007.その少女、狂犬につき
「ああ!? ぶっ殺すぞ!」
「おおう」
「え?」
突拍子もないヴェルデの言葉に対する第一声は痛烈なそれだった。
物騒な台詞の割りには甲高い声音。ヴェルデの背後、まるで小学生のような少女が肩を怒らせながら、目を吊り上げて姿を表した。なるほど、少女とはよく言ったものだ。身長は沙雪の胸に届くか届かないか程度。櫛も引っ掛かりはしないだろう絹のような桃がかった髪はツーサイドアップで纏められている。いっそのこと、ツインテールにでもしてしまえば外観としては完全に小学生のそれだ。ある意味それを分かっているからこそそうすることを避けているようでもある。
その格好はアークやヴェルデとそっくりで、ただ違っているのはその色が真白であることだった。飾緒はゴテゴテしく飾り付けられ、まるで新手のおしゃれにも見える。よくよく見ればその下はパンツではなくスカートだった。それもマイクロミニの。そのサイズを鑑みればオーダーメイドだろうか。縁を飾るように取り付けられたレースが少女らしさを強調している。色気と呼ぶにはまだ早いが、女性であるアピールは確かに強く感じられた。
「シルファ隊長いきなり物騒ですね」
「物騒? てめえの面見ても同じ台詞吐けんのか? ええおい!?」
「――あら、イカす男が」
「俺がもっと美形にしてやるよ。とりあえず百発殴らせろ!」
「遠慮しておきます」
突如始まったコントに沙雪の目は見開かれたままだ。少し前にも似たような光景を見た気もしたが、今回のそれは尚更苛烈だった。
それ以上にこの現状、駄々をこねる少女とその兄、と表現するのがしっくりくるだろう。
「訓練に副隊長は来ないわ、うちの隊員は泣いてるわ、女を引っ張り混んでるわ、挙げ句の果てに猥褻行為だと!? うらやま……破廉恥にも程がある!」
「今なにか――」
「黙れ! 我が正義の鉄槌、ここに受けるがいい!」
「うわっ」
珍しく焦った様子のヴェルデ。少女の前に展開されるのは光輝く円陣だった。空中に描かれた紋様は幾何学的な造形をしており、その不可思議さを追求すれば幻想に囚われ視界を盗まれる。その中に沙雪は確かに"裂"の字を見た。
「≪千切れ旋風≫!」
「ねえから!」
必死の形相でヴェルデが手を翳し、その陣に対抗するように何かを念じるように顔を顰める。
すると一瞬のうちにその円陣は空気へと融け込み、張りつめた空気は瞬く間に消え去った。
「……これだからお前はイヤなんだよ」
「これでも副隊長だからな」
自嘲のようにヴェルデが苦々しく笑う。今の一瞬のやり取りが何を意味していたのか、沙雪には理解することは出来ない。しかし、何が起きたのかを理解することは対して難しい問題ではなかった。
――魔法、と云う言葉がある。それは奇跡であったり、不可解な現象であったり、納得のいかない出来事であったりと様々な形を持っている。それがどんな形にせよ、物理、あるいは精神的にありえないことが発生した場合にそう称される。
そしてその深度もまた様々だ。一般的な人間にとっては手難しい料理を事もなさげに作り上げてしまう料理人も魔法を使うし、巧みな話術で人々の心象を思うがままに操ってしまう手品師も魔法を使う。
しかし、今ここで語られるべきなのはそう云った比喩としての魔法ではない。現実的な魔法――とは言えど、魔法などと言う概念は到底現実足り得ないのだが――のことである。かねてより語られるそれは現代科学では説明のつかない原理で動き、物理現象を超越した新たな理論の事である。当然それを語るためには、魔法の存在を容認した世界で生き延びてきた、化石のような頭を持った物理学者に任せる必要があるだろう。勿論そのような錆びついた理論で語る猶予などあるべくもない。
