も入ることが出来ないんだから。
そう、私はいつだって孤独だ。
私がこの部屋に閉じ込められてからもうどれくらいの時間が流れたのだろう。
ああ、早く昔のようにおいしいお菓子を食べたり、綺麗な服を着たりしたいわ。
それが出来ないならもういっそのこと私をひとおもいに殺してしまってほしいわ。
真っ白な壁にかけられた真っ赤なドレスを見ながら私はいつも思う。
いつかはこのドレスを着てたくさんの人たちの前で踊りたいと。
そしてその中から私の境遇を変えてくれる王子さまを見つけ出したいと。
お母様もお父様も私のことを忘れてしまったのかしら。
どうして私をこの真っ白な部屋に閉じ込めたままで、一度だって会いに来てはくれないのだろうか。
私のこと、邪魔になっちゃったのかしら。
何もない部屋は狭いのにとても広くて、いちにちは残酷なまでに長くて、私はいつだって死ぬほど退屈だ。
誰か私を連れ出して。
私を奪って逃げ出して。
そう願うしか退屈を紛らす術はなかった。
いつか王子さまが迎えに来てくれる。
素敵なキスで魔法をかけて私を自由にしてくれる。
そんな子どもじみた妄想に逃げ込む事くらいは許されるはずよ。
だって私にあるのは無限とも思えるほど膨大な時間だけなのだから。
「調子はどうかしら?今日もご飯食べてないの?そんなんじゃダメよ。元気が出ないわ」
部屋の壁と同じくらい白い服を来た女が扉の向こうから声をかけてくる。
部屋の入り口は何故だか透明な窓になっていて、私は見世物のように周りから丸見えで生活しなければならなかった。
もっとも今となってはこの白服の女しか私を訪ねてくれる者はいないのだけれども。
まるで私を監視しているかのようなこの女の事を私は親しみを込めて"看守"と呼んでいる。
「夢…えっと、今日はウサギさんの夢は観たのかしら、アリスちゃん?」
全く馴れ馴れしい。
私はお姫様だというのにどうしてこの女はこんなにもぞんざいな物言いしかできないのだろうか。
まさか、毎日このつまらない会話に付き合ってやっているからって自分が私の友達になれたとでも勘違いしているのではないかしら。
だとしたら少し考え物だわ。
いくら退屈だからってこんな下銭の者に
馴れた口を利かれては私の威厳に関わる。
いつかこの部屋を出たときお母様の後を継いで立派な女王様になるのはこの私なのだから。
それにあの不思議なウサギの事をいつまでも夢扱いしてくるのも腹立たしい。
夢なんかじゃないのに。
本当に人間のコトバを話すウサギは時折、この部屋を訪れては私の話し相手になってくれるのだ。
「夢じゃない。私には見えるのよ、人のコトバを話すウサギが。ちゃんと服だって着てたわ。あれは神様の御使いなのよ。きっと私を助けてくれる」
「うん、そうね。でも…私だってアリスちゃんの力になりたいわ。その為にはまずちゃんとアリスちゃんが食事を取ってくれないと…」
「フォアグラ」
「え?」
「白トリュフ」
「はぁ…」
「キャビア」
「う…」
看守が言葉を詰まらせる。
「それぐらい持ってきたら食べてあげるわ。こんな下々の者が食べるような料理を出されても全く食欲がわかないの」
驚くべき事に私に供される食事はひどく質素で、味もほとんどしないような粗悪品だった。
いったいどこの料理人が作ればこのような代物ができるというのかしら。
幽閉されているとはいえ自分がお姫様の食事を作っているという自覚が足りないのではないだろうか。
私が即位した暁にはそんな怠惰な料理人は全員クビにしてやろう。
もちろん、文字通りの意味で。
「アリスちゃん、あまりわがままを言わないで。外に出たらきっと今アリスちゃんが言ったような食べ物だって食べられるわ。だからそれまできちんと出された食事は食べてほしいの。でないとここから出る前にアリスちゃん、死んじゃうわ」
