5話 - Ⅳ
アギリミノフは、義手に内蔵されたタッチパネルへと指を走らせた。
接触を感知した画面は即座に切り替わり、無機質なインターフェースが音声入力の待機状態へと遷移する。
「Regula Machynar Codex [017] ――」
彼は確かに、魔力を扱える身体に乗り移ってはいるが、とはいえ彼自身が純粋な魔操者というわけではない。詠唱によって術式を組み上げる感覚的な工程においては、どうしても馴染むことができず、それが彼と魔技の間に致命的な隔たりを生んでいた。
熟練した運動選手が無意識にこなす動作を、経験のない者が理屈で再現しようとするのと同じことだ。
彼はその問題を克服するために、義手に『魔術発動補助機構』を組み込み、数値を口にすることで術式を起動させる『術式起動補助プロトコル 』を採用していた。
魔術を『感じる』のではなく、『制御する』ための設計思想。それは、再現性と合理性を追求した末に到達した、機械系国家における一つの必然だった。
術式の土台さえ構築してしまえば、あとは必要な情報を順に流し込むだけでいい。
義手は命令語を解析し、その意味を数式へと変換する。
アギリミノフの内側に満ちていた魔力が、加圧された流体のように押し出され、急激に性質を変え始めた。
熱を帯び、膨張し、白く濁りながら立ち上る。
それは、密閉された容器から逃げ場を得た蒸気が、空気へと溶け出していく様に酷似していた。やがて魔力は完全に霧へと相転移し、四方八方に放出された。
濃密な白が、噴き出すようにドーム内部を満たしていく。
視界は瞬く間に侵食され、やがて空間の輪郭そのものが溶け落ちたかのように、何も見えなくなった。
リーリンは反射的に首を左右へと振り、声を張り上げた。
「クロトさん! 近くにいますか!」
「声はよく聞こえるので、おそらくは」
「目に魔力を流してください! 完全ではありませんが、多少は視認できるはずです!」
リーリンもまた、眼球に朱色の光を灯した。
魔力を循環させ、身体機能を強化する――魔操者にとっては、慣れ親しんだ感覚だ。
だが、術式に何らかの防護処理が施されているのだろう。魔力を通した視界は、予想以上に不鮮明だった。
辛うじて見通せるのは、半径にして六、七メートルほど。霧の濃度には偏りがあり、場所によっては、腕を伸ばした先すら曖昧になる。
無意識のうちに、リーリンは奥歯を噛みしめていた。
「退路と視界を奪うための結界だったなんて……。敵ながら、見事な戦術です」
どこから聞こえてきたのかは分からない。
しかし、確かに――アギリミノフの声が、霧の中で反響した。
「褒めてもらえるなんて、光栄だな。どうだい? 僕の用意した戦場は」
愉悦を滲ませた声が、距離感を失ったまま続く。
「正面からやり合っても、勝ち目が薄い相手だろう? だから、少しばかり手段を選ばせてもらったよ。……それじゃあ、楽しんでいこうか」
言葉が途切れると同時に、敵の気配も霧の奥へと溶けていった。
「クロトさんは自衛に専念してください。あと、私からなるべく離れないように」
「了解」
――そして、無音。
嵐の前の静けさ、という表現が脳裏をよぎる。
耳に届くのは、自分たちの呼吸音だけ。
いつ、どの方向から襲われるのか。
その兆しすら掴めない状況が、不安をじわじわと増幅させていく。
胸の奥が、きりきりと締めつけられた――その瞬間。
銃声が轟いた。
乾いた破裂音が、立て続けに五発。
同時に、視界の端で大気が歪むのが見えた。
考えるよりも早く、体が動いていた。
リーリンは反射的に魔力を展開し、炎の防壁を築き上げる。
弾丸は炎に阻まれ、熱と衝撃を失って崩れ落ちた。
砕けた魔力の残滓が、灰のように宙を舞う。
リーリンはすかさず弾丸の軌道を目で追ったが、すでに敵の気配はなかった。
苛立ちと焦燥感に精神が圧迫され、表情が苦しそうに歪む。
一人で戦うならまだしも、黒斗を守りながらの戦いとなると明らかに分が悪い。
いつ攻められるかも分からないのでは――
「――後ろがガラ空きだよ?」
「っ――!?」
声と同時に、アギリミノフの顔が濃霧を裂いて突き抜けて来た。
迫りくる科学者の凶刃。リーリンは身を屈めて躱しながら、後ろ回し蹴りを放った。
鋭い風切り音とともに踵が顎を狙うが、銃身で防がれ、そのまま弧を描くように受け流されてしまう。
(しまった!)
