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Shade  作者: 柏木大翔
第一章
2/18

002.世界は貴女を拒まない

 落ちてゆく。落ちてゆく。すべての感覚が薄い布一枚の向こうにあるかのように鈍っている。

 落ちてゆく。底のない沼に沈んでいくように緩やかに、落ちてゆく。


 不安はない。なるがままに、なるように。ただただ身を任せて脱力する。そうすることに一切の疑問はない。


 ――遭いたい。


 不意に湧き起こる衝動は沙雪の口を衝いて出た。この空間ではそれは一切も言葉にもならず、響くことさえない。それでも沙雪はそれを口にせずにはいられなかった。そうすることが当然で、そうしなければ張り裂けてしまいそうで、どうしても口にせずにはいられなかった。感覚は鈍っているというのに沙雪は頬を伝わる涙の感触を明確に感じた。どうして自身が泣いているのか、理解することは出来ない。見知らぬ自分が、存在しないはずのもう一人の自分がそうしているかのように止め処なく雫を溢し続ける。

 沙雪の感じていた息の詰まりそうなその感覚、それを慟哭と云った。


 ――落ちてゆく。


* * *


 瞼の裏からでも刺すような陽光を感じ、手を翳しながら沙雪はゆっくりと上体を起こした。頬に冷たさを感じてそこに手を当てると湿った感覚。

「何……? 涙……?」

 覚醒してゆく意識。巡る思考回路。思い出すのはビルの合間に浮かんでいた発光体であった例の卵。しかし、現在沙雪はそれを掴んでも抱きしめてもいない。沙雪が遭遇したものは手元には残らず、ただ記憶の中に残るのみ。次いで思い出せるのはほんの指先に触れた暖かさと誰のものかも分からない掌の感触。自身の掌に残った感触を確かめるように沙雪は優しく手を開閉する。すると残滓はすぐに立ち消え、くうを掴む沙雪の掌のみが残された。たったそれだけで泣きたくなるほどの感情の渦に引きずり込まれるような感覚を覚え、慌ててこうべを左右へ振るう。

(錯覚だ、消えろ消えろ)


「君、こんなところで何してるのかな?」

 慌てて顔を上げると沙雪の傍ら、いつの間に忍び寄っていたのか一人の男が佇んでいた。その風貌は現代で言えば優男とも言え、問いかける言葉は耳に柔らかく届く。

 何よりも目を引くのはその姿格好。その容貌はそうだ、巷で言うところの”イケメン”には間違いがなかった。ただしそれは日本における判断基準だ。沙雪の目の前に立つその人物は深く焦げたような髪色をしていた。それは黒を基準とした毛色ではない。元から茶であることを基調としたものだ。彫りの深さは日本人離れしている。丸みがかった眦はやや幼さを強調しているようにも見える。その印象のせいで相貌からは男の年齢は完全に不詳だ。

 そして瞳。深緑をした瞳は今まで実物をして見たことのない沙雪においてもエメラルドを想像させる。どう見たところで日本人に見える要素は一片もなかった。

 ひとえに外国人だから、と無理やりに納得させることもまだ可能であろう。だが、それ以上に視線を奪うのはその服飾。闇に紛れそうな紺色の服にワイシャツの白が映える。スーツと異なり無駄に多いボタンやポケットは機能性を追求したものなのだろうか。それにしては肩や胸元の装飾が華美に過ぎる。この飾り緒のことは飾緒しょくちょと言ったか、そんなことをぼんやりと考える。その格好は明確な理由があったわけでもないが軍服であると確信を持てた。しかしどうして緩んだネクタイが格調高そうな相好を台無しにしていた。

「だんまりかい?」

「あっ、えっと……その……」

 思わず『ハ、ハロー』と言い出さなかった自身を褒めてやりたい。当然目の前の人物の語る日本語はその容貌に対して完全にミスマッチ。それが更なる思考の混乱を招いていることも確かではある。そのような原因要因はともかく、沈黙とはディスコミュニケーションの代名詞でもあり、印象としては当然最悪なものを与えるものである。沙雪がこうして慌てるのもそのデメリットを熟知しているからとも言える。とは言えど、その困惑を最も引き起こしているのは右も左も、意味も理由ワケも分からない現状であることは言うまでもない。

「今の状況、分かってる?」

「今の状況……ですか?」

 呆れ気味の表情でそう質問される。鸚鵡(おうむ)返しに尋ねるのも已む無いこと。一切の情報が断絶された現状、沙雪が持ちうるのはこの会話から掴みうる憶測のみだ。素直に返事をするなれば、いいえの一言で事足りる。

 しかしここで単純に今の持ちうる情報を公開してしまってもよいものであろうか。いいえのその一言が生み出す未来とは? 思考停止でも許される将来など、そう簡単には嘱望できるとは思わない。沙雪自身を見つめてくる視線の種類は決して友好的なものでないことなど、当に分かりきった事実であるのに。

