004.にゃー
「一区切り、付いた?」
「うわっ」
「……その反応はなに」
「なんでもないです」
完全に存在を忘れていた、とは言えない。嫣然と微笑んで無理矢理に会話を終息付けようとする。
「なんでもないです」
言葉を更に重ねて否定するのも追及の手を振り払うためだ。だから頭に伸びかけてきた手を叩き落としたのも偶然ではなく必然であった。叩かれた痛みを宥めるためか、ヴェルデはその手の甲を撫でさすっている。やや不満があるらしいことを、その表情が如実に語っていた。
「……なんか分かってきたね」
「もう二回もされてますから」
ハアとこれ見よがしにヴェルデがため息を吐く。
「やっぱり可愛くない」
「可愛くないことくらい知ってますよ」
「あー、そう来たか……」
ヴェルデの言葉が何を意味しているのか沙雪には捉えきれない。何処か呆れに似たニュアンスを感じとり、反論の言葉を思い浮かべる。だがそれも使役されることはなく封殺された。
「『ニッポン』、だっけ?」
急な話の転換に一瞬沙雪は置き去りにされる。そう言えば何処から来たのかという話の途中だった、と思い出す。
「そうです。私は『日本人』です」
「『ニッポン』に『ニッポンジン』か。……うん」
沙雪の答えに何度も確かめるように頷く。
「やっぱり聞き覚えないね」
「それじゃあ『Japan』とか『Japanese』とかはどうですか?」
「うーん、それも無いね」
"日本"という言葉にも聞き覚えはなく、英語でも通じない。首を傾げるばかりで肯定の言葉を聞くことはできない。
「ここは『ホブティマティ大陸』中央部に位置する『ガルフィア王国』。サユキちゃんは地理は分かるかな? その『ニッポン』が何処に位置するのか分かれば教えて欲しいのだけれど」
「位置は『ユーラシア大陸』の東方、『日本列島』です」
「『ユーラシア大陸』に『ニッポン列島』か……」
その微妙な表情からヴェルデの思考が読み取れる。ここで恐らく返ってくるのは『知らない』というニュアンスの言葉だ。
しかしどうしてヴェルデは『日本』を知り得ないのか。百歩譲っても『ユーラシア大陸』くらいは分かっても良いのではないか。あるいはヴェルデに地理の知識が皆無なのか。だが沙雪にとっても『ホブティマティ大陸』も『ガルフィア王国』なるものも、一切の聞き覚えはない。余程の辺境なのか、あるいはとうの昔に廃れた幻の大地なのか。
ムー大陸、あるいはアトランティス。かつて隆盛を極めた古代文明。――ファンタジーだ。夢を見すぎている。そう鼻で笑うことは簡単だ。けれど目の前で起きていることはそう切り捨ててしまっても良いのだろうか?
――異世界。
唐突に思い浮かぶ単語。そんな言葉を知っていた自身に驚愕する。
異なる世界、異世界。考えてみればそんな言葉、日常生活では使ってみたこともない。使ったことがあるとすれば”別世界”くらいのものだろう。普段とは違った景色のことを”別世界”と呼ぶのは時折あることだ。ニュースでも雪の降った翌日には定型文のように用いられていた。
では”異世界”とはどういうものなのだろうか。文字通り違う世界、地球ではない何処か。比喩の仕様のない相違なる世界の事だ。
つまりここは沙雪のまるで知り得ない世界であり、今までの常識が通用しない世間であり、今までの過去がなんの意味も持ち得ないはずの世上なのだ。
どうしてか背筋に寒気のような電気が走った。
「大丈夫?」
今の問答と沙雪の微細な動きに気が付いたヴェルデが沙雪に声を掛けた。気が利く、とはつまりこういう事なのだろう。
「いえ、ちょっと変なことを考えてしまって……」
「変なこと? まさか自殺なんて言わないよね」
「いえ、そういうのとは全然違うんですけど」
「じゃあ何を考えたの?」
覗き込んでくる瞳には一点の曇りもなく、正面から沙雪を見つめている。騙ることに意味はなく、語ることにしか価値はない。真摯な態度。例えその裏に真意を隠していても、ヴェルデの沙雪を慮る気持ちは嘘ではなかった。
「私は……そうですね、異世界から召還されたんじゃないか。そんなことを考えてました」
「異世界から?」
ヴェルデは顎に手を当て、思案する。沙雪のその答えを咀嚼するように、そして瞑目しながら思考の海に漂うようにしてから、ゆっくりと目を開いてヴェルデの瞳は再び沙雪と邂逅する。
「なるほどね」
それは否定でもなく嘲笑でもなく、素直に受け入れたという意味の言葉だった。荒唐無稽で夢物語のその話を信じるのだと云う。
