今日も僕らは執着できない
※とってもダラダラだよ!
「えりりーん、おー茶いーれてえー」
ぎっ、と回転椅子の背もたれに体重をかけてひらひらと片手を振る。はーあ、生徒会活動ってなんでこんなにめんどいんだろ。ま、俺はただの助っ人だから役員ほどじゃないんだろうけどさ。
処理を終えた書類の山を意味もなく整え、携帯端末を取り出す。これまた意味もなく画面を操作していると、ごどん! とだいぶ暴力的な音が直近で轟いた。思わず飛び上がる。
「グータラクズ野郎にお茶いれてあげるえりやっさしーい! ほーくんはえりに感謝感謝だよお」
えへっ、と光り輝く笑顔で媚態を示されても逆に怖いんですけど何そのどす黒オーラ。背中に虎背負ってますよ?
穂積はぎぎぎっと姿勢をただし、湯気を漂わせるマグカップにそろそろっと手を伸ばした。引き寄せる。
「ってこれコーヒーじゃん……」
「茶葉もティーバッグも今ないんですう。いれてあげただけでもじゅーっぶん優いんだからねっ!」
「えりりんの言うこと相変わらず意味ワカンナーイ。まあコーヒーでもええんですけどねー」
むしろコーヒーの方が好きだ。できればミルクと砂糖をたっぷり入れてほしいものだけど。いちおう礼を言って黒い液体に口をつける。そこで彼は眉を跳ね上げた。
……甘い?
停止した穂積に対してどう思ったのか、三条英里はぶうと唇を尖らせた。顔だけはかわいい。長いツーテールがなんかポップな感じに揺れた。かわいいかわいい。
「ミルクも切れてたのー。もー、ほーくん文句おおすぎー。ちょっとはいい反応してよねー」
「いや、べつに嫌だったわけじゃ……、ってかなんでそんなに色々足りてないの? とくにえりりんの頭」
「まじぶっ殺したい。やだあもう、ほーくんまじサイテー! お茶とかがないのは、この前の二校合同会議で使い切っちゃったからだよお。女の子に対してひどーいほーくんにちゃんと答えてあげるえりやっさしい」
「今すげえ不穏なこと言ったよね? 超殺意出てたよね?」
英里さんまじ怖過ぎ。
頬を引き攣らせると、彼女はごろにゃーんみたいなぶりっこ定番ポーズを繰り出した。にゃんっ(はあと)という感じである。おまえはAVか。
「細かいことばっかり気にしてるからモテないんだぞ☆」
「いやてへぺろウィンクされてもだいぶグッサリくるんですけど!?」
「ほーくんかわいそ。えりナデナデしてあげるね」
「いやちょっと何憐れんでんのってか痛い痛い痛い!」
ごりごりごりとマグカップの底で擦り撫でられた。ちょっと英里さん今日飛ばし過ぎじゃないですか? マグっておい。
耳の上でふたつに縛った、天使の輪を描く長い黒髪。同色の睫毛も、つけまつげが裸足で逃げ出すくらいばっさばさ。その下に隠れたきらめく双眸。桜の花びらを押したような小ぶりな唇は、どこか誘うような艶を持つ。肌が真っ白なものだから、紅潮した頬がよく目立った。背丈は低く、全体的に細身。制服は意外にもきちんと着こなしている。
見た目は天使みたいに可愛いこの生徒会書記は、しかし周りがドン引くほどのぶりっこちゃんである。しかもときどきけろっと毒を吐く。それすらも愛らしさの演出に見えてくるのだから大したものだ。
友人の副会長に手伝いを強制されてからの数ヶ月、彼女とはほぼ毎日顔を合わせているが、その間一度もぶりっこは揺らがなかった。どうやら彼女は生徒会長の幼馴染みらしく、その生徒会長の反応を見る限りでも、わりと以前からこのような具合だったらしい。すげえな。
今もぶりっこは同じだ。だけど、いつも以上にあたりがきつい、気がする。
「えりりん、なに? 今日なんかあったの? 過激じゃね?」
「えーそんなことないよー。ただ今日はほーくんしかいないからつまんないだけっ! りょーちゃんはみいみいとおデートだしっ」
ぷんっ、と頬を膨らませる。なんでこの表情してかわいいんだろね。超謎。ふつうはキモ顔になるよね?
