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Shade  作者: 柏木大翔
第一章
6/18

006.マレビト

 時は戻り場所は移る。

「まずは具体的な話を突き詰めようか」

 机の下から姿を表した沙雪にヴェルデはそう話し掛けた。窮屈な体勢のせいで出来てしまった服の皺を一本一本丁寧に伸ばしつつ、ヴェルデの言葉に浮かび上がった疑問を問いかけようと沙雪は顔を上げる。

「……先程のにゃーさん? はどうするんですか? 放置してても問題ないんですか?」

「うっ……」

 痛いところを突かれたとでも言いたげに、その問いにヴェルデは露骨に怯む。あえて忘れようとしていたのか、何処か居心地の悪そうな表情をしていた。

「さすがに何も考えていない、なんてことはないですよね?」

「それはそうだけどね」

 ヴェルデの表情はさほど明るくはない。考えてはいるが、あまり思わしくはないようだった。

「ただそこは俺らの解決する部分。まずはサユキちゃんにはあんまり気にしないでもらって、サユキちゃん自身の地盤を固めることに専念して欲しい」

 沙雪の質問に明確な答えを出すことを避け、ヴェルデは沙雪に向かってそう言った。

 餅は餅屋、と言うように人には得手不得手がある。当然沙雪に冴えた交渉術があるわけでもなく、かと言って妙案を提示することもままならない。故にここは素直に従う以外の選択肢は存在しない。

「分かりました、そちらはお任せします。ではまずはどのような約束……この場合は契約ですかね? を結ぶかの確認をしましょう」

「……サユキちゃんって割りと順応早いよね?」

「そんなことないですよ。私はどうするのが最善か、考えているだけですので」

 もう少し説得に手間取るとでも思っていたのか、ヴェルデは拍子抜けした様子で聞く。しかしそれは正しくはない。別に順応したくて受け入れている訳ではない。どうたち振る舞うのかが最も損益が少なくなるのか、ただそれだけを考えているだけだ。現実を否定することはそれだけで損失を生み出すことくらい、分かってはいた。だから沙雪は順応が早いのではなく、諦めているだけなのだと知っている。

「……話の続きをしましょう」

 沙雪は全てを一緒くたにして嘆息した。

「そうだね。でもあんまり事務的なのも面白くなくない?」

「……面白い面白くないの話ではないと思うのですが」

「チッチッチ、甘いね。甘いよサユキちゃん! それはまるで俺が今日食べたミルフィーユのように幾層にも重なった生地とクリームの異なる食感と温度、そして香りの奏でる――」

「あ、そういう御託はいいので」

 これから楽団を指揮でもしようという勢いで語り始めたヴェルデは、ジト目で沙雪を眺める。折角の語るべき舞台を手に入れたところで差し入れられた唾棄すべき邪魔は、ヴェルデのテンションを天から地へと叩き落とした。

「私は衣食住を提供して頂くと言う目的がありますが、それに対して私がすべきことはありますか?」

 ねっとりと絡み付くような視線を無視して沙雪はサバサバと、あるいはバサバサと会話を突き詰めようと進める。

「……何ですかその目は」

「べっつにー?」

 返答がなくてやむを得ずに絡んだと言うのに、返ってきたのはこの態度。面倒だという感情を押し殺しつつも、ふと思い付いたようにヴェルデと同じ目をして睨み返す。不意に始まるジト目の応酬である。

 ヴェルデは一瞬面白いものを見た、とでも言うような表情を取った後、再び同じ表情へと回帰する。そしてそのまま始まるにらめっこ。確かに幼少の頃ならば遊戯として頻繁に行なっていたであろう行為も、この歳ともなると滑稽を通り越えてマヌケだ。それでもこの行為を止めないのは何かの意地なのか――


 はたと気が付いた沙雪の目の前に、ほんの身動ぎでもしてしまえば触れそうなところに唇があった。

(ううううあああああうあ!?)