異なる理論、異なる物理法則。これぞまさに異世界と言わしめる最上の特徴である。
にわかには信じがたい異常である。異様、異形。空想妄想幻想。
だが確かにそこにあるのだ。認めたくもない現実が、そこにはいる。異議の入る余地すらない、厳密で厳格な理論によって成り立っているのだ。まずはそれを認めなければならない。
沙雪はそれを認めなければならない。
「いつからシルファ隊長は居たんだい?」
「白々しい。俺が入った時点で気付いてたんだろ? だからわざと聞かせた。違うか?」
「さて何のことでしょう」
やれやれとヴェルデが肩を竦ませる。わざとらしい態度に挑発にも似た態度が見て取れるものの、少女はそれにフンと鼻を鳴らすことで対抗した。
「お前のそういう態度が鼻につくんだよ」
「シルファ隊長は女以外気に入らないだろ?」
少女の言葉にそう返すヴェルデ。なるほど得心いったとばかりの表情で、
「お前にしては的を射た意見だな」
と少女は笑みを携えてヴェルデに微笑みかける。ヴェルデに初めて向けられた好意的な表情はなるほど愛らしいものがあったが、そこはかとなく厭らしい感情が籠っているようにしか受け入れられない。嘲笑という言葉が思い起こされる。
ヴェルデのその言葉に理解しがたい何かを感ぜずにはいられないが、恐らくは何か深い意味があるのだろうと沙雪は理解に努めようとする意思を横に殴り捨てて聞き流した。
「それで? 俺はこの美少女を好きにしていいのか?」
「その言葉に激しく不安しか覚えないが、まあ間違っちゃいないな」
沙雪はサッと周囲を窺った。しかしここにいるのはヴェルデとシルファ、そして沙雪の三人だけだ。第四者が居るわけでもない。シルファの言葉の真意を掴み損ね、沙雪は小首を傾げる。おかしい、件の美少女とやらはどこにいるのだろうか、と。
「おいヴェルデ、俺これ欲しい」
「奇遇だな、俺もだ」
ガッシリと熱い握手を交わす二人に流石に沙雪は首を傾げた。沙雪の理解の及ばないところでなされる会話に不満を抱かないわけにはいかなかった。
「なんですか笑って。さっきまで喧嘩してませんでした?」
どうぞ喧嘩を続けて下さいと言わんばかりの沙雪の言葉にも二人は動じることはない。ニコニコと優しげな瞳で沙雪を見つめるばかりだ。例えるならばそれは娘を見守る母親と父親……と信じたい。尤も母親と言うよりも妹と称した方が適切であるのは言うまでもない。
「良いもの見せてもらったら、ねぇ?」
ヴェルデがそう同意を促すと、
「だよな」
シルファはそう言いながらヴェルデと拳をぶつけ合う。なんだかんだ言いつつ、二人は仲が良いらしいことは沙雪にも見て取れた。だからと言ってはいそうですかと納得できる筈もなく、沙雪は訝んだ視線を投げずにはいられない。
「妹がいたらこんな感じなのか……!?」
シルファの言葉は力強く、沙雪の視線になにがしかの感慨深い効力を得ているらしかった。しかし沙雪はそれでも満足を得ることは出来ない。本来は相手を不快にさせるか、申し訳ない気持ちにさせるくらいのつもりでいた。そのはずがなぜか、シルファのその声には喜色が混じっていた。
「……なんですか」
不満げな視線を投げたはずなのにシルファは気にも止めず、沙雪を熱の籠った視線で見つめていた。その視線になにやら末恐ろしい結末を見た気がして、沙雪は自然ともう一人へと視線を流す。
「あの……ヴェルデさん……」
不安と言うべきか、それとも悪寒と言うべきか、背筋を這い上がる感覚は少なくとも沙雪にとってそれは善とは言い切れない。寒気にも似た感覚を覚えたことで助けを求めたのだが、返ってきたのはサムアップと満面の笑みだった。
(ちょ、ちょっと!)