「おデートておまえ……芝校との代表会議にいってくれてんだろ」
「だってえ、あのふたりってばよーっやく両思いになったのにまだなーんにもできてないんだよっ? こんなふたりっきりの機会、りょーちゃんが無下にするわけない!」
「えりりん無下なんて難しい言葉知ってたんだねー。不満ならついていけば良かったんじゃん」
りょーちゃんこと生徒会長は五月あたりに突然庶務に抜擢された三宅美加子と、半年の波瀾万丈のラブコメ生活を送ってすったもんだの末、一週間前にくっついた。すげえめんどくせえふたりだった。いやいやいやおめでたいことなんですけどね。なんであのふたりあんなに鈍感なの? どっからどう見てもラブラブジレジレだったからね? むしろこっちがやきもきしたからね? まあ今はリア充ハッピーオーラ噴出し過ぎで軽く死ねるけどな! おめでとう爆ぜろ。
そんな感じで役員(と助っ人)一同としては、収まるところに収まって良かった良かったというところだが、会長の幼馴染みである彼女には、もしかしたら思うところがあるのかもしれない。
……あれ、ていうか。もしかして、マジに好きだったり、して?
ふいに思い当たった可能性にすうっと思考が凍りつく。そういえばこの子は生徒会長にべったりだったのだ。あれは懐いてるだけかと思っていたが——やっべー、俺ら超無神経だったんじゃねえの!? 全力でふたり応援しちゃってたけどこの子もだいぶ協力してたけどまさかまさかの影で泣いてた系!?
「へ? なんでー? べつに不満なんてあるわけないよお。むしろりょーちゃんがんばれっ、致しちゃえ! みたいな!」
と思ったけどぜんぜん違った。ふつーにつまんないだけらしい。つーか致しちゃえって。一気に力が抜けた。がっくりと突っ伏す穂積の脳天に、怪訝そうな視線が突き刺さる。
「……えりりんさあ、会長のこと好きだったわけじゃないんね」
思わず確認するように呟くと、英里はぴたりと動きを止め、ゆっくりと微笑んだ。
「りょーちゃんのことは、大好きだよ? いちばーんすき」
「えっ……」
「でも、みいみいもすきっ! アッキーもゆんちゃんもみゃっちもりおにゃんもすき。みーんなだいすき!」
「え、俺は? ねえ俺は? なんで敢えて外したの? いじめ?」
「ほーくんはきらーい。めんどくさいから」
「いやいやいやえりりんの方が百倍めんどくせえだろ!」
「そーゆーこと言っちゃうからほーくんは駄目なんだよお。もー仕方ないなー。ほーくんっ、大好きはーと」
「あからさま過ぎて逆に傷つく! だーっ、もう、そうじゃねえ! そうじゃねえよ、会長のことだよ!」
ばんばんと机を叩くと書類が乱れた。迷惑そうな顔をした英里がちょいちょいと押さえる。それから向かいの席にとすんっとあざとかわいい仕草で座った。ちまちまとコーヒーを飲む姿が小動物的。こいつなんでこんなにかわいいんだろうね。見た目だけはね。
と、英里は微かに苦笑した。まだ明るい窓の外を見る。本日は土曜の半日授業だったので、まだまだ時間はある。あるのだが、他の役員はみんな用事が重なってこれなかったため、会長たちが帰ってきたらお開きになるだろう。今日やることがすべて済んでしまったから、穂積も英里もなんとなく暇だ。この生徒会室にいて暇、というのは、なんとも落ち着かない。
「えり、りょーちゃんのことそーゆー風に思ったりしないよ。たぶん、りょーちゃんもね。思われても困るし」
「まあ、今それなったら浮気だしな」
「もーっ、真面目に答えたのになんで茶化すのーっ? ぷんぷん」
「思ったりしない、って意志でどうにかできるもんなの? えりりんアンドロイドなの?」
「恋愛可アンドロイドってめっちゃいかがわしいんだけど分かってる? ほーくんセクハラだよ? 訴訟?」
「こええよ! 軽いジョークだろ! ていうかそんな意図なかったから。えりりんの思考がいかがわしいから」
「だって、ほーくんの言うことなんだもん……」
「俺の人間性全否定! この子悪魔です!」
「どっちかっていうと小悪魔って言ってほしいなっ」
「で? どうなの?」
「スルーしないでよー! んー、範疇じゃないんだよねー。りょーちゃんもえりも、お互いの都合で一緒にいたから」
