エピローグ
「何やってるの!」
刃物が後数センチで体を突き刺すというところで千幸さんの鋭い声が聞こえた。
僕の手を強い力で握る、それでも僕の方が力は強いはずなので僕はその力に抗った。
「馬鹿なの!あんた!」
「……うん、馬鹿なんだ」
そう答えた僕を呆れたような顔で千幸さんは見ている。全身から力が抜けてもう力は入らなかった、その隙に千幸さんは僕の手からナイフを奪った。
血に濡れているナイフを見て千幸さんは言った。
「辛いのは分かるわ――でも、死んではだめよ」
「どうして?」
「あんたが死んでもきっと友達は喜ばないわ。それにあんたがいなくなったら悲しむ人だっているのよ」
千幸さんは口元を緩めて僕を見る。
「少なくともあたしは真白くんがいなくなったら悲しいわよ、それに伊賀さんもね」
「……僕が生きたいと言うのはきっとおこがましいことなんだ」
「どうして?あたしたちは確かに人間的に駄目な職業についている、けれども、それでもあたしたちだって人間よ、生きていたいって思うでしょう」
「僕はどっちでもいいや」
半ば投げやりな気持ちで言った。
「どっちでもいいのなら生きなさい」
「え……」
「いい?あたしたちはたくさんの命を奪ってきた、それは許されないことなの。今、真白くんは生きていて苦しいでしょう?」
その言葉に頷く。そんな僕を見て千幸さんは満足げに笑う。
「だったら生きなきゃだめよ。生きて苦しまなくちゃ」
その言葉で僕の目は一瞬にして覚めた。
僕は何を馬鹿で我が儘を言っていたのだろう、死んで自分だけ楽になろうとした、罪の意識から逃げようとした。
「千幸さん、僕、生きるよ。生きて苦しんでそうしてから死ぬよ」
「それがいいわ」
「ありがとう、千幸さん」
「いえいえ、後輩が迷っていたら導いてあげるのが先輩の仕事よ。あ、先輩って何だかいい響き……」
黒い車が止まったのが見えた、それは伊賀さんの車だった。
降りてきた伊賀さんはいつも通り「よう」と片手を挙げてこちらに向かってきた。
「話は聞いたぞ」
「うん」
「お前らびしょ濡れじゃねえか、ほらよ」
僕と千幸さんに投げられたのはふかふかのバスタオルだった。微かに煙草の匂いがする。
糸の方に近づいてしゃがみこみタオルで包んだ、そして軽々と持ち上げて車へと運んで行く。
「伊賀さんたら優しい~ありがとう」
「おい、化粧が落ちてるぞ、化け物だ」
「何ですって!乙女に何てこというの!」
「ふん」
「あっ鼻で笑ったわね!」
伊賀さんの前では千幸さんもまだまだ子供のようだった。眉間に皺を寄せて歯を食い縛っている。
そんな様子を見ていると今まで冷えきっていた心がじんわりと温かくなっていく。
僕は生きていていいのだろうか。
僕は糸のためにできることはしたつもりだけど、それでも彼女を救えなかった。
いくら彼女は死にたがっていたとはいえ、もっと他に何かできることがあったのではないだろうか。
僕は糸の役にはたたなかった。
ただの無力で木偶の坊の役立たずだ。
「ほら、お前も帰るぞ」
「……伊賀さん」
「何だ?」
「僕が誰かの役にたてる日は来るのかな」
否定の言葉でも罵倒でも何でもいい、言葉が欲しかった。
「もうたってるだろ」
「え……」
「お前は、まあ、あまり名誉なこととは言えねぇが依頼人の役にはたっているし、それに、この子も結果的には死んでしまったけどお前と過ごせて楽しかったんじゃないのか。だって、こんなにも幸せそうな顔で死んでったんだからよ」
そう言って伊賀さんが見せた糸の顔を落ち着いて見てみると確かにどこか幸せそうな顔だった。
「それに、俺はお前といて楽しい。息子ができたみたいでな、まあ、孫のようなもんか」
「じゃあ、あたしにとっては弟のようなものかしらねぇ」
その言葉を聞いて僕はうれしくなった。
家族ってこんな感じなのだろうか、温かくて優しい――
糸、僕は、君の役に立てていたのかな。
答えはまだ見つからない、だけど生きていればいつかは分かる気がする。
前向きに生きていこう、僕の人生はまだまだ長いのだから。
「長生きしてもいいかな、糸」
答えは当然ながら帰ってこない。それでも僕は糸の分まで生きようと心に決めたのだった。
読んで下さりありがとうございました。
なかなか完結するまでに時間がかかった小説でした。
納得いかないという人もいるかもしれませんが、私なりに考えた結末です。
最後に読んで下さった皆様に感謝をして最終回とさせていただきます。