008.聖母の如く
「それで?」
「んー? 隊長さんは何が聞きたいのかなー?」
「それくらい分かっているだろう」
「俺は隊長さんの口から直接聞きたいかなぁ、なんて?」
「……」
「聞こえないなー?」
「……あの女はどうした」
その答えにヴェルデは満足そうに頷いた。そんなヴェルデの様子とは正反対にアークの表情は浮かない。フッと背けた表情は乏しいながらに不機嫌を絵に描いたようだった。
「サユキちゃんはシルファ隊長のところに預けた」
「どうしてだ?」
「総合的に見てそれが最善だと判断した」
「もしも形振り構わない奴等が――」
「俺の言うことが信用出来ないのか、おチビ?」
「その呼び方は止めろっ……!」
クスリとヴェルデは頬に笑みを浮かべた。その態度が気に食わないとばかりにアークは眉を潜める。
「なんなら"先生"と呼んでくれてもいいんだぜ?」
「誰が」
ニヤリと笑みを浮かべるヴェルデを一蹴しつつ、アークは苦虫を噛み潰したかのように顔を歪ませた。
クシャリと前髪を無造作に掻き上げ、意を決したようにヴェルデへと向き直る。
「お前の言うことなら信じるしかないか」
「そうそう。素直が一番だね」
その言葉に満足したのか、ヴェルデは頷く。人をからかうことを生きがいとしているのか、それとも特技しているのかは判然としないが、少なくともそれを楽しんでいることがありありと分かる。それを分かっていてアークも一切追及することはない。
「基本的にはシルファ隊長に任せることにはなるけど、いざというときには俺たちもすぐに駆け付けられるよう、≪探知≫を効かせてある」
「……それで間に合えばいいが」
「あんまり露骨に動き過ぎても不味いでしょ?」
中々に得心いかない様子のアークをヴェルデが宥める。その言葉にアークは納得はしつつも、やはり何処か気が漫ろな様子だ。
「あ、そうそう。にゃーさんにサユキちゃんのことバレちゃったかも」
「――は!?」
何でもないことのように呆気なく発せられたヴェルデの言葉を辛うじて耳に挟み、そしてアークは驚愕した。
「待て! どうしてそうなった!」
冷静の仮面をかなぐり捨てた様子で噛みつくのはそれだけ今のヴェルデの言葉が重要な意味を持っていたことを証明している。
そんな重要な事実を打ち明けたはずのヴェルデは、なぜかあっけらかんとした様子でアークの反応を伺っていた。
アークの掌がヴェルデの襟首をガッチリと掴む。強く握りしめられたそれは幾重ものシワを残し、アークの感情を強く反映している。一瞬のヴェルデとアークのにらみ合い。ヴェルデの余裕の笑みはその瞬間だけ払拭され、その相貌とは裏腹に切れるような鋭さを見せた。
「シワになっちゃうからさ、離してくれない?」
「――まだお前の答えを聞いていない」
ヴェルデは未だに襟首を鷲掴みにする拳に自らの掌を重ねて軽く捻ると、アークの捕縛は呆気なく解けた。
「正直に言えば不本意だった。まあどうせいずれは知れるところだっただろうけど。あれはそういう気質だ」
「対策は考えているのか?」
「まあね。いずれはバレること前提だったし。前倒しにするだけだよ」
ヴェルデの頬に浮かぶのは余裕を模した表情だった。その程度、予測済みだと言わんばかりの面持ちに、アークも納得した。
「それならば、いい」
ヴェルデはその襟元についた皺を丁寧に伸ばしつつその言葉を聞き流す。それは言われずとも当然である、という無言の態度だった。
「ついにこの時が来たんだな」
「――そうだな」
アークの言葉にヴェルデが相槌を打つ。同時に訪れる沈黙は決して誰にも破ることは出来ず、まるで波間に揺蕩う小舟のように穏やかに、しかし確実に揺らめく空気が溢れていた。
二人の表情にそれぞれ複雑な感情が沸き起こっていることが見てとれる。まるで今までに体験してきた辛酸を再度味わっているようだった。