だから、りょーちゃんはみいみいみたいな子に熱をあげたんだよ、と。肩を竦めて熱いコーヒーを一口。英里の白い喉がこくんと動く。うーん、と穂積は唸った。
「……じゃ、おまえどうすんの?」
聞いていいのか分からないが、つい口に出してしまった。たぶん、穂積はけっこう、このぶりぶり美少女を気に入っている。かわいいし。だから、ん? と首を傾げる彼女に、やっぱいいとは言わず、問いを重ねた。
「だってさ、もう、会長には美加子がいるし、べたべたできないだろ。どうすんの?」
「お払い箱だね! ってほーくん直球すぎっ! ひっどーい」
「それ、これからもやれんの?」
あー、やっちまったなあ。
と思ったのは、やっぱり口に出したあとだ。穂積はよくよく、考える前に言葉が出る。けれども、心配だったのは事実だ。よけいなお世話かもしれないが。
英里は英里で怒るでもなく、ちょっと呆れたように、でもしょうがないなあというように笑っている。
「……ほーくん、もうちょっと空気読めるようになろうよー。俺分かってるぜアピールされるとやっぱやり辛いしい」
「いやごめんちょっとつい口に出ちゃっただけなんでそんな痛いやつにせんでください」
自分でも思ったけどな! そんな感じだとな! でもくっそ恥ずいんでマジ勘弁して。ただの失言っす。
「分かってるよ。うん、まあ、だいじょーぶ。確かにべったべたするひとがいる方が効力あるけど、ひとりでもぶりっこはできるから。べつにりょーちゃん知らないひとにだってドン引いてもらえるしね」
「……えりりん、マゾだったの……? 穂積カルチャーショック」
「そういうカルチャーセンターありそうだよね。違いますう」
「つーか、なんでえりりんそのキャラで売ってんの? 趣味?」
「……違うって分かってるのに聞くんだから、ほーくんはわりと性格悪いよねえ」
苦笑いする英里は、常にぶりっこだ。
ただし、自覚的な。
そしてたぶん中身は、そんなにかわいくない。冷たくて、淡白で、あらゆることに無関心だ。でも、いや、だからだろうか、ノリは良い。彼女と極めてくだらない応酬をするのは楽しかった。英里のぶりっこはなかなか年季が入っていたし、穂積がどう思っているのかを察しても欠片も動揺を表すことなく続けたのは、むしろ尊敬の域である。この女、心臓に毛ぇ生えてやがる。まあ察していたからこそ、穂積が楽しんでいたことも理解して、口止めも何も言ってこなかったのかもしれないが。
「んー。べつに言わなくてもいいよねっていうか、そんな義理もないんだけどお」
「そらそーだけどね」
「でも、べつに言ってもいいかあ。ほーくんだし。暇だし」
「ほう。期待」
英里はツーテールの右側を指先でくるんともてあそび、空いた片手の人差し指を顎に当てる。ぱちぱち、と瞬き。
「えり、かわいいんだよねー」
うおい。
「えっ、なんで今自慢しだした?」
「かわいーでしょ?」
「見た目はな!」
「そうそう、見た目はね。かわいいんだよねー。昔っから。えりね、ほんとーにちっちゃい頃から、すっごく可愛かったの」
「お、おう……」
「でもえりが黙っていると、怖いんだよ。かわいくて、きれいすぎて、怖いの。ほんとにお人形さんみたい、ってね」
そういって、英里は両方の髪ゴムをひとつずつ外した。ぱさりと肩に落ちた長い髪が頬にかかり、伏し目がちになる。唇を引き結んだ、ほとんど無表情の顔。
どきりとした。
確かに、怖い。美しさを丹念に描いた、精巧な人形のよう。
ね? と赤い唇が薄く笑う。溌剌としたぶりっこさの欠片もない、うそ寒い表情だった。
「えり、怖がられてたんだあ。なのに、男のひとからはいっぱい執着されちゃったり、さらわれたり、崇拝されたりしたの。えり、すっごく困っちゃった。だからね、小四くらいの頃かな? 地味に地味ーに生きるように努めてみたんだけどねえ……えりいじめられちゃったぁ」
「へー。……ん? ここ慰めるとこだった? しんみりしとく? 頭撫でる?」
「んもうっ、ほーくんほんとデリカシーなーいっ! えりぷんぷんだよお!」
上目遣いできゅるんっと眉根を寄せばっさばっさと瞬きをし、彼女は人形の美しさを塗りつぶす。貞操観念の薄そうな仕草で、穂積の腕をぎゅっと掴んだ。痛い。超痛い。えっ、ちょ、骨折れそうなんですけど何この子怖い!