看守の分際で前から態度がでかいとは思っていたが今日はいつにも増して口うるさかった。
まるで母親気取りだ。
私のお母様にでもなったつもりなのだろうか。
まさか…
私はふと思う。
私がこんな白い壁の内側で無為に日々を過ごしている内に王宮では革命でも起こってしまったのではないだろうか。
体制は崩壊し、王権は失墜し、そして王であるお父様は処刑された。
そんな最悪のシナリオが私の頭をよぎる。
「ねぇ、アリスちゃん…」
「お父様はどこ?」
「え?」
「あなた、私のお父様とお母様をどこに隠したの?思えば二人が一度も私を訪ねてこないなんて絶対におかしいわ…あなたのような下銭の者が私にぞんざいな口を利くのもおかしいと思っていたのよ」
「アリスちゃん落ち着いて」
「うるさい!落ち着いて欲しかったら今すぐお父様とお母様を連れてきなさい!どう?できないのでしょう?なぜなら二人はもうこの世にはいないのだから!あなたたち汚らわしい革命派が殺してしまったのだから!」
私が壁を叩くと看守は何か恐ろしいものを見たかのように後ずさった。
間違いない。
この反応は何かを隠している証拠だ。
くそっ、ふざけやがって。
私を誰だと思っているんだ。
首をはねてやる。
ここから出た暁にはまず真っ先にこいつの首をはねて城門に晒してやる。
看守は覚束ない足取りで私の部屋から離れるとしばらくして屈強な男たちを引き連れて戻ってきた。
何やら物凄い形相で男たちへ指示を出している。
何だ、こいつらは。
革命派の兵士か?
男どもは部屋の扉に手をかけると錠を外して室内に足を踏み入れた。
「無礼者が!誰の許可を得てここに入っているのよ!私に指一本でも触れてみろ!一族もろとも滅ぼしてやるぞ!皆殺しだ!」
私の脅しにも屈せず男たちは私の両腕を押さえると床に寝かしつけた。
「や、やめろ…何をする気だ…嫌だ…やめろ!」
看守が私に近づく。
「大丈夫よ。少し落ち着きましょうね。大丈夫だから」
看守の手が私の首筋に近づく。
やめろ。
やめろ。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
私はまだ死にたくない。
「嫌あああああっ!助けてっ!お父様!お母様!」
私の意識はそこで覚醒する。
いつもと変わらぬ白い壁に覆われた部屋。
起き上がったのは備え付けのベッドの上。
相も変わらず錠の落とされた部屋。
部屋の隅にはお気に入りの真っ赤なドレスが飾ってある。
背中を濡らす不快な汗を除いていつもと全く変わらぬ光景だった。
外の様子はわからないけれど恐らく今は夜だ。
夢…
そう、夢だったのだ。
恐ろしい夢だった。
革命派なんてものが存在するはずがないのに。
お父様とお母様が訪ねてこない事が徐々に私の神経をすり減らせていく。
奇妙な妄想が私の頭を支配する。
駄目だ。
このままじゃおかしくなる。
大体、この真っ白な部屋がいけないんだ。
こんな白い壁ばかり見つめて日々を過ごしているから気が狂いそうになるんだ。
そうだ。
楽しいことを考えよう。
ここから出たときの事を。
そう思って私はベッドから身体を起こすとドレスの前まで歩いていって腰をおろした。
うん。
やっぱりここが一番落ち着くわ。
ドレスに指を這わせると柔らかな布地の感触を楽しんだ。
同時に不揃いな自分の爪が視界に入って気分を萎えさせる。
嫌だわ。
ここに来てからというもの、おしゃれに気を使えた試しがない。
あの看守は決まって同じ時間に現れては三食の食事を持ってくるばかりで差し入れのひとつも寄越さない。
そして訪れては先程のようにつまらない話を一方的に話して帰っていくのだ。
考えながら気づく。
"先程"って何の事?