 咄嗟に取る行動。それは目の前の異物を排除することだった。つまり分かりやすく表現すると、沙雪の平手がヴェルデの横っ面を捉えた、ということになる。

 パッシーンと小気味のいい軽音が響いた。あまりにも見事に鳴ったものだから、沙雪もヴェルデも一瞬の沈黙を隠すことは出来なかった。

「……」

「……」

「……謝りませんよ?」

 一言だけ、沙雪は呟く。心の底では悪く思っているために、浮かべる表情はやや苦虫を噛み潰したようなものに近い。

 対するヴェルデは沙雪と違い今しばらくの硬直を必要としたが、その硬直は唐突に解けたかと思えば今度は突然肩を震わせ始めた。

「あ、あの、ヴェルデさん?」

「……くっ、くくくっ」

 沙雪の耳に噛み殺した息が漏れ聞こえる。どうにもそれは怒りに身を震わせている訳ではなく、笑いを堪えているものだと気が付いた。

 ああ、からかわれていたのだ、と沙雪は気が付いた。だから本気で申し訳ないと思っていた気持ちが霧散していく。むしろもう一度かましてしまおうかという心地にすらなるのだから不思議なものだ。

 スッと右手を再度掲げる。今度こそヴェルデは驚愕の顔を晒す。それに満足したものを覚え、ゆっくりと右手を下ろす。

「話、するんじゃないんでしたっけ?」

「……そうだね」

 してやられた、とでも言いたげな表情のヴェルデ。いったい二人は何と戦っているのか、答えは当人のみぞ知る。

「じゃあ俺たちがサユキちゃんに望むものが何か、という話からしようか」

「お願いします」

 コツコツと右へ左へ、ヴェルデは忙しなく足を進める。何の意味もない行為であるが、少なくとも意図はある。ただそれが沙雪には分からないだけで、鬱陶しいと思ってしまうのも仕方がない。

「第一にサユキちゃんには隠れていて欲しい」

「それは分かってます。でも要求ではないですよね? それは条件です」

「そうだね。それじゃあ簡潔に言わせてもらうと、名前を貸して欲しい」

「名前?」

「そう、名前。と言うよりは、【マレビト】ってところかな」

 ヴェルデは沙雪に向かってウインクを一つ。癪に障るがあえて無視をする。どうせまたからかいの行動だろう。

「……宗教の部分ですか?」

 その言葉にヴェルデは頷いた。

「【マレビト】の名前を笠に着たい団体があるって言う話があったよね?」

 首肯。

「俺たちはそれを強硬派って呼んでる。強硬派はにわかに力を持ち始めていてね。支持する信者の数も次第に増えていってるんだ」

「……つまり抑えの効くうちに【マレビト】の名前でその一派を掌握する……?」

「その通り。ただ補足するとすれば、そこまで大袈裟なことじゃないってことかな。力のある主要な人間に唾をつけておく――そんなところかな」

 なるほど。これは沙雪にしか出来ない役割だ。異なる世界からやって来た人間、【マレビト】。その神の遣いの言葉を無視することを吉とはしないだろう。

 だがしかし、それではヴェルデの匿われて欲しいと言う言葉と矛盾するのではないか?

「それじゃあ匿う意味がないんじゃ? 姿を見せないと強硬派の意思も統一とか取れなさそうですし」

「いや、サユキちゃんには王族にだけ会って貰おうかなと」

 ――王族。日本での生活ではまずほとんど耳にすることもない言葉だ。精々イギリスのニュースが流れてくる時にでも僅かに耳に挟むくらいだろうか。脳裏に過るのは豪華絢爛の生活をする人間の姿だ。

「まずは王族に会って貰って、表舞台に出るつもりはないってことを宣言してもらう」

「王族にだけですか?」

「そう。別に他の人間には話す必要はない。噂話っていうのは勝手に広まるものだからね。あとはサユキちゃんの意思にそぐわない動きをする人間を炙り出す! ってところかな」

「基本的に私は挨拶をして大人しくしてる、ということですか?」

「そう。匿うって言うのはサユキちゃんを手に入れようとする動きから逃れるため、と考えて貰っていい」

「……なるほど」

 かなり大それた話だ。王族に強硬派に宗教。国家を一つ揺るがすような事態に違いない。そしてその震源地となるのは沙雪、【マレビト】だ。

 実感が今一つ掴みきれないのも仕方のないことではある。日本で過ごしていた一個人が携わるような話ではないのも確かだ。夢だと言われてしまえばなるほど納得するしか仕様はないだろう。