ていうか、なんかサラッと異性関係でやばいこと言ってませんか。世の中にははんざいしゃさんがいっぱいいるんだね……。
「何でもマシーン、エリロイドって言われてぇ。パシリにされちゃったの。しかも、今度は同い年の男の子たちからも、何でもしていい相手だって思われちゃった。それも女の子たちの気に障ったみたい。だからこれじゃだめだっ、てえり思ったの。次にやったのは、表情の練習。怖くない表情を、頑張ろうと思った——んだけど、難しくってぇ、めちゃくちゃ変形させまくって、この媚び媚び笑顔を習得しましたーっ! ぱちぱちぱち」
「ワァァアッ、パチパチパチーッ」
「うぜえ……。それでねっ」
「本音はみ出てたよえりりんっ!」
「もーっ、うるさいなあちょっと窒息してえっ。でもお、これじゃ男の子はさらにベタベタしてくるか、まあ、ふつうに仲良くしてくれる子もいたけど、なぁんかレンアイに向かっちゃったりして、女の子も信用してくんないし、もっとあたりキツくなったりするんだよねー」
「窒息してっていったよこのひと……」
「だからあ、もっと頭ゆるっゆるにすればいいと思ったのー!」
「どっからそうなったの!? 回路断絶してねえ!?」
あとこれ小学生の頃の話ですよね!?
「んー、ま、そおゆうかんじの子を見たってのもあるんだけどお。誰にでもこうやってべたべたーってして、ぶりぶりーってして、でもこー、電波? みたいな? じゆーに振る舞ってる的な的な?」
「あーはいはい」
かわいいかわいい。こめかみコツンかわいい。うざかわいい。
「ちょっとのぶりっこはかわいーけど、度が過ぎればやっぱドン引かれるもんだしぃ。女の子に対してもおんなじにしたの。そしたらあ、意外と楽になったんだぁ。そこでりょーちゃん引っ張ってきてえ、えりがいっちばん好きでえ、くっついてるのはりょーちゃんってことにしたのっ。りょーちゃんはりょーちゃんで、えりが傍にいることを許して、で、めんどくさい女の子避けとか他もろもろ、色々とね」
「黒い契約の匂いが……」
「こーして今のえりができたんだよっ、ちゃんちゃーん」
「ほー」
「えんまんかいけつっ! 怖がられることもないし、えりちょー頭イイッ!」
つまり、会長のペット的な立ち位置でうざキャラアピールか。うっかりド変人に好かれても会長がいるからぐいぐい押されることもない、と。ふんふん。
「ケッ、王道過ぎてつまらんわァ」
「うっさいなあ、どうせほっとんど予想ついてたくせにー」
まあそうなんですけどね。髪の毛を結い直す英里をじろじろと観察する。ツーテールの位置が、それぞれ微妙に非対称。これもわざとだ。こんな風にちょっと駄目な感じすら、かわいいから許される。無害なペットだから許される。ちょっと痛いけど安全な女の子。彼女は男をたらさない。いつだっていちばんは会長だった。男を奪われることもないし、好きになることもない。
けれどこれからは、会長はいない。
「会長はなんつってんの?」
「んー、みいみいで頭いっぱいだと思うよ? そもそもこれ、中高だけのつもりだったし、べつにいーよ。ていうか、たまたま同じ学校だったから利用しあっただけー」
「ふーん」
「そうだよ。あ、おせんべ食べよっ」
そう言って、英里は奥の棚から煎餅の袋を出した。一袋二百円弱のスナック菓子だ。ありがたく一枚いただく。
えりりんは、会長がいちばんすき。
ふうん、としか言えない。英里、は違うんだなあ、となんとなく呆れた心地になる。ふと、はじめて彼女に会ったときのことを思い出した。友人にこの生徒会室に連行されてきたときのことだ。
『小高穂積くんっ! じゃあ、ほーくんだ! えりは二年の書記の三条英里だよ。えりりんって呼んでねっ』
にこにこしながら媚びをたっぷり含んでそう言われた。確かに引いた。というか、唖然とした。反応に困った。これを苦手に思うひとは多いだろう、とも。しかし意外と気は合ったし、友人を除けばなんだかんだ一番喋る相手にもなった。英里はいつも楽しそうに目を輝かせて我が侭めいた冗談を言い、会長に擦り寄っていた。一見、めんどくさいひとだし、実際はその印象よりよっぽどめんどくさすぎるにもほどがあるレベルのめんどくい女だ。だけど英里の擬態は完璧だった。