リーリンの体勢が崩れる。がら空きになった彼女の腹部に、狙いを澄ました科学者の中段蹴りが容赦なく叩きこまれた。
鈍い衝撃が肋骨に走り、肺から息が漏れる。
リーリンの身体は宙を舞い、地面へ――
辛うじて受け身を取り、転がるように距離を取った。
(まずい! クロトさんが!)
リーリンは片膝をつきながら、顔を上げた。
より一層強く目を凝らし、彼女の瞳が燃えるように朱に染まる。
濃霧の奥で、今にも襲われそうな黒斗の姿が見えた。
「はは! 弱そうな奴から狙うのが常識だからね!」
アギリミノフの銃口が、迷いなく勇者へ向けられる。
――回避。
黒斗は反射的に頭上高く跳躍した。
直後に銃声が轟き、弾丸がさっきまで彼のいた位置を貫く。
跳躍した勢いは、そのまま落下へと変わる。
空中で身体を捻り、黒斗はありったけの魔力をナイフに注ぎ込んだ。
「ヴォルガスラスト!」
自重、落下、そして直線加速。
三つの運動が一つの線で重なり、刃が振り下ろされる。
アギリミノフは咄嗟にライフルを掲げ、銃身でそれを受け止めた。
金属同士が激突する轟音。
衝撃が鼓膜を震わせ、互いの脳髄まで響く。
「いいねえっ! さすが勇者だ! 技量の差を機転で埋めるなんて、実に素晴らしいぃぃぃっ!」
「べらべらとよく喋る野郎だな。その調子で、重要機密も漏らしてくれりゃ助かるんだが」
「アハハハハッ! 中々にセンスのあるジョークだ!……そんなこと、するわけないだろおおおっ!?」
アギリミノフは一瞬の隙を付いて黒斗の溝内に蹴りを入れ、その反動を利用して後ろに飛んだ。さらに空中で、彼は銃に内蔵された立体型スコープを投影させると、右目の『機械眼』を通してスコープ内の情報を義脳と直結させた。
行動解析。反撃予測。命中率、及び減衰率。そこから導き出される最適手段――様々な情報が、電脳から指先にフィードバックされる。
『目標補足』の音声に合わせて、アギリミノフは引鉄を引いた。
黒斗は銃声に反応して、咄嗟にヴォルガスラストを発動した。
銃弾は虚空を横切ったが、この濃霧の中では距離感が掴めず、彼は自分から建物の外壁に激突してしまった。
「がはっぁ!!」
全身を駆け巡る痛みの奔流。骨は数本、確実に逝っただろう。
頭部から滲む、生暖かい液体。
壁にめり込んだ自分の身体を引き剥がすと、ぽたぽたと、額から血が出ているのが分かった。
体の自由が鈍っている。痛みで神経がどうにかなりそうだった。
口に入った血を吐き出し、黒斗は改めて痛感した。
(くそ。認めたくねえけど、やっぱりオレじゃ敵わねえ)
「ほらほら。休憩している暇なんてないよ?」
「っ、しまった!」
「はい。ワンキルいただきました」
紫紺の刃が、霧を裂いて迫った。
黒斗は、避けられないと悟った瞬間、奥歯を噛みしめた。
次の刹那――衝撃は来なかった。
「ぐあぁっ!」
代わりに、短い悲鳴が耳を打つ。
誰かの身体が、黒斗の前に倒れ込んだ。
柔らかな髪が頬を掠め、血の匂いが鼻を刺す。
視界の中心で、紫紺の刃が蠢いていた。
――否。
それは、リーリンの背中を貫き、腹部から覗いていた。
「……リーリン、さん……」
彼女の頭が、ゆっくりと持ち上がる。
焦点の合わない瞳が、黒斗を捉えた。
「自衛に……徹して下さい、って……言ったじゃ、ない、ですか……」
責めるでもなく、怒るわけでもない。
ただ困ったように、彼女は微かに微笑んだ。
魔力の刃が音もなく消え去り、力を失った槍が彼女の手から零れ落ちた。
咳き込むように吐血し、地面が赤黒く染まる。
黒斗は動けなかった。
声も、指先も、何ひとつとして。
「あーらら。まさか彼女の横槍が入るとは、さすが槍使い。――なんてね!」