「君がどうやってここに忍び込んだのかってことだよ」

 言葉は優しい。しかしその視線は鋭く、沙雪の心底まで見透そうとしているかのようであった。

「私はその……えっと……」

 視線が走る。得られる情報はチクチクと素足に刺さる芝と捨て置かれた鞄。傍らに立ち尽くす男に優に背丈を超える煉瓦の壁。

 現状を変えうる有効打を掴むこともままならず、沙雪はただ狼狽えることしか出来ない。それでも次ぐ言葉を発することを要求する現状は変わり映えもしない。

「聞いても無駄かな」

 嘆息。そう言って男は腰を曲げて沙雪の腕をしっかりと掴む。何をするのかと一瞬訝しんだ沙雪の視界が大きくブレた。芝の上に下ろされていた腰が想像以上に力強い力で一気に引き起こされ、そのまま強引に沙雪は引きずられていく。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 思わず出した声は想像を超えて遥かに大きな声であった。それは沙雪が思っていた以上に自身が緊張していた何よりの証左。声を発した本人にとってもそれは驚きを隠し得ないものであった。

「何かな」

 沙雪が駆け足気味で追走しなければならなかった歩みを止め、正面から瞳を覗き込んで男が尋ねる。別に愛の告白をされたわけでもなしに、鼓動が高鳴るのはなぜなのか。

「えと、……違うんです」

「違う? 何が?」

「私は別に忍び込んだわけではなく……」

「忍び込んだわけじゃない? どういうことかな?」

「それはその……」

「つまり何? 何が言いたいの?」

 若干苛立ちの籠ったような強い言葉。思わず体を竦める。

「ねえ、侵入罪ってわかる?」

「侵入罪……」

「そ。悪いことをしたら罰を受けるのが社会の常識だよね」

「悪いこと……」

 意味は違うはずなのにその言葉は耳に痛い。

 男は特に何を聞くわけでもなく、再び沙雪の腕を取って歩き始める。それに逆らうことも出来ず、迷子・・の手は曳かれる。

 壁に沿って歩みを続ける。これからどこへ連れて行かれるのかと言う不安はある。ただその不安に揺られるままになっていることは出来なかった。現状を理解することに努める必要がある。今はどういった状況なのか、これからどういった行動を取るべきなのか、考えるための要素はなくとも思考することだけならば出来る。それが人間に与えられた賜物であるのだから用いないわけにはいかない。そうして沙雪は臭いものには蓋をするように思考に溺れるフリ・・をした。

 まずは警察を呼び出されるのが当然。その後は弁護士を交えて今回の件について示談にするのか裁判を行うのかの検討に入るのであろう。そうすると焦点となるのは沙雪の行動原理となる――と思考したが、根本的な部分に避け得ない問題点を見出して沙雪の考察は振り出しへと戻る。

(そもそもここは日本? この人は日本語を話しているみたいだけど……)

 どうにも日本人離れした顔の造りと奇怪とも取れる服装。逆にどうしてここが日本であると断言できようか。元々日本にいたのだからここも日本であろう、という推測はあまりにも易きに流れ過ぎだ。

(なんで私はこんなところにいるの? あの卵はなんなの?)

 全ての根源となったであろうあの謎の物体X。今更自身の安易な行動を悔いたところで意味があるはずもない。やり直せるならやり直したい、そう願ったところで叶えてくれる神などがいるわけでもあるまいに。

 浅はかであった自身から目を背けるようにして空を仰ぐ。確か数刻前に見たはずの重苦しかった空は厚い雲に覆われ、その陽の光は遮られていたはずだった。今見上げている空はそんな事情を一切忘れきって清々しいまでに青々しい。忘れてしまえよと、誰かが言っているような気がした。


 顔を上げた沙雪に新たな情報が加わった。壁だ壁だと思っていたものは確かに壁ではあった。そこに具体性を加えるとするなれば、それは城壁となるのだろう。

(お城?)

 なるほど視点を変えてみれば、それは城に他ならない。日本城を想定すれば全く以て見当違いとも言えるが、かと言って西洋の高くそびえ立つ塔を想定するのも違う。厚みを重視した重厚な造りとあまり高さを意識しない平たい体高。それでもなぜ城と断言し得たのか。それは煌びやかに瀟洒に彩られ細工の施された緻密な意匠が、そこにおわす存在の権威を指し示していたからだ。美術の教科書で見るような歴史的な不可解な価値を表している。だが何百年とも言えるような古めかしさを持っているわけでもない。所々に見える修繕の痕を伺えば、今もなおその外界との隔絶の役割を果たし続けていることが分かる。

(竜?)