「正直に言うと、全く現実感がないです」

「大丈夫。身の安全は俺たちが保障するし、サユキちゃんは足を高くして待っていればいいよ」

「はぁ……」

 浮き足だった思考の中、その言葉に激しく信頼することが出来ないと心底思った。ちなみに足を高くして寝ると、足のむくみが取れやすくなったり、朝の立ちくらみがなくなったりするのだと云う。尤もこの場面においてヴェルデの言葉はそんな健康に気を使ったものでもないだろう。あえて沙雪は無視をする。

「要は挨拶を済ませて寝て待てってことですか?」

「その通り!」


 ここで一度沙雪は頭の中でヴェルデとの会話を整理する。リスクとリターンを天秤に載せる。安易に飛び付くのは最も愚かな行為だ。

 もしこの話に乗らずにいる場合はどうなるか。

 国家を揺るがすような大事に巻き込まれることもなく、【マレビト】である事を理由に祭り上げられる事もそうないだろう。何よりもヴェルデやアークといった人間の監視下に置かれることはない。ヴェルデが嘘を言っているようには思えないが、しかし今語られた言葉が全てなわけでもないだろう。秘した内心を計ることが出来ない以上、万全の信頼を置くことは許されない。

 その引き換えに沙雪は見ず知らずの世界へと放逐され、そこで雨風を避けられる場所を探し、安定した食事と水を取得出来る環境を見付けなければならない。バイトをしたこともなければ、一人暮らしをしたこともない。物価も分からないし治安がどうなっているのかも不明だ。もしかすれば幸運にも人優しい住み込みで働かせてくれる人間がいるかもしれない。ただし出身も人種も不明の人物を心優しく迎えてくれる人物がいるのか。社会の常識すら持ち得ない、そんな人間を無償で信じてくれるような人間が。


 では逆にこの話に乗ったとすると。少なくとも衣食住は保証される。ヴェルデの言葉を信じるのであれば、だが。それに社会の常識というものにも触れることは出来るだろう。しかし強硬派やアーク側の勢力次第ではそう易々と安穏とすることも出来ない。もしも力関係が圧倒的にあちらに有利であれば、沙雪はなす術もなく捕縛されることになる。強硬派に反意を示してしまっている以上、厚待遇は望むべくもない。

 そもそも情勢を理解していない状態でどちらに肩入れすべきかなど分かる筈もない。


 では第三に強硬派に付くというのはどうだろうか。少なくとも【マレビト】ということでそう悪い扱いは受けないだろう。衣食住付きに御神の遣いと云う待遇。しかしこの一派はヴェルデの言う通り現在拡充しているために目を付けられているという状況だ。

 更には先導として政財界に巻き込まれ、宗教戦争の傀儡となることは必須だろう。ヴェルデの言った通り、沙雪個人の意思とは強硬派の思想にとって邪魔なものに過ぎないだろう。それでは物言わぬ人形の方がずっと有用(・・)だ。


 一通りの思案を終えた沙雪はちらとヴェルデの様子を窺った。コツコツと靴底の奏でる音が耳へと届く。ヴェルデはあえてそうするように沙雪を一顧だにしない。

 本当ならば何も言わずに拘束が出来る筈なのに、こうして沙雪の意思を尊重してくるヴェルデのことを、確かに信じて良いのかもしれないと沙雪は思った。

 ――どうせなら、何も言わずに勾留してくれればいいのに。言い訳の利かない事態であれば理由も責任も不要なのに、沙雪はそう零さずには居られなかった。

「……ヴェルデさんたちのお世話になります」

 深々と、お辞儀。その迫力に押されたようにパタパタと忙しなく右往左往していたヴェルデは足を止め、沙雪がしたように頭を下げた。

「いや、でもサユキちゃんが素直にこちら側に付いてくれるって言ってくれて良かったと思うよ」

「え?」

「俺もさ、別に嫌がる女の子を無理矢理従わせる趣味はないし? やっぱりそういうのは合意の上っていうのが理想でしょ?」

「ちょっと待ってください」

「何かな?」

 ヴェルデの顔はとてもにこやかだ。極上の笑みとも言い換えて良いかもしれない。まるで初めからこの結末が予め決められていた事を知っていて、物語がその通りに動いたことに満足しているようで。だから沙雪は苛立つ。棘立つ。

「初めから選択肢は無かったってことですか……!?」

 呆然としたような、怒りを噛み殺したような表情の沙雪。だったらたった今の思案とは? 一瞬の逡巡とは何だったのか? 沙雪の声に熱が籠りかけるのも已むのないことだった。――最初から無いものなら、期待をさせるな……!