「こんな与太話を信じるんですか?」
「サユキちゃんがホントだって言うならね」
「……私なら信じませんけど」
沙雪の皮肉気味の言葉にヴェルデは苦笑する。それもそうだ。話し出した本人がそれを信じていないのでは話にもならない。そこで話が終わってしまえばこれはただの戯言だ。
「信じたくはありませんが、それが一番納得のいく理由なんです」
当然そこで話が打ち切られることはない。戯言で終わってしまっては困るのは沙雪もヴェルデも同じ。続けざまに沙雪はケータイをヴェルデへと差し出す。
「これは?」
ヴェルデはそれを訝しげに受け取り、まじまじと角度を変え、視点を変えて眺める。その様子はまるで子供に玩具を与えた時のようで、思わず沙雪の口から笑いが零れそうになる。
(全くこの人は)
フッと息を溢し、冷静さを取り繕う。いつまでも関心を持って見ていられると流石に話に差し障りが出てしまう。無邪気に戯れるヴェルデに向かって沙雪は声を掛ける。
「それは私の世界で発展している技術の一つ、”携帯電話”です」
「ほー。不思議な形をしてるね」
沙雪との会話をしつつ、ヴェルデの視線はケータイに釘付けだ。ケータイの隙間を見つけ、そこに軽く指を挟みこむと、バネ仕掛けが働き一気に内面が開く。その挙動にうわっ、と驚愕の声を上げてヴェルデは一歩後退った。
「話、ちゃんと聞いてくださいね」
沙雪はヴェルデの視線を遮るようにケータイをわっしと掴み、その視線がしっかりと自身の方へと向かったことを確認する。
「……わかってるよ」
ばつの悪そうな苦笑。どうしてこう、男は機械が好きなのだろうかと同級生男子の会話を思い出しつつ、ヴェルデの手から優しくそっとケータイを抜き取った。ヴェルデはどことなくもの寂しげな、物欲しそうな目をしていたが、沙雪は見なかったものとしてケータイを鞄にしまい込む。
「まずは検証をしましょう」
「検証?」
「はい、確認と取って頂いても構いません」
そう言う沙雪にヴェルデはこっくりと頷いた。
「する必要もないと思いますが、この国、ひいてはこの世界に”携帯電話”というものはありますか?」
「いや、聞いたこともないね」
やはり返ってくるのは否定の言葉。それは沙雪の意図した『確認しなくても』の部分に合致する。
「では質問を変えます。『イエス・キリスト』あるいは『ジーザス・クライスト』またはそれに似た言葉を知っていますか? これは神の子と言われているのですが」
「うーん、今度は神の話か」
「……それで答えは?」
「ああごめんごめん。答えだけなら『知らない』になるかな」
「そうですか……」
流石に自国の存在を知らないだけで異世界だと断言するほど自惚れていない(それでも世界的には良くも悪くも有名だと自負してはいる)が、キリストの名を知らないという問答は流石に信じられぬものがある。たとえ当該宗教に属していなくても、世界の歴史から鑑みれば聞いたこともないというのはほぼありえない。つまりここでは『キリスト教』は存在しない可能性が非常に高い。それはそのままここが『地球』ではない、という可能性と結びつく。しかし、そんなことがあってもいいのだろうか。根拠は? 理論は? 原因は?
「もしかするとサユキちゃんは【マレビト】なのかもね」
図らずもその答えは直後にヴェルデの口から語られることになった。とは言っても、すべてが語られるわけではなかったが。
「マレビト……?」
その言葉は聞き覚えがある。確か精霊の遣いだとか、神の食客だかそう言った類いのものだ。つい先日の過去問題集で出ていた小論文を思い出す。
「【マレビト】って云うのはこの世界にいるこの世界の人間ではない人のことを云うんだよ。そしてその人間は神様によって召喚された遣いとして扱われるんだ」
ヴェルデの言葉は沙雪の思考を肯定するものであった。異世界に召喚されたもの、【マレビト】。今の沙雪の立場はそれに分類されるらしい。
「つまり神の遣いであるサユキちゃんは歓待されるべきなんだよ」
神の遣いという言葉にむず痒いものを覚える。まるで神聖なるもののような扱いを受けるというのは、やはり一般的な日本人である沙雪にとって畏れ多いものであり、過度な対応というものであった。
「私、神の遣いなんかじゃ……」
「分かってるよ」
否定の言葉を吐こうとする沙雪のその先の回答を、ヴェルデが先回りして封じた。それは不安を覚えている沙雪を諭すようなものに近い。そのヴェルデの心遣いは適切なものであり、沙雪はそれにイラついた。