さっきの出来事は夢だったはずよ。
あれは現実じゃない。
にも関わらず私の首筋には今でも嫌な感触が残っているような気がする。
不快だった。
看守の事を考えるだけでも胃酸が上がってくる。
気分が悪い。
そうだ。
駄目よ。
楽しい事を考えるはずだった。
楽しい事だ。
楽しい事…
ここを出た後にやりたい事。
そう、まずは…
あの看守を血祭りに挙げることだ。
あのイカれた女をどうにかしてやらなければ気が済まない。
今まで私が受けた屈辱を、そのまま、いや、万倍にして返してやらなければ気が済まない。
衛兵百人を動員して奴が肉片になるまで槍で突き回してやる。
そうしたらその後、バラバラになった肉をソテーして豚のエサにしてやるんだ。
それは楽しいことだ。
とても、とても、楽しいことだ。
いや、違う。
そんな事をしても気分は晴れない。
私がしたいのは…
舞踏会に出ることだ。
この真紅のドレスを着て、王子さまと踊って、キスをして、そうやってお姫様らしくこの世の春を謳歌するんだ。
うん、そうだ。
それが私のしたかったことだ。
今のうちにステップの練習をしておこう。
ワンツー、ワンツー。
足を揃えて。
ワンツー、ワンツー。
リズムに合わせて。
誰よりも素敵に踊って見せるわ。
だって私はお姫様なのだから。
ここから出たら私が舞踏会を主催してあげよう。
みんなを集めて楽しく踊って、おいしい料理を用意して。
せっかくだからあの看守も呼んであげよう。でも、あんな下銭の者がきっちりとしたダンスの教養を身に付けているとは思えないし…
何か特別な趣向を凝らす必要があるだろう。
そうね、じゃあフロアいっぱいに熱した鉄の板を敷き詰めるとはいうのはどうかしら。
そこの上を裸足で歩かせたらステップを踏んでいるように見えるし、それなりに見ごたえのあるダンスになるのではないだろうか。
何よりどんな動きになるのか予測が出来ないのが良い。
あの看守が悶え苦しんでいる側で食べるディナーはさぞ素敵なものとなるに違いない。
楽しい未来の出来事を想像して満足すると同時に虚しさが込み上げた。
そんな日々が訪れることなんて今の私には夢のまた夢なのだから。
そう、夢だ。
いっそのこと、この状況全てが悪い夢であってくれたならいいのに。
壁にかけたドレスを手に取って両手に抱き締めると私はその場にうずくまった。
こうしていれば今度は温かい夢に落ちることができるだろうか。
お父様、お母様…会いたいわ。
私を置いてどこにいってしまったの。
「やぁ、今日はまたいちだんと元気がないね」
部屋の外から声がする。
看守ではない。
この間延びした声音は…
窓から外を見た。
長いふたつの耳が頭上へ伸び、からからと笑う度に小さな前歯が口許から顔を出している。
ぴったりと身体に合ったタキシードに身を包んだウサギは私の腰あたりまでしかない身長で必死に背伸びをしながら私に向かって笑顔を見せた。
「あなたのその顔、正直言って不気味だわ。不快よ」
「さらりとヒドい事を言うね、君」
「あら、だって私はお姫様よ。その気になったらあなたなんて簡単にどうにかできちゃうんだから」
「ずいぶんな物言いだなぁ。退屈だろうと思って、せっかく遊びに来てあげたのに」
「あなたこそ軽口を叩くだけで何の役にもたたないじゃない。神の使いならそれらしく私をここから出してみなさいよ」
「何それ。無茶言うなよ。そんな事できるなら僕はまず自分の身長を伸ばすよ」
「ほら、やっぱり役たたずじゃない。私を連れ出してくれないなら何のためにあなたはここへ来るのよ」
「ひやかし」
「もう、許せない。丸焼きにしてやる」
「無茶言うなよ。僕なんか食べたっておいしくないって」
そう言いながらウサギは丸くでっぱった自分のお腹をさする。
ゲテモノ食いには違いないけれどちゃんとした料理人に調理させればそれなりに食べられそうだ。
私はウサギに向かって微笑みかけた。
ウサギも私に歯を見せて笑う。
ふん、私の笑顔の意味を正しく理解した時はあなたが死ぬときよ。
〜小兎のグリルステーキ 蕪のコンフィを添えて〜
なんて小粋なメニュー名をつけたら意外とおいしそうね。
私がここを出たら今まで退屈な時間を紛らせてくれたお礼としてたっぷり食してあげよう。