 一瞬ヴェルデは意味ありげに口角を吊り上げた。続く言葉を紡ごうと薄く唇を開きかけたところで急に目を瞑り、顔を歪ませる。

「へっくし!」

 今までの問答が茶番であったかのようなまるで締まりのないくしゃみに、沙雪の頭の血が急激に(くだ)っていく。冷静さが舞い戻る。そうだ、激昂してはいけない。噛み砕け、飲み干せ。

「唾」

 予想以上に冷静な声が出たことに沙雪は安堵した。単語なのは、もしも発言に失敗した場合でもヴェルデに感付かれにくくするための小細工だった。尤もそれは今回に於いては杞憂だったらしい。

「うわ、単語で酷い」

 ヴェルデも沙雪のその返しに苦笑を浮かべていた。先程の嫌味がかった笑みはどうしたのか、それは須く幻惑であったとでも言いたげに嘘っぱちの微笑の仮面が張り付いていた。

 単語のみで言い切った結果、声の表情とも相まって発声した本人の想像以上に冷淡な反応ともなっていた。

 それでも不快を顔に浮かべないのはヴェルデだから出来たことだろう。しかし、だからこそ腹に一物抱えた裏があると断言することが出来る。

「サユキちゃんと遊ぶのも良いけど、そろそろ真面目に話をしようか」

 先にふざけたのはどっちですか、と言いかけて口を噤む。どうせそれを言ったところで何かが好転するわけでもないし、逆に同じループを延々と繰り返すだけだ。確かにそこに何らの意義を見出だすことが出来れば話は別だが、そう安易に旨い話が転がっている筈もない。それが分かっているのだから、沙雪は不承不承といった様子で肩を落とす。

「……そうですね」

「ありがとう。まずは分かっていて欲しいのだけど、監禁とは違うってこと。ある程度の自由意思は尊重されるし何らかの罰則がある訳じゃない。流石に行き過ぎた行動は抑制させてもらうけど極力サユキちゃんの思うようにさせてあげたい」

「それは嬉しいですね」

「流石に『強硬派に付けば良かった』なんて言われない程度には丁重に扱わせて貰うよ」

 フフッとヴェルデの口角が軽く上がる。なるほど沙雪の存在がいかに重要なのかその言葉で分かるというものだ。

 今の沙雪はヴェルデたちにとっては切り札であり、同時にウィークポイントでもあるのだ。いざとなった際に沙雪に裏切られてしまえば、戦況も一瞬で逆転してしまう。そのために沙雪の機嫌を損ねるということもそうないだろう。裏を返せばその時(・・・)までしか沙雪の安全は保証されないということだ。

 期限は強硬派が穏健派に抑え込まれるまで。その時までに沙雪は自身の身の振り方を考えなければならない、ということだ。最初から最後までアークやヴェルデを信用できるに越したことはない。もしそれが適うのであれば何かを考える必要もないし安寧に享楽を甘受することが出来る。

 しかしそれではダメ(・・)なのだ。それでは手遅れ、あるいは繰り返しに過ぎることになる。過去から逃げてきた昔の自分と一滴たりとも代わり映えしない。

 ――変えなくちゃ、変わらなくちゃという強い意識が沙雪の中に生まれる。

(考えることを止めるな。私は変えるためにここにいるんだ)

 沙雪が強くそう想ったとき、その感情がフィルターにかけられたように薄くなって遠ざかり、その他の今の感情の雑多な声に埋もれていくのを感じ取った。急激に冷めていく熱に冷静という感情を見付ける。何はともあれ、今はこの現状をどう解釈するのが最善かを考えなければならない。

 ひとまず一つの山に対する立ち回りを終えた沙雪から自然と力が抜け落ちる。話は全て終わったわけではないが、それでもこの達成感や心地好さに浸っていたかった。生きられることを保証され、生物的な本能からも安堵の息を漏らさずには居られなかった。だからだろう、それが最も効果的にもたらされたのは。

 ヴェルデは安堵しきった沙雪に対して口を開き、事も無げに言い切った。

「じゃあまずは服を脱いで」

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