アークはゆっくりと瞳を閉じた。人間にとって感知能力の大部分を占める視界が失われ、代わりに赤黒い暗幕が落ちる。そこをスクリーンに抱いた思いを忘れまいと焼き付けた。
「絶対に、手放しはしない」
アークの囁いた言葉は誰の耳にも届くことはなく、二人きりの執務室へと溶けた。
* * *
「じゃ、じゃあ服を脱ごうねっ!」
ワキワキと何かを揉むような仕草を執り行いながら、一人の少女が別の少女へとジリジリと歩み寄る。
「シルファさんは嫌です」
ペシリとその手を撃ち落とし、沙雪は呆れたようにそう言いきった。
その言葉を聞いた途端、シルファは世の中には救いが、あるいは神が存在しないことを知ってしまったかのごとく絶望にまみれた表情をした。
「な、んで……?」
瞳には今にもこぼれ落ちんとするほどに張りつめた水滴。見上げる表情は愛らしさを強調しているのだが、何故か嗜虐心をそそる。沙雪は自身のそんな良からぬ感情に思い当たり、咄嗟に首を左右へと振った。
「そんなに、私が嫌なのぉ?」
舌足らずの口調に変調してゆく様は見た目通りまさに正当なものではあったが、流石にそれを見たところで沙雪にとっての利点は一切ない。精々が動物に癒される心情に近い程度だ。――それもいいかも、と思いかけた沙雪ではあったが、本来の目的を思い出してその魅惑的な提案をはね除けた。
「別にそういうわけじゃありませんが、シルファさんの邪な視線が嫌なんです」
「邪なんてそんなっ! ほら、俺の瞳、輝いてるだろ? この何処に邪気があるんだ!?」
なるほどシルファの瞳は透き通り、覗き込む沙雪を鏡のように反射している。その中に悪意を見付けることは到底出来はしないだろう。だが同時に、その眼の中に滾る情欲の焔が。
軽く外した視界に、嘗めとられてテラリと光を反射する桃色の唇があった。
沙雪のその視線に気が付いたシルファは咄嗟に袖口で唇を拭った。荒っぽいその仕草がその容姿にはあまりにも不釣り合いで、不覚にも沙雪は現実を取り戻すことに成功した。
「まともな人をお願いします」
「だからここに――」
「その顔で言いますか」
ニマニマと悪意を張り付け、見るものに不快感を覚えさせかねない表情の少女はやはり自重という言葉を学びはしなかった。
「だって、ねぇ?」
問いかけられた沙雪はその言葉に応答するものを持たない。何故ならばその言葉が何を意図するものなのか、思量するには至らなかったからだ。
沙雪は軽く耳朶を触り、思慮する。
「とにかく、変なことはひぁっ!」
「思ったよりも堅いな」
話している最中に突然奇声を上げ、同時に軽く飛び上がる。沙雪の真正面に立ったシルファ。その小さな手が沙雪の双球をむんずと鷲掴みにしていた。
飛び上がったままの勢いで一気に振りかぶった腕がシルファを打ち倒さんと降り下ろされたが、その一瞬で表情を塗り替えたシルファが愛らしく囁く。
「叩くの?」
咄嗟に沙雪の腕が止まる。止まった、と言うよりも止めた、と表現するのが適切ではあった。
シルファはその見た目を駆使し、降りかかる害意を避けようとしたのだ。そしてその思惑通り、沙雪の行動は制限された。しかしその反応はシルファの予想を大いに違えた方向で叶ってしまった。
「――サユキ? どうした?」
見るからに平常とは言えない顔色。振り上げたはずの腕は完全に力を無くし、行き場のないようにブラリとしなだれる。その唇はややも震えているように伺えた。
シルファの予想ではほんの少し、沙雪が躊躇してくれさえすればよかった。別に悪意を以て行動したわけでもなく、些細な悪戯心にも似た行動だった。だからその反応は完全に予想外で、逆にシルファは話しかけることさえも躊躇してしまった。だからと言って、何もしないで見ていることは出来なかった。
「大丈夫?」
原因を作ったのは間違いなくシルファであり、その責任を感じての声かけだった。だがそれも聞こえていないのか、沙雪の視線はシルファへと向けられることはなく、虚ろに虚空を見つめていた。
――たたくの?