「……うーん、俺はえりりんのキャラ、良いと思うけどね」
「うへえー、ゲテモノ食いー」
「自分で言うなっつの」
そうだ。最初はめんくらったし、今もときどきレベル高過ぎて引くけど、『えりりん』はわりと好きだった。たぶん、他の役員も嫌いではないだろう。まあ、好きかと聞かれたら困るかもしれないが。
ばりぼりと煎餅を噛み割る。
それでも英里の中身をなんとなく分かったのは、ほんの僅かにだけれど似ているところがあったからかもしれない。
「でもさー、他のやり方もあったよなー」
「ふぉう?」
煎餅を食べながら、わざとらしく不鮮明な声。
「怖がられないように、っていうかさあ」
「なーに」
「諦めたんだろ」
どんなに『えりりん』が面白くても、結局はこれは英里の擬装なのだから。
彼女は体当たりし続けるのではなくて、全てを切り捨てる方法を選んだのだ。心を交わす気なんてない。いや、これは決めつけ過ぎかもしれない。ただ話を聞いただけなら、円満に人間関係を構築するためだけなのかもしれないと、おそらく思えた。けれども、目の前に生身の三条英里がいる。
この女は、他者などどうでもよくなったのだ。煩わされないなら、冗談に乗ることも、恋の手伝いも、優しくすることもできる。適当に満足させてやる。できることならそれなりに何でもしてやろう——だから自分には関心を持つなよ、と。
「……えっとお、たぶんほーくんが思ってるほど人非人なこと考えてないけどお。そうだよ、えりはえりだけが大事。他人なんてどうでもいいもん。どうでもいいから、いちいち強く好かれたくないし、因縁もつけられたくないの」
だって、彼女はふて腐れた顔をする。
「めんどくさいから」
だよな、と穂積は頷いた。他人と関わるのは、いちいち情を交わすのは面倒臭い。やる気が出ない。なんでそんなに熱くなれんの? なんでそんなに相手に求められんの? どうでもいいよ、そこまで興味ねーよ、好きにやれよ。穂積はそれなりに人が好きだが、それなりに関心がない。英里ほどの潔癖さはないが、ほどほどに他人が鬱陶しい。
ただし、これには、基本的には、とつく。
自分が淡白なことは知っているし、あんまり情の厚い人間でもない自覚はある。正直、偽りさえしていないのだから、英里とどっこいどっこいだろう。
だが、穂積は友人たちのことが、けっこう気に入っている。
手を焼いてやってもいいかな、と彼が思うぐらいには。それはけっこうな重みを持っていて、そしてこの感情は英里に対しても向いている。穂積は、英里を友人だと思っている。
「ほーくん」
薄い笑みの英里が意味ありげな呼びかけ。けれども穂積は、その意図を汲んではやらない。じっと視線を返すのみ。英里の顔色が少し悪くなる。
「……えり、もともと、人って興味ないの」
だろうね。だから好かれるのだって嫌なんだろう。
「でもさー、本も絵もお菓子も好きだよね」
「ひとが創るものは好き。でも深く関わりたくないんだもん」
「あーうん、分かるわあ」
「ほーくんも、わりと冷たいもんねぇ」
「俺はどうでもいいだけだよ」
「じゃあ、えりのこともどうでもいいよね」
んー、と首を傾げる。椅子をギシッと鳴らす。煎餅は美味い。珍しく、下手を打ってきたなあ。穂積は微かに笑った。
たぶん、意地の悪い笑みだ。
「そうでもないんだよな」
一瞬英里の目が素に戻った。人形のように空虚な表情。かたん、と椅子を立つ。穂積の正面に立つ。膝が触れ合いそうな距離。
「好かれたくないって言った」
伏せた睫毛があまりにも美しくて、やはりこの女は芸術品に違いない。神様はなぜこれに命を吹き込んでしまったのか、いろいろと失敗している。
けれども、英里を生んだことは正解だ。
穂積はちらと彼女を見上げ、簡単に返す。
「聞いたけど?」
幾分、美少女の目つきが鋭くなる。
「ほーくん」
「気にしなきゃいいじゃん。別に、俺は勝手に大事に思うだけだよ」
「そういうの、重い」
「軽いだろ。基準きつすぎ」
「えりはほーくんのこともどうでもいいよ」
「うっそ。えりりん、俺のこと好きじゃん」
「うん。だいすきだよ?」
「ほーらぁ。えりりんのツンデレさん!」
「ほーくんのいじわる」
