作り笑顔
千幸さんは僕の目を見て濁っていると言った。自分ではよくわからなかった、今まで誰にも言われたことのないことだった。目が濁っているというのはどういうことなんだろう。昨日から僕の中の疑問というのは絶えることなく増え続けている。
世の中は僕の知らないことだらけだ、感動にも不満にも思える気持ちが湧き上がる。
時計を見る、時刻はもうすぐ8時半を示そうとしていた。そろそろ家を出る時間だ。
靴を履いて玄関のドアを開ける、金属のきしむ音が響く。僕の住むアパートは築40年と結構古く、改築工事が必要なくらいらしい、だが未だに改修工事をするという連絡は僕のところには入ってきてはいない。
階段を下り、待ち合わせ場所へと向かう。ふと振り返ってアパートを見た。部屋の明かりはどこも付いていない。
「行こう・・・」
近所付き合いもないここに住んでいる住民は皆どこかに出かけているようだ。
今日は僕のほうが着いたのが早かった。暇なのでいつもと同じく忙しなく通り過ぎる車や通行人を眺める。5分ほど待っただろうか、遠くのほうから声が聞こえた。
「真白君」
「やあ、こんばんは」
車のライトに照らされて糸の顔がいつにもまして見えやすい。いつも口角を上げてにっこりと笑う糸とは対照的に僕は無愛想だ。
僕は笑うのが得意ではない、うまく笑うことができない。無意識に笑うことはあるが、面白くもないのに笑えはしない、作り笑いなんてもってのほかだ。
「糸はいつも笑っているな」
「そうかな?意識してないからわかんないよ」
「無意識に笑っているのか、すごいな」
「すごいのかな」
「たぶん」
少しも崩れることのない完璧な笑顔を見ていると何とも言えない気持ちになってくる。この笑顔ははたして本当の笑顔なのか。
「今日はね、いろいろと疲れちゃったよー・・・」
糸が僕に向かって言った
「何かあった?」
「うん、まあね、いろいろと」
尋ねてみたが糸は答えない。笑ってごまかしている。
やはり、僕が見たところによると糸の笑顔はきっと心からの笑顔じゃないと思う。だって、疲れたと言っているその顔は全く変わっていない。
「糸の笑顔は作り笑いなのか?」
「えっ、何で?」
思わず口に出てしまった言葉を数秒後には後悔することになった。
「いや、表情がいつも変わらないから」
「そうかも、どうして笑っているんだろうね。笑いたくなくても勝手に笑顔が浮かぶんだ・・・」
「そうか」
「うん、結構しんどいよ」
笑顔を浮かべることは決して悪いことではない。でも、心からの笑顔と作った笑顔にはやはり違いがある。
きっと、心から笑ったほうがいい。
「無理して笑って、糸はどうしたいんだ?」
糸の目はぼんやりと僕を捕えている。その瞳は光を映さない。
初めて人の目を見て背筋が凍った。冷たく、暗い、深海の様な目、その目は僕を映しているのだろうか。
「ああ、死にたいな」
消え入りそうな声で糸はそう呟いた。
「死ぬなよ」
「今、すごく死にたい気分なの」
「だから、死ぬなって」
「死ぬかどうかは私が決めること!」
声を荒げて糸は言った。その叫びはすぐに車の音にかき消されてしまう。
「じゃあ、死んだらいいさ」
僕は自棄になって言った。糸は顔を俯けて黙っている。
「死にたいんだろ、僕に止める権利はないんだろ?だったら勝手にすればいいじゃないか」
何がつらくて、何につかれたのかも僕にはわからない。未だに糸という人間が何なのか分からない。
もういい、そんなに死を望むのなら勝手に死ねばいい、もともと会って話すだけで友達でもなんでもない。きっと僕に糸は止められはしない。
「さようなら、糸」
僕はそう言い残して去った。
これでいいのか僕にはわからない。
死が糸を救ってくれるのならそれでいいのかもしれない。