1 ゆきだるま
「雪だ! 雪だよお母さん!」
美矢は大きな声で叫びました。灰色の空から、白いものがふうわりふわりと、次々に降ってきたのです。
美矢にとっては久しぶりの雪でした。以前住んでいた北の大きな町は寒いところで、毎年冬になると街中にでも雪が降り積もったものでした。でも二年前に引っ越してきたこの町は、とても暖かかったのです。
「神宮兵衛が来るかもね」
お母さんは美矢をからかうようにそう言いました。
「やだ、お母さんったら! 今日はクリスマスじゃないよ」
美矢は何とも恥ずかしくなって、うつむきました。
もっと幼いころ、「ジングルベル」の歌詞を聞き間違えて、小さな美矢は「神宮兵衛」という大男が雪の日に現れるものと思い込んでいたのです。
それは今思い出してみれば子供心にも頭を抱えたくなるようなかんちがいでした。
「ジングルベル」がクリスマスの歌で、キラキラと飾り付けられた年末の街に現れる赤い服のおじさんのことを世間ではサンタクロースというらしい、と美矢が理解したのはごく最近のことなのです。
さて、二人が家に入った後も、雪はどんどん降り積もりました。その日は珍しいことにとても寒かったのです。テレビでは気象予報士が「ばくだんていきあつ」とかなんとか、難しい言葉でその日の天気を説明していました。
道路に面した車庫の屋根の上がすっかり綿のような雪に覆われてしまうと、美矢はもう我慢できなくなってしまいました。
「お母さん! わたし、雪だるま作ってくる」
「ちょっと、風邪ひいても知らないわよ!」
「ひかないように気を付けるから! いいでしょ?」
仕方ないわねえ、とお母さんは笑い、箪笥から毛糸の手袋とマフラーと帽子を出してくれました。
マフラーはお母さんの手編みで、片方の端が耳の垂れた犬の顔になっている、世界に一つっきりの素敵なものでした。
小さな雪玉をつくって、美矢はそれを転がしていきます。きしきしと音を立てて、雪が玉に貼りつき、地面から引きはがされるごとに、雪玉は大きくなっていくのでした。手袋にはだんだんと冷たい水が染み込んできて、小さな手の指先はもう真っ赤です。
それでも美矢はひるまずにどんどん転がしていきました。でも、いつのまにか大きくなりすぎて、とうとう転がせなくなってしまいました。
「どうしよう……」
美矢は途方に暮れてあたりを見まわしました。おうちの門の前に雪だるまを立てるつもりだったのに。
そこは知らない家の前でした。
「おい、そんなところに雪だるまなんか作っちゃだめだぞ」
後ろで誰かの声がしました。びくっとして振り向くとそこには知らない子供がいました。紺色のスポーツウェアの上から明るい茶色のオーバーを着こんだ、目の細い男の子でした。美矢よりほんの少し年上で、乱暴そうな子でした。
「そんなところに雪だるまがあったらさ、車が通れないだろ。ぼくのお父さんが夜中に帰ってきたとき困るよ」
男の子は、手に本物の鉄のシャベルを握ってそういいました。この大きな雪玉を壊すつもりなのでしょうか。美矢は泣きたいような気持ちになりましたが、思わず言い返しました。
「大丈夫よ! 雪だるまは歩けるんだから!」
それを聞いて、男の子は笑い出しました。
「へえ、歩くって? 頭もないのに!」
男の子はくすくすと笑い続けます。美矢は鼻の奥がつぅんとなって、ほっぺたがぴくぴくと震えて、どうしようもなくなってしまいました。
「歩くもん……雪だるまは歩けるんだもん……みんなが寝ちゃったら歩き出すんだもん」
どうしてそんなことを言い張ったのか、美矢にはずっと後になってもわかりませんでした。でもその時はただただ、自分が転がしてきた雪玉が潰されてしまうのが悲しくて、嫌だったのです。
「ばっかだなあ、きみはさ!」
男の子は、不意に笑うのをやめて、怒ったようにそう言いました。
そうして、シャベルをかたわらに放り出すと、雪の積もった玄関先に手をついたのです。
ごろごろと雪玉が転がされ、美矢が作ったものの半分くらいになりました。男の子はそれを美矢の雪玉の上に載せました。
「ほら、頭だぞ。明日こいつがずっとここにあったら、きみのこと嘘つきだって言いふらしちゃうからな」
でも、それは本心ではなかったのです。男の子は半泣きになった美矢の頭をぽんと叩くと言いました。
「……手伝えよ、ばーか」
そして、二人は道路の端の、車の通る邪魔にならないところまで、できたばかりの雪だるまを押していったのです。
* * * * * * *
その夜更けのこと。しんしんと降り続ける雪の中で、不思議なことが起こったのです。
道路の端っこ。電柱のところで側溝が少しばかり折れ曲がり、小さな小さな空地を作るその場所で、ゆっくりと物憂げに身をゆすったものがあるようでした。
真新しいLED街灯の光を浴びて、白く輝くそれは――あの雪だるまでした。
目にはペットボトルのキャップ――左右それぞれ薄緑とオレンジのプラスチックがはめ込まれ、男の子の指が溝を掘って胴体と区別された、ひょろりと奇妙に曲がった腕の先には、半ば凍り付いた大人用の軍手。
口元は大きく笑み割れた形にぽっかりと穴があけられて、鼻の部分にはごく伝統的にニンジンが突き立てられておりました。ただし、何を思ったか二またに分かれた珍妙なものが。
(気持ちのいい夜だなあ!)
雪だるまはそう呟きました。
(何はともあれ、僕は歩き出さなきゃね。だって、あの子がそう言ったからさ)
美矢の必死の言葉が彼に不思議な生命を吹き込んだかのようでした。それにしてもどこへ行こうというのでしょう。とにかくその場所から離れよう、とでもいうように、雪だるまは左右に体を震わせ不器用な足取りで――いや、だるまですから足などないのですが――移動を始めたのです。
街灯の光に照らされて、降り積もったばかりの雪がさらさらと輝き、崩れます。さくさくとかすかな音を立てて、雪だるまは進んでいきました。彼が進んだ後には、重いものを引きずったような形に、雪がかきわけられて一筋の道を作っていました。
遠くには信号機の赤と緑の点滅。道沿いの垣根にはクリスマスから点されたままのイルミネーション。
それらがこの大通りから少しだけ引っ込んだ、静かな裏通りを照らしていました。
(きれいだなあ!)
雪だるまは歩きながら、あたりをうっとりと見まわしました。いつしか雲は途切れ、お月様も顔を出しています。
(歩ける限り、歩いていくんだ)
歌を知っていたら、きっと歌っていたに違いありません。短い旅をにぎやかに彩る、陽気な歌を。でも、生まれたばかりの雪だるまには、知っている歌はありません。一面の銀世界に踊る光と夜風をただ道連れに、雪だるまは一人で、そして晴れやかに、歩いていくのでした。
慣れない大雪に、この町の人たちはすっかり戸惑ってしまったようで、何台もの自動車が道路の脇に放置されていました。というより、雪の下に自動車がありました。どこか遠くで、サイレンの音が鳴り響いています。
――くしゅん!
小さなくしゃみが響いたのはその時でした。