「本当は丁重に扱ってあげるのが正しいけど、正直言ってそれはお勧め出来ない。サユキちゃんにとっても、俺たちにとっても……ね」
「どういうことでしょうか?」
「今はとにかくサユキちゃんには隠れていて欲しい。いや、匿わせて欲しい」
「匿う? それに理由を聞かせて貰わないと――」
「そうだね」
ハハッと軽快に笑いながら沙雪の言葉を遮り、ヴェルデのその口から理由が語られる。
「神様信仰と云うのは実に厄介でね――」
「ああ、なんとなく分かりました」
本来あとに続くはずの言葉を遮って沙雪は口を挟む。それは先ほどヴェルデがした行為の模倣、あるいは反意の意だ。
ヴェルデはそれに気を悪くすることもなく、次に沙雪が何を語るのかを見極めようと、興味津々とでも言い表した表情で見つめている。それは生徒に答えを要求する教諭のようなものだ。
「私が祭り上げられる事を懸念している。神という依代を基に動こうとする母体があるんですよね?」
ヴェルデはそれに驚くこともなく、満足げに頷いて沙雪の言葉を肯定した。
「そうだね。サユキちゃん本人は祭り上げられて最後は薬漬けってこともあるだろうし、宗教でも拮抗状態が崩れて戦争、って可能性もあるからね」
沙雪は薬漬けにされて一切ものを考えなくなった自身を想像し、ぶるっと体を一震わせした。
「……想像もしたくない未来ですね」
「俺もそう思う」
ヴェルデは微笑みかけるが、それは断じて笑い得る未来などではない。その微笑とはそのような未来など決して歩ませないとでも言う自信の表れなのだろうか。どうせ碌な思考はしていないのだろうと沙雪は結論付ける。
「サユキちゃん、どうだい? 俺たちは君に衣食住を提供する。身柄は保証する。その代わりと言ってはなんだけど、匿われてくれないかい?」
「一応聞いてくれるんですね」
「お互い同意の上って方が気持ちいいと思うけど?」
「そうですね。元より頼る当てのない身です。是非ともお願いします」
「任された!」
ドンと強く胸を叩き、そして同時にむせ返る。どこからどこまでが本気なのか本当に分からない、と沙雪は再び実感するのだった。
「それじゃあ前途多難ですよ」
「かたじけない」
そう言ってヴェルデは細やかに笑う。全く悪びれた様子もない以上、それはおふざけに違いない。子供じみた所作は流石に鬱陶しく呆れるばかりだ。けれど何故だろうか、それに少し救われる部分があるのもまた確かだった。
ふと沙雪は鞄のあたりにちらちらと向けられる視線に気が付いた。鞄を左右させるともれなくその視線も付いてくるようで、そのまま睨み付けるようにしてヴェルデを威嚇する。実は今まで気もそぞろに会話していたのではないか、という疑惑が頭を過る。
「うえっ、そんな表情しないでよ」
ニコニコと機嫌を取るようにヴェルデが宥めてくる。媚びたその態度に、しかし何故か嫌味は存在しない。それが逆に小憎たらしくもある。
ひとまず軽い交渉も済んだことであるし、玩具を与えることも吝かではないと考えた末にケータイを取り出す。
にわかに表情が明るくなるヴェルデを見て取り、やはり苦笑を隠しえない。そのままケータイを投げてみたいとも考えたが、流石に空中でしっかりとキャッチしてくれるという保証もなかったため、しぶしぶと言った様子でヴェルデの手にケータイを乗せる。
早速それを弄りだそうとしたヴェルデにふとある光景を思い出し、沙雪はそのまま実行に移すことを決めた。
「待て」
「え?」
ケータイを手に持ったまま硬直するヴェルデ。なるほどこれはまさに愛玩犬と玩具と表現するに相応しい光景だった。ちらちらとケータイに視線を配りながらもヴェルデの視線は沙雪へと向けられ、その言葉の意味を待っているようだった。次第にそわそわした様子を隠せなくなっているのが分かり、沙雪は満足げに「よし」と言ってやった。
首を軽く傾げつつ、ヴェルデは再びケータイとの戯れを開始した。
「ねえサユキちゃん、この”ケータイデンワ”って言うのはなんなの? 何かを調べたりする機器なのかな?」
「文字通り携帯出来る電話です」
「”電話”?」
(ああ、そこから話をしなくちゃいけないのか)
目の前に餌を吊り下げられた子犬のような表情をしたヴェルデを見て、沙雪は肩を大きく落とした。どうも一から尽く解説してやらないといけないらしい。
「”電話”と言うものはですね――」
「シッ」
教師の如く説明を開始しようとした沙雪の口上は直ぐ様に遮られた。どうしたことかとヴェルデの表情を見つめるが、その表情は硬さを感じさせる。