だから…早く私をここから出すのよ。
ウサギは神の使いと決まっている。
ウサギはかわいそうなお姫様を助けるために現れて、王子さまと引き合わせるまでしっかりと先導するのが役目だと決まっている。
そう、決まっているのだ。
だから彼は早く私をここから出さなくてはいけないんだ。
その義務がある。
そして私はここから出てみんなにかしづかれる女王になる。
その権利がある。
「さあ、下らない話は終わりよ。早く私をここから出しなさい」
「だから無茶言うなって。僕にはそんな力はないし、何よりここから出たら君は全てを失うよ」
「何をバカなことを…私は女王になる身よ。そうね、今のうちにしっかり媚を売っておくのが賢いと思うわよ。今後のためにもね。さあ、もう一度だけ言うわ。早く私をここから出しなさい」
「僕のほうこそもう一度だけ言うよ。ここから出たら君は全てを失う。夢も希望も全部ね。それでも君はここから出ることを望むのかい?」
ウサギはいつになく真剣な眼で私を見据えてきた。
「もちろんよ。例えこの先、何が私を待ち受けていようとも、ここよりはマシ。こんな何も無いところで一生を終えるよりははるかにね」
「わかった」
ウサギは頷くとタキシードの胸ポケットに入っていたワインレッドのチーフを抜き取った。
「君に幸運を」
ウサギがチーフを手のひらの上でひらりと一回転させてみせると、それは小ぶりな鍵の形へと姿を変える。
ああ、何て事なの!
まさか、こんな事が起こるなんて!
このウサギは本当に神の使いだったのだ。私を救うために神が使わした天よりの使者だったのだ!
錠がカチリと音を立てて外れるとウサギは私に向かって手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう。共に」
その手を掴もうとして私は気づく。
ある重大な事に…
そうか、そうだったのか…
このウサギは神の使いなんかじゃない。
このウサギこそが私を助け出すために駆け付けた王子さまだったのだ!
今は呪いでこんな動物の姿に変えられてしまっているけれど私を救い出すために自分の姿も省みずこんな所まで来てくれたのだ!
ああ、それならばこんなみすぼらしい姿で部屋を出るわけにはいかないわ。
きっちりおめかしをしなければ。
何もない部屋に残された唯一の私の思い出の品。
真紅のドレスに袖を通すとやっと私は差し出された王子の手を取った。
「行きましょう、どこまでも。あなたとなら何も怖くないわ」
踏み出した部屋の外は優しい風でひんやりと涼しかった。
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アーカイブNo.1『精神病棟のカルテ』
FILE No.142 御伽夢見(16歳/女性)
妄想傾向が強く、複数の人格障害を併発していると見られる言動を多数確認。
一例として自分の事を"お姫様"であると認識しており、医師を含め自分に接触する人間はすべて"従僕"であるという妄想にとらわれているようだ。
この症状が出ているときは"アリス"という名で呼ばない限り、まともな会話も成立しない。
亡くなった両親から虐待を受けていた事もあり、両親に対しては異様なほどのコンプレックスを持っていることが確認できる。
自身を"お姫様"という特別な身分として規定したがるのも愛情を欲している事の裏返しと見られる。
引き続き経過観察を続ける。
アーカイブNo.2『連続殺人犯脱走に関する記事』
X市女子高生連続殺人事件から1年。
眼を閉じればまだ昨日のことのように思い出せるあの事件だが、もう1年である。
テロが世間を震撼させ、政治家の不正献金が紙面を賑わせる中、少しずつその記憶も薄れつつあった。
そんな矢先の出来事である。
再び世間を嘲笑うかのように少女Aは収監されていた警察の精神病棟から逃走した。
担当の医師が駆け付けた時にはまるで煙のように忽然と姿を消していたのだという。
彼女がいなくなった部屋はいつもと何もかわりなく整然としており、ひとつだけ違ったのは彼女が大切に壁にかけていた事件当時の服、被害者の血に染まったセーラー服が彼女と一緒に消えていたことだ。
この一報が届けられた時、筆者は…