助けを求める沙雪の視線は、しかし跳び跳ねて視界を埋め尽くしてくるシルファに遮られることとなった。
「私のっ!名前はっ!シルファーナッ!クロロノアだっ!愛称でっ!シルフィとっ!呼んでくれていいっ!……お姉様でも可だ。むしろ大歓迎だ!」
途中で跳び跳ねるのを止めたシルファを見下しながら、どう見ても妹様じゃないか、という言葉を噤めたのはひとえに沙雪のなけなしの理性があったからだ。だから沙雪の隣にいる人間の口を慎ませてやるために、沙雪の意思を反映することは残念ながら叶わない。
「お前はどっちかと言えば『妹様』だろ」
ピタッと動作を止めるシルファに、さしもの沙雪でも地雷を踏んだということはありありと見て取ることが出来た。
「――オマエナンテイッタ」
片言に聞こえるのは決して沙雪の聞き間違えでもないだろう。現にシルファはロボットのようにカクカクと歪に体を動かしている。その動きは今ダンスをすれば見事なロボットダンスを見ることが出来るだろうと容易に想像させる。
「どう見ても妹だろ、お前は」
「……少し、訓練場へ行こうぜ……?」
少なくともシルファは表面上、笑っている。だがその笑みは元来の意味を取り戻し、見るものを威圧している。よくよく見れば、背中から立ち上るオーラのような熱気が見て取れるような気がした。
「まあ落ち着け。妹でも、色々な妹がいるだろう?」
「……まあな」
相変わらずの笑みでシルファが同意する。しかしこれは一触即発の舞台だ。踏み込む言葉を違えば、即座に爆発することは考えずとも自明である。
「姉にぞっこんな妹」
「むむむ……」
「嫉妬しているけれど、実際のところは姉を尊敬している妹」
「……ありだな」
「大人びて姉よりも姉っぽい妹」
「それだ!」
ヴェルデとシルファは固い握手を交わす。沙雪にはそれがなんなのかさっぱりと分からないが、どう見ても下らないことなのは確かであり、親指と人指し指で右耳たぶをやわやわと弄りながらため息を吐いた。
「ところでシルファ隊長、サユキちゃんの話聞いちゃった?」
「そこに戻るか……。わざと聞かせたんだろ?」
ヴェルデは肩を竦め、軽く舌をだして片目を瞑った。随分と様になったウインクだった。
「まあね。さすがに俺たちがサユキちゃんを泊めるわけにもいかないしな」
「本当にやったら殺すぞ?」
シルファが鋭い目でヴェルデを睨み付けた。やれやれ、とヴェルデは両手を上げ、降参とばかりに顔を左右へと振る。
「やんないやんない。――で、事情の方は分かってくれた?」
「……おいそれと頷くことは出来ないな」
今までのやり取りが嘘のように真面目な表情を取り繕う二人。その変化に沙雪も取り残されようとしていたが、そうはなるまいと心意気を整えて沙雪も表情を一段と引き締める。
「別にうちの隊は穏健派でも強硬派でもない。強いて言うなら中立派だ」
「分かってる。だから俺が頼むのはシルファ隊長個人ってことになるな」
「……俺個人、か」
シルファは腕を組んでひと時だけ悩むそぶりを見せた。それに対し、ヴェルデが即座に言葉をはさむ。
「可愛い子がシルファ隊長のものに」
「よし預かろう」
「ちょっと待ってください!」
咄嗟に沙雪は会話に割って入る。なぜだろうか、二人ともに驚いた表情をしていた。まるで初めて沙雪の存在に気が付いたかのような反応だ。そのすっとぼけた反応に沙雪もややイラッとする。
「なんで私の所有権がシルファさんに移るんですか。私は私のものです」
「え、嘘だろ? ヴェルデのものは俺のもの。俺のものは俺のもの……だよなぁ?」
何故かそれでシルファはヴェルデに同意を求める。当然それに対してヴェルデは頷くことをよしとしない。
「さすがにそれは容認できないかなぁ……?」
「そもそも私はヴェルデさんのものになった覚えも、誰かのものになるつもりもありません!」