「——ほら、ぜんぜんいつも通りじゃん。えりりんは何も気にしなくていいんじゃね?」
とか調子の良いことを言ったらガッと両肩を掴まれた。やっべ言い過ぎたかね。冷や汗が流れたが、どうやら粉砕するつもりではないようである。
「……えりは、ほーくんに執着できないよ。えり、簡単にほーくんのこと忘れられる。ほーくんのこともめんどくさいって思うよ。気安く接せられてもえりは愛着なんてもたないの。えりは友達には向かないの」
「知ってますう。ほんとえりさんサイテー」
「人間なんて、嫌いなの」
低い声に、違うでしょ、と嗤ってやる。
「くっそどうでもいいんでしょ。三軒となりの奥さんの従兄弟の娘の甥が、さいきん釣りにはまってるって話題くらい、興味が出ないんでしょ」
「なにそのチョイス。センスわるーい」
「ハイハイすんませんねえセンスなくてえ。まーこの話題になんで興味もたなねんだよ! 真剣に聞けよ! とか言われてもハア? ってなるよねー」
「そのたとえぜんっぜんあてはまってないってえり思いまーす」
「俺も思ったわ……んーじゃあー」
「いいよ考えなくて」
「んー」
「ほーくん、あのね」
「なあんですか」
「何度も言うけど、えりはほーくんをちゃんと好きになれないよ。絵画の中の人間をきれいだなって思っても、その苦悩に真摯につきあう気はおきないの。だから」
だから?
「わたしを、好きに、ならないで。小高くん」
まったくの無表情で、三条英里はそう言った。
あー……と穂積は首の後ろを引っ掻いた。うん、言われると思ったわあ。けど、苗字を覚えられていたのは予想外。てっきり『ほーくん』としか記憶してないのかと思っとったわ。
「三条さんはさあ」
「やーだっ、えりりんって呼んでっていったのにい」
「他人がどうでもよくても、興味沸かなくても、あんがい気遣い屋だよねー」
「……はあー? 頭だいじょーぶ?」
だいぶ苛ついている。そろそろ会長たちも訪問という名のデートから帰ってくるだろうから、はやくこの話を切り上げたいのだろう。
「さりげなく書類整えたり、疲れてる子引っ張って休ませたり、好きな飲み物を把握してたり」
「…………だからなに?」
「べつにー。律儀だよなーって思っただけー」
「ほーくん、いいかげんに」
「えりりん」
呼びかけて、穂積はあまり意識せず、彼女の頭をぽんと撫でた。いつものえりりんに戯れるみたいに。
「だいじょーぶ、俺もえりりんのことわりとどーでもいいし、そんなえりりんが厄介がるほど大事じゃないよ。ただ、けっこう好きだよってだけ」
「……それが、いやなんだってば。セクハラだし」
「うわっ、傷つくー。まあいいや、とにかく仲直りしようよ」
「喧嘩なんてしてないもん」
「あーもーえりりんまじめんどくせー!」
「ぷーんだっ」
「だからさー、べつにえりりんは、俺のこと切っても忘れても何してもいいんだよ。俺だって勝手にするし。俺がえりりんを好きでも、なんにもならんて」
「……わたし、はっ」
「お?」
「わたしはっ、気になるの! もやもやするの! いやなの! 好かれたくないし、好きにならなきゃって思うのもいやなの! 好かれてるって思ったら、自由にやりにくいの!」
「えりりん、素の方が我が侭じゃね?」
「薄く浅く適当な関係でいたいの! なんでこうなるのよ! 小高くんは、同じだろうって、安心してたのに!」
「はいダウトー。それ、期待だから。押しつけだから。勝手に思い込んで、そういう人物像はっつけてたんでしょ? それってある程度関係持ってる証拠になっちゃいますけど?」
「……っ」
「あは」
頬を紅潮させ、ひどく忌々しげに、そして自己嫌悪を滲ませて彼女は言葉を詰まらせた。その顔が、ちょっとびっくりするくらい、
「えりりん、そんな顔できんじゃん。かわいいね」
————扇情的。
穂積のちゃらい揶揄にキッと睨みをつけてくる。
「う——る、さい! わたしはいつもかわいいの! 性的っぽいからやめてよ!」
「うんうんえりりんはいつもかわいいよね。でも今は確かに性的に可愛いよ。あはは。うける」
「な……」
「あ、襲わないから。大丈夫、大丈夫。そんな大失態、みたいな顔すんなよ。えりりん俺のことなんだと思ってんの……?」