アギリミノフの軽薄な声が降りかかる。
彼は刃を引き抜くと、噴き出す血を気に留めることなく、彼女の傷口に手を当てた。
短い操作音の後、義手から湧き出た魔力が肉を塞ぎ、出血が止められた。
黒斗には、その行為の意図が掴めなかった。
だが、そんな訝しむ視線に応じるかのように、狂科学者はニヤリと笑った。
「安心してくれ。そう簡単に死なせやしないよ」
彼は懐から注射器を取り出すと、ためらいなく彼女の首筋に突き立てた。
黒斗の喉から、声にならない叫びが放たれる。
ナイフを引き抜き、足を一歩踏み出し――
「おっと! 妙な気は起こすなよ? 君が動けば、僕は即座に彼女を殺す――イイネ?」
静かな宣告だった。
アギリミノフの一瞥に晒され、黒斗はその場でぴたりと静止した。
針が抜かれ、空になった容器が霧の中へ投げ捨てられる。
ガラスの割れる音だけが、やけに大きく響いた。
「今から一番オモシロイ方法で君をコロしてあげるよ。……ハッ、ハハハ、アハハハハハッ!!」
アギリミノフの狂った笑い声が、黒斗の感情を破壊していく。
〝弱者とは、圧倒的な暴力の前では、あまりにも無力すぎる〟
アギリミノフは、彼女の耳元へ顔を寄せた。
「さあ。リーリン。あの男の子を殺すんだ」
「い、や。だ――はい。分かりマシ、た」
彼女の身体は、小刻みに震えていた。
唇が、何かを拒もうと、必死になって動いている。
「ねえ、まだあ? 早くしてくんない?」
「や、やめ、て――」
ぎこちない動作で槍を掴み、魔力が注ぎ込まれる。
刃は定まらず、歪に揺れ続けていた。
「く、ろと、さん、にげ、て!」
槍を握る指が、何度も開きかけ、そして閉じていく。
涙を溜めたまま、リーリンは黒斗へと向き直った。
「や、だ、いや、だ、ぁ…………。いやぁあああっ!」
槍が、振り上げられた。
◇
ドームの外。瓦礫の積もる建造物の屋上に、一つの影があった。
「……厄介なものを入れられたな」
影から声が漏れる。
声の主は、濃霧の存在など全く意に介すことなく、内部の様子を捉えていた。
状況はいよいよ危うくなりつつある。
女魔導士が槍を拾い上げ、今にも勇者に襲い掛かろうとしていた。
「我が行くしかないか」
静かな呟きと共に、その影は立ち上がった。
基本的には手を出すなと言われていたが、これ以上はさすがに看過できない。
次の瞬間――影は、飛んだ。
淡い透き通った薄花色の光が、結界を軋ませ――突き破る。
流星を思わせる軌跡が霧を切り裂き、その影は戦場へと突入した。
「や、だ、いや、だ、ぁ…………。いやぁあああっ!」
叫びが響いた、その直後――薄花色の光を纏った何者かが、一度くるりと回転して、地面へと降り立った。
「やれやれ。突入早々、小娘の世話か」
次の瞬間、大気が震えた。
解き放たれた魔力が奔流となり、霧を引き裂き、空気そのものを叩き潰す。
「少々手荒だが、許せ」
影を中心に、突風が吹き荒れる。
槍を振り下ろそうとしていたリーリンの動きは強制的に止まり、身体が後方へ吹き飛ばされた。
破られた結界の穴から、霧が外へと流れ出していく。
白一色だった世界は、やがて元の景色を取り戻した。
遮られていた陽ざしが、割れた結界の隙間から差し込む。
その中心に立っていたのは――美しい薄花色の光に包まれた一匹の魔獣だった。
汚れを知らない白銀の毛並み。
螺旋を描きながら舞い散る魔力の残滓は、粉雪の如く光り輝いている。
どこか触れがたい気品さえ漂う、静謐な威圧。
それは白狐を思わせる姿でありながら、同時に、人ならざる格の違いをはっきりと主張していた――
「我の名は【シルバ】。主の命に従い、この戦闘に介入させてもらう」