声が聞こえた。
真っ赤な憤怒に染まったはずの思考の中、たった一滴溢された白の雫は、穴を穿つかのように沙雪の思考を黒く染め上げた。その声は、沙雪の邪知暴虐を諌めるように染み渡る。その瞳は、沙雪を貫くような批難の視線に溢れていた。それは至って冷静に、理性的に、公平に、感情的に沙雪を睨み付けていた。
「わ、私はそんなつもりじゃ……」
虚空に向かって呟いた言葉は結局その対象を見つけることが出来ず、空気の中へと融けだしていった。
クンと腕を引く感触に沙雪は現実を取り戻す。
「大丈夫か?」
「あ、え、その……」
心配そうに沙雪を見上げるシルファ。一瞬錯綜していた意識は現在を見据え、夢現は空想へと帰りつく。
釈明せねば、そうは思っても語るべき言葉は見付からず、言葉に詰まった沙雪を救ったのは部屋の扉をノックする音だった。
「シルファ隊長」
柔和な声だ。女性らしさの詰まった暖かみのある声。それだけでその人の人柄も見えてきそうなほどだ。目を閉じれば温和そうな表情が脳裏に浮かびあがるだろう。
「アスカか。ちょっと待ってくれ」
その声だけでその相手が分かったらしく、シルファは待ったの声をかけた。一瞬沙雪へと視線を走らせる。現実感は喪失していたが、思考は居所を見失っていなかったらしく、それだけで沙雪はその視線の意味を悟った。
何処か身を隠す場所はと視線を巡らせるが、目につくのはシルファの体格には到底見合わない大きなダブルベッドだった。――そう、ここはシルファの私室だ。クローゼットの一つや二つ、付いていてもおかしくはない部屋の広さだったが、何故かそういった類いのものは見受けられない。通例であればそうした空間は身を隠すにはとっておきなのだが、ないものをねだることは流石にできない。已む無く視線をシルファへと向けると、シルファは首を縦に振った。これは恐らくその通りの意味、ベッドの中に隠れろという意思表示なのだろう。仕方がなしと沙雪はそそくさと布団の中にその身を隠した。
「もう少し待ってくれ」
扉の開く瞬間を今かと沙雪は待ち構えていたが、その想定は故意に外され、捲り上げられた布団の外ににやけるシルファの表情が見えた。そして次の瞬間にはシルファは沙雪の横に自身の体を横たえて布団を目深に被った。
「ちょっと、シルファさ――」
「入っていいぞ!」
咎める沙雪の声はシルファの張り上げた声によって遮られた。
「失礼しま――」
部屋に入った直後にアスカと呼ばれる女性の声は途切れた。捲り上げて見るまでもなく、布団の中にはシルファ以外の人間がいる。小柄な女性一人が到底描くことの出来ないシルエットがそう告げていた。
まったく、と言わんばかりにアスカはこれ見よがしに嘆息する。
「シルファ隊長」
「ん、なんだ?」
のそのそと布団から顔を出してアスカを見つめるシルファ。アスカの言葉が何を意図しているのか、全く理解できていないとでも言いたげな表情だ。それは素なのか、あるいは故意なのか、判然とはしないものの何れにせよアスカにとっては関係のないところである。
「ここは連れ込み宿じゃありません」
(違うからっ!)
咄嗟に飛び出しかけた沙雪を制したのはシルファの細腕だった。沙雪の頭を押さえつける力は想像以上に強く、布団の中は暗闇のままで外界を臨むことは適わない。
「悪いな」
「謝辞はいいです」
「今度代わりに――」
「結構です」
アスカはピシャリとシルファの提案をはね除ける。本当に微塵も、これっぽっちも興味がないという姿勢を見て取ることができる。
「釣れねぇなぁ」
呆れにも似た声がシルファから零れるものの、アスカはそれを気に留めた様子もない。
シルファは身軽に布団から飛び出すと大きく伸びをした。
「あとそちらのお嬢さんも、出ていらっしゃい」
バツの悪さを感じながらもノソノソと布団から這い出ると、沙雪の前には一人の女性が立っていた。身長は沙雪の方がやや高い程度だろうか。濃紺の流れる絹のような長髪。単純な黒の髪とは違い、幻想的にも見えるその色は沙雪の視線を占めた。その髪は光を美しく反射し、見事な光の輪を描いていた。――手入れ、大変なんだろうな、と全く無関係で下世話なことを想像する。
続けて視線が追いかけるのはその容貌だ。おっとりとした表情にぽってりとした唇。ふくよかというわけではないのだが、女性的な柔らかさを感じさせる。ほんのりと染まった桃色の肌と右目下の泣きボクロが微妙な色気を醸し出しているようにも見える。
服装はアークやヴェルデと似た作りにはなっていたが、ゴテゴテとした無駄な装飾が省かれ、見ようによっては白のパンツスーツにも見える。ただし、沙雪の目の前の女性は、キャリアのような雰囲気を出している訳ではなく、弱冠窮屈そうに服を着ていることで本来の意味とは違った役割を果たしているようにも見える。そして沙雪は視線をそこから下へ移そうとして、見ることを止めた。
別に沙雪が人よりもないという訳ではない。本当に平均、普通なだけだ。つまり、沙雪よりも下がいれば、上もいる、ただそれだけの事なのだ。だから沙雪は何も見なかったことにして、普通の自分を肯定する。否定はしない。そんなことをしたところで、心が傷つくだけだからだ。
(気にしない。気にしない――)