じゃっかんせつねえ。というか、異性関係はこの子地雷入ってんじゃないだろーか。なんかさんざんな思い出話だったし。
「……ごめんねえ。まあ、えりのこの性格知ってて、そういう風に思うわけないって分かってるんだけどお」
これは自意識過剰だと反省したらしい。彼女もさすがに、誰しもが容姿のみで自分を好きになるとは思っていないようだ、驚異的に珍しく素直な謝罪である。
しかし、だ。後半がおかしい。
「ん? なんで?」
「え?」
「ふつーに興奮しますけど?」
「は?」
「えりりんがぶりっこしてると、ばかだなあって思いながら、なんか愛おしくなってくるし。まあうざいけどな」
「……わっつ?」
「笑顔引き攣ってるよえりりん!」
「…………ま、って」
「はいはい」
「え、なに、え……好きって……、え? ちょ、ちょっとえりわかんないんだけど……」
「おやおやぁ? えりりん調子がお悪そうですなあ?」
「だれの、せい、だと」
「だめだめですなあ、なってませんなあ、プロ根性が足りませんなあ」
「小高くん!」
「好きですよ」
英里は見事に硬直した。呆気にとられたような、なんとも間抜けなお顔だ。なんだ、ぜんぜん表情のバリエーションあるやんけ。まったくもう、めんどくさがりさんだなあ。
穂積はにいっこりと口端を引き上げ、ぐっと英里に視線を合わせる。
「まあ、俺の『好き』なんで、どーにもこーにも、淡白でうすっぺらであってもなくても同じようなもんだけどねえ」
「……おことわりしま、」
「はいはい分かってますよ。それより、せっかくだしいちおう言っとくね」
「なにを」
ああ、可笑しい。にやにやとどうにも締まらない笑みが洩れてしまう。面白いなあ。
「俺さあー、えりりんのこと、けっこうそういう目で見てますよ? かわいいなー、好きだなー、やらしいなーって」
「やらしい……!?」
「あざとかわいい仕草にノックアウトですよー」
「な、な、な」
「ごめんねえ、同類がまさかの裏切り者で」
「え、えり、えりは」
「うん、俺のことなんとも思ってないよねー。友人的な意味でも」
「……えりは」
うろたえる英里がかわいくてついいじめてしまったが、何やら深刻に俯かれて焦ってくる。どうしたえりりん、今日メンタル弱いじゃん! 意外と応用が利かない質か。まあ、同じ役員Aさんにいきなり欲情してますよ宣言されたらマジ勘弁って感じだよな……。明日からやりにくくなるだろうし。でも、本心からどうでもいいだろうし、俺も本質的に淡白だから適当にやれるだろって思ってたんだけど。
目算を誤っただろうか。
と、ちょっぴり不安になっていたら、英里が盛大な溜息を吐いた。
「ほーくんはほんと、性格悪いよねー」
「悪い悪い」
「誠意がぜぇんぜんなーい! はー、でも、うーん」
「なんだなんだ」
「えり、ほーくんのこと、わりと仲は良いけど結局どーでもいい他人で、そんなに深く関わりたいとも思ってないけど」
「それさっきからさんざん聞いてんだけど」
「でも、好きだよ」
「へー。……ん?」
「えりもときどき、ほーくんに期待する。このひとはこれ言っても大丈夫とか、こう返してくるといいな、とか、……同類、とか。まあほーくん以外にもするけど。特別なことじゃないけど。でも、これは、わたしにとっての、欲、だね」
「え、え、え、え」
「触れたくなる、目を見たくなる、会わなきゃ忘れてるくせに、顔を見ると嬉しくなる。——依存したくなる」
たぶんね、とまるで熱のない調子で彼女は呟く。自分のなかの感情を確認するように。
思わぬ反撃に焦りまくった穂積だったが、変化の薄い英里のおかげで、いくぶん冷静さを取り戻した。言われた内容を反芻する。それから思う。
それはどうなんだろうな、と。
触れたくなる、目を見たくなる。確かにそうだ。こうして向き合っていると、ミルク色の膜をたっぷり張られた心臓が熱くなる。おそらく、これを嬉しいと、自分たちは定義するのだろう。うれしい。この言葉は、はたして最も相応しいと言えるのだろうか。
「でもね、えりは、ほーくんに好きになってほしいとは、思えない。ほーくんがどう思ってるかなんて、どうでもいいの」