「ヴェルデさ――」
「ごめんサユキちゃん、そこの机の下に隠れて」
有無を言わさぬその言葉にただ事ではない何かを感じ取り、軽く首肯するだけで沙雪は執務机の下に隠れた。ちょうど扉に対して影になっているため、扉から入室した者に対しては沙雪の存在は視認出来ないだろう。
少し緊張した様子で息を潜める。ややも早くなった鼓動が自身の緊張を訴えかけていた。執務机の狭いスペースに籠ったことによって狭まった視界は、見えない範囲をそれ以外の感覚が補うことで虚像を結ぶ。
コンココンコココン、とリズミカルに扉をノックする音。続けて、
「にゃーですにゃ」
とこれまたふざけた挨拶が飛び込んでくる。
「にゃーさんか」
ヴェルデの小さな声が沙雪の耳にも届く。緊張感に全くそぐわない空気に、思わず安堵して顔を出したくなる衝動が湧き起こる。しかしヴェルデの許可も出ていない以上、身勝手な行動を起こすわけにもいかず、代わりとばかりに耳に全神経を集中させた。
「どうぞ」
ヴェルデが入室を許可すると、そこから入ってきたのは人間と称していいものか得体のしれない者だった。
二足歩行。それは確かに類人猿が地上で生活するために取得した技能である。では今現在、ヴェルデの前に佇んでいる存在はどうか。
手持ち無沙汰なのか右手で頭を撫でつけているが、その相貌は完全に猫のそれであった。そして右手も同様、びっしりと生え揃った見事な毛並みと愛くるしい肉球を臨むことが出来る。タンクトップのような服装をしているため、その毛並が肩口まで覆っていることが視認出来る。そして丈は短く、大胆に露出した腹部が。そこは手や腕とは大きく異なり産毛程度しか生えておらず、適度に筋肉の付いたくびれを見せつけている。下はピッシリとしたパンツを履いており、長靴にも似たブーツで完全にその姿を覆い隠している。そして臀部の位置からは、一本、にょっきりと生えた尻尾が踊っている。
「何をしに?」
「ちょいとタイチョさんに用があってにゃ」
「アークなら丁度戻ったところだ。入れ違いになったかな?」
「にゃんてタイミングの悪い……」
よよよ、とよろめく姿は演技ぶったものがあるが、その見てくれもあってかコメディの一端そのものだった。そこでその猫人は何かに気が付いたようにヴェルデを正面から見据えた。先ほどの表情から打って変わり、真剣な表情をしている。
「女の匂いがするにゃ」
ドクンと心臓が跳ねた。まさか匂いで気が付いた? 沙雪はその声に怯えに似た何かを覚えながら祈るような気持ちでヴェルデの返答を聞いた。
「セリアが俺のところに来てな。『あたしのミデュヴィーユ、食べたっしょ!』って泣きながら怒り狂ってた」
セリアの物真似でもしているのか、甲高い声でヴェルデがそう言った。そこには微塵も動揺したものはなく、偽った本人すらも何が嘘であったのかと疑いたくなるような流暢さで答えた。
「ハハ。セリアらしいにゃ。まーそれが可愛らしいところにゃんだが。でもあんまり苛めすぎちゃだめにゃよ? あんまりオイタが過ぎるようにゃら、にゃーも見逃せにゃいよ?」
「分かってるよ」
お手上げポーズでヴェルデはそう言う。本気でそれを言っている様子を見るに、ヴェルデはこの猫人に対して頭の上がらない部分でもあるのかと想像させる。
「あんまりフクタイチョもサボるにゃよ?」
「分かってるって」
シッシッと手で振り払うようにして答えれば、その猫人はやれやれとばかりに尻尾を右から左へと振って頭部の耳をぴくぴくと動かした。
「それじゃあにゃーは戻るにゃ」
その言葉と同時に踵を返し、「あーあ、無駄足だったにゃ」と呟きながらもピッピッと一挙手一投足すべてきびきびした動きで扉へと歩き出す。そのまま素直に部屋を出ていくかと思えば、猫人はフリーズしたかのようにぴたりと立ち止まる。
尻尾が左右へとゆっくりと揺れている。それは一定のペースを保ち、まるでメトロノームのようにリズムを刻む。それでこの猫人は故障したわけではなく、自らの意志で立ち止まったことが分かる。
「にゃーに言わせてもらえば、隠し事なんてしない方がいいと思うにゃよ?」
ビクリと沙雪の体が跳ねた。執務机が沙雪の体を覆い隠している筈なのに、嘲笑うかのようにその視線が沙雪を貫いていると確信出来た。
「じゃにゃ」
そう一言残し、猫人は部屋を立ち去った。後に残るのは水を打ったような沈黙。
「分かってるなら最初からそう言えよ」
ヴェルデの悪態が一滴、静まり返った部屋に零れ落ちて波紋を広げた。