とは言えど、心の中でそのようなことを復唱している以上、気にしていない訳がなかったのだが。
「若いんだから、先走っちゃだめよ? 自分を大切にしないと――」
「違います!」
アスカの口から語られるのは、何故か沙雪の体を気遣うような発言だった。それに不穏な意味を感じ取り、即座に否定の言葉を発していた。
その意味を考えようとは思わない。考えたところで、どうせ気落ちするのが山だからだ。
「あれ、違ってた?」
「私とシルファさんは、別になんでもないです!」
「ふふ、別に何もないことは分かってるわよ?」
「……分かってるなら、最初から言ってください……」
――からかわれていたのだ。そう気が付き、語尾に向かうにつれて言葉が小さくなる。最後はそれこそ蚊の鳴くような声という表現がピッタリとでも言う如く、沙雪の表情には羞恥が浮かんでいた。
そんな反応を楽しんでか、二人はニコニコと憎らしいまでの笑みを浮かべていた。一人は純粋に笑っているだけなのかもしれないが、残りの一方がどうにも純粋には見えず、あまりにも残念な対比が描かれる。
「シルファさん」
「ん? なんあだっ!?」
名前を呼びかけ、そのまま手刀で邪悪を断ち切った。大した力は籠めておらず、痛みもそうはないだろう。そうであるはずなのにシルファが口先を尖らせて沙雪を見上げるのは、何かのポーズであるということに他ならない。
「これで許します」
呆気に取られるシルファと、それを見てクスリと笑いを浮かべるアスカ。そしてようやく沙雪は自らのペースを取り戻す。
「初めまして。私はニシジマ・サユキです。サユキの方が名前です」
「初めまして。私はアスカ・ガーネットです。シルファ隊長の率いる≪白薔薇隊≫所属、位は二位です」
二人はしかと握手を交わす。自己紹介は最低限のもので、自身の情報を極力漏らさないようにと沙雪は気遣った。それにアスカの言う『位』と言うものが理解できず、
今一つ実感が湧かずにいた。
「あ、ずるい! 俺はシルファ・クロロノア。≪白薔薇隊≫の隊長をしている!」
「知ってますよ?」
アスカがニッコリと笑みを浮かべてシルファへと語りかけた。お前に言ってる訳じゃない! とシルファは駄々を捏ねるようにしていたが、沙雪が抱いた感想も概ねアスカと同じだった。
沙雪は耳朶をやわやわと弄りつつ、どう話を進めるべきかと考える。
ヴェルデの考えではなるべく世間に露出しない形で【マレビト】の公表を望んでいた。その"なるべく"の範疇が何処までなのか、それが沙雪の懸案事項だった。
それに対しての答えを導いたのは、シルファの一言だった。
「アスカはうちの隊でも信頼できるからな。とは言ってもうちの隊は一枚岩だから関係ねーけど」
「確かに、他の隊と比べるとうちの隊は団結力が違いますものね」
「そういうことだ」
ハッハッハと大袈裟に笑いを見せるシルファ。それほど自身の隊に対する自信に溢れているかのようだった。それはやや疑り深い目で伺っていた沙雪の信用を得るための行動であったのだと、後から思えばそう気がついた。
そして今沙雪が最重要視すべき点は、自身の身が如何に安全であるか、ということだった。
所謂強硬派というものが沙雪の身柄を狙ったとして、それに抗うだけの体力があるのか、ということだった。
ふと、沙雪は思い出す。シルファの言っていた『シルファ個人』という言葉と既に約束を違えてしまっていることに。確かに個人よりも複数人であった方が身を守るにはうってつけだ。その分、情報の漏洩や錯綜、入り乱れる思惑などは決して無視など出来ない。それに対するシルファの考えとは?
「あの、シルファさん」
「なんだ?」
目を輝かせて沙雪に歩み寄るシルファ。
「近いです」
グッと双肩を押し返し、無理矢理に距離を取らせる。まるで恋人の距離だったそれは、強制的に知人同士のそれへと変貌させられる。
「個人がどうとか、言ってませんでした?」
「ああ、それか。半分はその場の勢いだ」
その言葉を聞いて、激しく不安を覚える。だがその不安を払拭しようとしてか、シルファは言葉を続ける。
「元より俺個人でどうにかできる問題じゃねぇ。ヴェルデたちも俺が隊の力を使うことくらいは計算済みだろうし。何より俺が付きっきりって訳にもいかねぇしな」
折角美少女と一緒にいられるチャンスなのに、と軽口を叩くシルファを傍目に沙雪は思案する。
確かに個人で人間を匿う方がより効率的だ。シルファが言う"一枚岩"が本当であれば、何よりこれ以上に信頼を置けるものはない。そう考えるとアークやヴェルデの方は沙雪を受け入れられない事情があるのではないかと察せられる。
全面的に信用するわけにもいかないが、にわか知識の沙雪が思考するよりもシルファやヴェルデが思考したプランの方がより確実性があるのも確かだろう。
――きっと大丈夫だ、沙雪はそう信じることにした。
顔を上げればシルファとアスカがいる。不安そうな表情はしていない。だったら尚更、沙雪が不安そうな顔をするわけにもいかない。だから沙雪も胸を張って対峙する。
「これから、よろしくお願いします」
「いい面構えだ。とりあえず――ようこそ、ニシジマ・サユキ」
シルファはそう締め括った。それは受け入れの言葉だった。