これは恋とは呼ばないね。そんな風に言う。だけど、好きなのだと。それは事実なのだと。ああ人の感情ってめんどくせえなと穂積はげんなりする。簡単に分類できそうで、あまりにも複雑で、誰にとってどのような心の動きをどう表すのか、まったくもって不安定。つまり何が言いたいのかといえば、恋愛の範疇に含められるかどうかなんて、本人にだって分からない。けれどもたとえそれが他の人間にとってぜんぜん当てはまらないものでも、その誰かにとってはそれこそを恋とか愛とか言うのだろう。
だからそう、英里にだって、決めかねる感情があるのだ。
「けっきょく曖昧なのばっかりだなあ」
「ほーくんだって、似たようなものでしょ」
「まあね。俺も、えりりんが好きだからって、これはべつに言いたかったわけでも、えりりんに好きになってほしかったわけでもないしね。気分は良いけど」
ただそれだけだ。だから穂積の“恋”も、きっと実際はもっと歪なものなのだ。
「……わたしは、最悪だったけどね。嬉しくないよ」
照れ隠しではなく本気で嫌そうに言うのだから、英里の感情は難しい。いっそ憎々しげでさえある。彼女は項垂れ、たった今までのおのれの失態を恥じているようだった。
時計を確認する。
廊下は静かだけれど、ときおり人の足音が過ぎていく。部活で残っているひとたちや、先生方のものだろう。
きっと多くの生徒たちは、健全で不健全な青春の空気を気持ちよく吸い、たとえば恋をして、愛し愛されたいと努力をしてみたりするのだろう。それに比べ、穂積たちのなんとやる気のないことか。なんと稚拙な触れ合い方。情動と本能ではなく知性と理性と感情を備えた人間が、聞いて呆れるくらいに不完全。
どうして執着できないのか。
どうして相手をほしいと思えないのか。
触りたい。キスをしたい。可愛いその顔を眺めたい。そういう欲はあるというのに、最も重要なところが抜けている。これだって、でも無理だな、と思えば簡単に腹へと押し込めてしまえるのだ。まるでおままごとのよう。
それであるのに心臓を焼く熱だけは本物なんて。
「……ほーくんは、えりを彼女にしたいなんて、言わないよね」
穂積は思いがけない言葉にきょとんとした。
「まさか。思ってもいないよ。俺とえりりんはこれからも特に何ら関係ない、ただの同じ役員さんだ」
友人という名の他人、知人と誤摩化した上での他人、同じ組織の人間というだけの他人。
恋する相手という他人。
どこまでいっても一方通行だ。そもそも通じ合わせる気が双方にない。
だが、穂積はこの女を真実好きだった。穂積と似ていて、けれど確実に違う、彼よりよほど繊細で神経質で実に面倒くさいこの女を。
彼女はうっすらと笑い、そう、と囁く。甘い声だ。意図しているのか、無意識か。少なくとも、機嫌は上昇したらしい。
「だから、ほーくん好きだよ」
「そんで、だから嫌いなんだろ」
「うふふ。そおんなことないよぉ。抱かれてあげてもいい程度には」
「それは美味しいけどねー、そういうのはえりりんがヤりたーいって言ってくるときじゃないとなあ」
「えりぜったいそんなこと言わないもーん」
「それは分かんないんじゃないのー? 試してみますか」
ちいさな顎に手を這わせ、赤い唇を親指でなぞる。その指の先を、英里の舌がちろりと舐めた。
「ヘンタイさんだなあほーくんは」
そう言いながら、英里は目を伏せ、ゆっくりと顔を近づけてきた。痛いほどの静寂が、しんと世界を打ちつける。ふたつの渇いた唇は重なり合い、融和し、しばらくの時間を経て再び分たれた。
そう、待人たる会長たちがバタバタと慌ただしく戻ってくる、ほんの数分前には。
・・・
そしてまた、忙しい放課後がやってくる。
月曜日の生徒会室は、土曜の午後より集まりが良い。
「えりりーん、カフェオレほしーいなー」
「やーだあー! えりはほーくんのパシリじゃないもんっ。自分でやりなよね!」
今日も、彼と彼女は名前を知るだけの他人である。
こんなところまでお疲れさまですありがとうございました。
ぶりっこ×だるだる少年書こう! と思ったら薄暗くなりました。他のものの息抜きにダラダラちまちま書いていたらこんな……ことに……(飛魂)
おおめにみてあげたってください。