泊まる
夕焼け空に藍色が淡く滲んでいる。
糸より早く着いた僕は遠くの空をぼんやりと眺めていた。明日、また人を一人殺す、この世界からあの人の命を奪い、人生を無理やりに断つ。僕の子の手で。
それがどんなに残酷なことか、どんなに最低なことか分かっている。だが、これが僕の仕事だ。
「お待たせ」
軽やかな声が耳をくすぐった。
「待たせちゃってごめんね」
「いや、全然」
「空見てたの?」
「うん」
「綺麗?」
「うん。糸は綺麗って思わないのか?」
「うーん……何かテレビの映像を見ているみたいなの」
「そうなんだ」
「綺麗なんだけど、何なんだろうね、私っておかしいね」
「そんなことない」
「ありがとう」
糸は橋の欄干に腰かけた。足をぶらぶらさせて俯いている、何だか今日は元気がない気がする。気のせいだったら良いのだが。
「ねぇ、私がまたここから飛び降りたら助けてくれる?」
「もちろん、約束したからね」
「ふーん、今日は寒いから心臓発作起こすかもね」
ゆらりと糸の上体が揺らぐ、そのまま下へ落ちていく。
「今日こそ、死ねるかな?」
僕は糸の手を掴もうと手を伸ばした。しかし、僕の手は虚しく宙を掴む。
僕は迷うことなく橋の欄干に足をかけて冷たい川に飛び込んだ。
「糸!」
「あーあ……この川は浅いね」
糸が無事だったことに少し安堵した。夜の川は冷たい。ずぶ濡れの糸はくしゃみをして小さく笑った。
「でも、頭打ったからこのままここにいたら死ねるかも」
川の中に寝そべったまま糸は言う。額から真っ赤な血が流れている。
「糸、大丈夫か?」
「私、このままここにいるね」
「病院に行こう」
「話聞いてる?多分この傷では死ねないけど血がたくさん出てる、ほら見て」
糸は手で血を拭うと赤く染まった手を見せてきた。鉄の臭いが鼻につく、この臭いだけはいつまでも経っても慣れない。
「知ってる?血を流したまま水に浸かっていると傷口が塞がらなくて死ねるんだよ」
「病院に……」
「真白君に看取られて死ぬのも悪くないね」
「僕は糸が死ぬところを見たくない」
「ふふ……邪魔しないでね。……だんだんくらくらしてきた、良い感じだよ」
そのまま糸は目を閉じた。僕は意識のなくなった糸を背負うと病院へと向かった。意識のない人間は結構重たかった。
病院に行くと傷は深くて三針ほど縫ったらしい、頭に包帯を巻いた糸が話した。少し不機嫌そうだ。
「邪魔しないでねって言ったのに……」
「あそこで見捨てられるほど僕の神経は図太くないよ」
嘘だ、本当は結構図太いはずだ。なにせ人殺しを職業にしているのだから、図太くないとやっていけないだろう。
「今何時なの?」
「9時」
「道理で眠たいはずだよー」
「……寝るなよ」
「うーん……」
半開きの目で生返事を糸はする。だめだ、起こさないと。
「糸、起きろ」
すやすやと寝息をたて始めた、体を揺らしても起きない、どれだけ寝付きがいいのだ、羨ましい限りである。
病院に置いたままにするわけにもいかず、かといって糸の家も知らない、そうなると僕の家に連れていくしか方法はない。
「仕方ないよな……」
本日二回目、僕は糸を背負って帰宅する。
家に着くころにはもう疲れきっていた。僕の背中で眠る糸が恨めしく思えた。
糸を一つしかない布団に寝かせて、僕は床に寝転がる、明日の朝は体が痛くならないことを祈ろう。
カーテンの隙間から朝陽が差し込んでいる、その光で僕は目覚めた。僕の祈りは叶えられず体はひどく痛んだ。身体中の筋肉が固まっているように感じる。
糸はまだ寝ていた。起こさないように忍び足で洗面所へと向かった。
「あれ?ここどこ?」
起きてそうそう糸がきょとんとした顔で僕に尋ねてきた。
「僕の住んでるアパート」
「……何で?」
「糸が寝て、起こしても起きなかったし、糸の家なんて知らなかったから連れてきた」
「そうなんだ、ありがとう」
「親、心配してるんじゃないか?」
少し表情を固くさせて「大丈夫」と糸は言った。
「お母さんもお父さんも私のことに興味ないから」
「……そうなのか」
「うん」
親は子供が一晩帰ってこなかったら心配で夜も眠れないのではないのだろうか、親に虐待されていた僕でもそれくらいのことは分かる。
複雑な家庭事情が垣間見えた気がする。