その言葉にシルファはどうしてか衝撃を受けていた。その勢いのまま、その場に膝をついてガックリと項垂れる。今頭を抱えたいのは、沙雪だって同じだ。どうしようもない人物に囲まれ、わけのわからない現状にどうしようもないのだから、それくらい沙雪にだって許されてもいいはずだ。
「ヴェルデ、私はどうしたらいいの?」
急に口調が変わったシルファ。それはまさに見た目に見合ったものであり、完全に違和感を喪失している。むしろ今までの口調が誤っていたのではないかとさえ錯覚する。その変調に対し、ヴェルデは驚くこともせずにその答えを渡す。
「シルファ隊長、ここで諦めるのか……? お前はこんなところで諦めてしまって満足出来るのか? ……違うだろっ! お前の目指すものは! そんなに安いもんじゃないだろっ!」
その見た目に似合う上目遣いでヴェルデの表情を窺っていたシルファだったが、その言葉に何かを取り戻し、虚ろになりかけていたシルファの瞳に光が戻る。
「……そうだ、諦められるわけがねぇ」
シルファは片膝を立てるとゆっくりと、しかし力強く確実に上体を起こしていく。そのまま両足でしっかりと立ち上がり、今までの様態が嘘であったかのように威風堂々と起立する。
「俺は夢を叶えるために生きてるんだ。諦めていい、はずがねぇ」
やたらと壮大なことを語っているが、今までの場の流れのせいで沙雪は丸っきりおいてけぼりだった。
だからシルファが滂沱しようと、ヴェルデがしきりに頷いていようと、微塵も関係のないことだった。
(……帰りたい)
別に何処というわけでもない。元の世界という訳でもない。とにかく、この鬱陶しい環境から逃れたいだけだ。
「例え今は俺に心を開いてくれなくても、きっと必ず俺に心を開かせてみせるっ!」
「そうだ!その意気だ!」
「……」
「その心に負った深い傷を、嘗めるように丁寧にゆっくり、しっかり、じっくり、ねっとり癒してやるからなっ……!」
「やり過ぎないように気を付けないとな!」
「気持ち悪いです」
「いずれはサユキちゃんの心の闇も、俺が払拭させてみせよう!」
「なんの話をしてるんですか」
「だから今はまだその傷が癒えるときまで、いくらでも待とう」
「話聞いてますか?」
「その時までは俺が君を守ると約束する」
「……はぁ」
まるで会話にもならないことに沙雪はあからさまにため息を吐くが、シルファはそれを気にすることもなく、ひどく瞳を輝かせてやたらと派手なジェスチャーを交えて語りを止めない。それはどう見てもミュージカルそっくりで、気付けば歌い出してダンスをし出しそうな雰囲気を醸し出している。
まるで場違いな様子に沙雪もこの舞台から早々に立ち去りたいと考えてはいるのだが、どうにもシルファは沙雪をヒロインに選びたかったらしい。
シルファは呆然としている沙雪の前で傅き、沙雪のものよりも更に一回り小さい手で沙雪の手を取る。そのまま沙雪の手の甲に唇を寄せ、口付けを交わす。手の甲を何かが這いずり回る感覚を覚え、沙雪は咄嗟に手を引いた。気色の悪い感覚が未だに残っている。シルファの残した唇の水分がてらてらとその甲を彩るかのように光を拡散し、その見た目の気持ち悪さからも逃れるように必死にスカートで手を拭う。例え手の甲が真っ赤になっても、プリーツが見るも無惨な姿になっても、沙雪はその行為を止めることをしなかった。
沙雪のその行為を見て、シルファはこっそり、しかし大胆に舌なめずりをした。瞬間、沙雪の背筋を言いようもない怖気が走った。
「たとえ命が尽きたとしても、俺が必ず君を守ろう」
女子高生が一度くらいは夢を見るようなセリフがシルファの口から告げられる。しかしその相手、見た目小学生。そして気色の悪い、得体の知れなさを伴っている。理想の王子様は決して現れることもなく、見事なまでに本能を隠しきれず、至上と言い換えても良いほどに残念な言葉であった。
「はぁ……」
ここで罵詈雑言を繰り出さなかった沙雪の理性は、最悪の選択をしてしまったのかもしれない。