最後のお願い
どうしてこんなところに糸がいるんだろう。真っ白な頭の片隅で考える、今の僕の状態では言い逃れなど到底無理な話しだ。
右手には血に濡れたナイフを持ち、さらに服には返り血が付いている。
糸は驚くでもなく、青ざめることもなく、ただ僕を見つめていた。
「糸……どうしてここにいるんだ?」
「散歩してたら真白くんを見かけたから、驚かそうと思って追いかけてたの」
全く気づけなかった。仕事の時は周りをよく確認しろと耳にタコが出来るほど伊賀さんに言われていたのに。
「どうして、その人を殺しちゃったの?」
「……」
答えるべきなのか、答えない方がいいのか、いずれにせよ僕が人を殺した事実は変えられない。
僕は正直に話すことにした。
「糸、僕は殺し屋なんだ」
「殺し屋?」
「そうだ、人を殺すことを仕事にしているんだ」
そろそろ伊賀さんが来る頃だろう、見つかったのがばれたらただでは済まない。
「詳しいことは明日話すから今日はもう家に帰ってくれ」
「……分かった、またね」
案外あっさりと糸は帰っていった。街灯に照らされて糸の影が長く伸びている。その背中を見送って僕は伊賀さんの到着を待った。
しばらくして伊賀さんの黒い車が到着した。
「おう、待たせたな。怪我はないか?」
「大丈夫」
「そうか、運ぶの手伝ってくれ」
「分かった」
死んだ人間はとても重たい。運ぶのも一苦労である。
「伊賀さん、この人はどうして殺されたんだ?」
「……こいつは詐欺師でな、ある騙された人が自殺してしまったらしい、借金を苦にな。で、その身内が依頼を持ちかけてきたわけだ」
「そうなんだ」
「どうした急に」
「え……?」
「いや、お前がこんなこと聞くの珍しいからな」
「前にも聞いたことある」
「そうだったか」
運ぶときに少しだけ三浦の顔を見た。
苦しそうな顔だったがどこか安らかな表情をしていた、気のせいかもしれないが。
三浦が言っていたように僕もろくな死に方はできないだろう、それでも僕はこの仕事を続ける覚悟はできている。
車に死体を乗せて、僕も車に乗せてもらう。
明日、どうやって糸に話そうか。そればかりを考えていた。
家につく頃には夜明け前だった。
だんだんと空が明るくなっていくのを部屋の窓から眺めていた。
どんなことがあっても必ず朝は来るものだ。
三浦の顔が鮮明に思い出せる。詐欺師なのに優しい人だった、どうして三浦が詐欺しになったのか、今では教えてくれる人は誰もいない。
「ごめんなさい……」
殺し屋と言えども鬼ではない、涙だって流す。
殺しといて何で泣くかと他人は思うだろう、泣くくらいなら足を洗えとも思うだろう。それでも人にはそれなりの理由があって行動をしている。
それが例え悪人でも。
これが伊賀さんの言っていた後悔なのか、思っていた以上に辛いものだった。
嗚咽が出るほどではない、静かに僕は涙を流し続けた。
いつの間にか寝てしまっていたようだ、外は雨が降っている。
「行かなきゃ……」
重たい体を起こして外に出る。そういえば食事もしていないがお腹はすいていなかったので食べずそのまま待ち合わせ場所に向かった。
雨に打たれる傘の音が僕は好きだった。
独特のリズムが妙に落ち着くのだ。
橋に淡いピンク色の傘を指している人影が見えた。どうやら糸のようだ。
「やあ、糸」
「真白くん」
「生憎の雨だな、どうする?どこか建物にでも入るか?」
「ううん、いい。私、雨の日に歩くの好きだから」
「そうか」
しばらく沈黙が訪れる。沈黙を破ったのは僕だった。
「僕のこと軽蔑した?」
横にいる糸を横目で見ながら言う。糸は首を横に振った。
「遠慮しなくていい」
「してないよ」
「僕は……糸は僕ともう会わない方がいいと思ってる」
糸が大きな目をさらに大きく見開く。
「どうして、何でそんなこと言うの?」
「僕と糸では住む世界が違うんだ」
「一緒だよ、何も変わらないじゃない」
「……とにかく、もう会わないよ」
「私から逃げるの?」
品定めするような目で糸は僕を見る。
僕も糸と会いたくないわけではない、しかし、もう知られてしまった以上会うわけにはいかない。
「ごめん。さようなら、糸」
「待って」
糸が僕の腕を掴んだ。
「……何?」
「お願いがあるの、ここじゃあれだから一緒に付いてきて」
「言っただろ……」
「最後のお願いだから!」
必死な様子ですがる糸を振り払うことができなかった。
これが最後だ、そう思うと断れなかった。
「分かったよ、行くから」
「……ありがとう」
顔を輝かせて糸は笑う。つられて僕も笑った。
「真白くんはやっぱり優しいね」
雨の中、糸のその言葉だけが妙に響いた。
次回で最後になると思います。