 象られたモニュメントは幻獣を模していた。勝利の女神よろしく力の象徴なのか。祈る対象は常に人智を超えた何かだ。

いたっ!」

 急に足を止めた背中に顔面から衝突する。上を見上げていたことで前方に対する注意が散漫していたのだ。

 男は呆れたような視線で沙雪を見つめる。その視線に居心地の悪さを感じ、視線を地面へと向けることで羞恥の隠匿を図る。

 フッと鼻を鳴らすような音を耳にしたことで沙雪の頬に朱が走る。尚更視線が地面へと釘付けとなる。

「コラァ! 何してんだ!」

 急に飛び込んだ怒声に背筋がビクッと伸び上る。恐る恐る視線を向けるとそこに佇んでいるのはやや目の吊り上った印象のする美人。言わばそうだ、戦姫せんきとでも表現したところであろう。その表情は険しく猛々しい。女性でありながらも修羅を想像させる憤怒のオーラは見るものに畏怖を与える。オレンジに近い朱色の髪を持ち、何者にも染められない純白の服を身に纏っている。それは目の前の男に似た型をしていたが、絢爛な肩章は存在していなかった。

 ツカツカと女性は二人の元へと歩みより、そしてそこで初めて沙雪の存在に気付いて驚愕の表情を浮かべた。

「あら、御機嫌ようお嬢さん」

 まるで先ほどの表情は嘘であったかのように彼女は沙雪に微笑を浮かべる。アルカイック・スマイルは作り上げられた胡散臭いものであるはずなのに、その女性にとっては始めからそう運命付けられていたのではないかと錯覚してしまうほどしっくりと来ていた。だがそれも、次の瞬間には錯覚であったことが判明する。

「おいウェルデ、どういうことだよ」

 そう言って女性は未だに沙雪の腕を掴んでいる男性を睨み付けてそう言い放った。その表情はやはり先ほど窺っていた表情が再来したものであり、その武威を如何なく発揮している。見るものが見ればそれだけで謝罪の言葉を発してしまいそうなほどである。

 さりげなく、沙雪はヴェルデ、とその言葉を反芻する。

「折角人が真面目な表情してるのに、台無しにするのが得意なんだね?」

 だが対するウェルデは満面の笑みで迎え撃つ。その言葉の意味しているものがなんなのか、沙雪にはすぐには判断しかねる。今の表情を窺うに、普段からして微笑でも浮かべているのであろうか、この男性は。

「茶化すなシバくぞ」

 睨み上げるその様態はカツアゲを行なっているチンピラそのもの。ヴェルデと言う男性は凡そ百八十センチほどの身長。対して女性の身長は百七十センチ。百六十にも満たない沙雪からして見れば、どちらも見上げる姿勢になるのは仕方のないことだ。

 見方によってはまるでこれから行なうのはキスであるかのように錯覚しかねない。女性の表情以外は完璧なシチュエーションに違いない。

 しかしそれを行なっているのが美男美女と言うだけでこうもモノになってしまうのか。沙雪はこっそり嘆息した。――行いはただの間抜けな行為なのに。

「はっはっは。セリアちゃん俺を殴ってもいいのかなぁ?」

「ぐっ!」

「殴ったら懲罰だよね? 悪いことだよね?」

「ぐぬぬ……」

「本当に殴れるの? ねえ殴れるの?」

 何がしかの理由があるのか、セリアと言う女性はヴェルデと言う男性を殴ることの出来ない事情があるらしい。ヴェルデはその事情とやらを逆手に取ってセリアの暴力を封じようとしているのだった。それを察したセリアは一瞬の硬直の後、

「かーっ!」

「ボグッ!」

「あっ」

 つい咄嗟に、といった様子でヴェルデの頬を殴りつけていた。しまった、という表情が現状の悪さをいやに分かりやすく表わしている。沙雪もその行動に呆気にとられる。

 その中で一番落ち着いていたのは、殴られたはずのヴェルデ本人であった。

「こいつマジで殴りやがった……」

「ヴェ、ヴェルデが挑発するのが悪い!」

「はあ。……まあいいや。で、何か用があるんだろ?」

 その蛮行をしてその微笑を叩き落とすことは適わない。一体何を考えているのか、底の読めなさが依然として増してゆく。

「あっ、お前私のミルフィーユ食べただろ!」

「え? どうだったかなー」

「知っててその表情なんだよな? そうだよな?」

「覚えてるような、覚えてないような……」

「週に一度の楽しみなのに! 返せ! 今すぐ返せ!」

「返せって言われても、ねえ?」

「『ねえ?』 じゃない! 食ったんなら責任取れ! 責任取って買いなおしてこい!」

 襟足を握りしめて首を縛るようにセリアが力を籠めていく。しかしヴェルデはその行動を一顧だにすることもない。まるで駄々を捏ねる子どもを見守っているようでもある。

「やだよめんどくさい」

 だがそれイコール優しさとはいかないらしく、あっさりと拒絶の言葉を吐いた。これにはさすがにセリアも自身を亡失するかとも思えば、

「食べたってこと否定しなかったな!? 犯人はやっぱりヴェルデだったな!」

「そんな探偵みたいなこと言って……」

 割りと状況を楽しんでいるかのようにヴェルデと言葉のやり取りを繰り返していた。

 推理小説では、発言の矛盾を突いて犯人の証言を得るという手法がかなりメジャーなものとして流通しているが、まさか目の前で見ることになるとは。やや呆れもあるものの、沙雪は素直に驚く。

「だから誤魔化すな! 犯人はお前なんだろ!?」

「はいはい。犯人は俺です。でも買いに行くのは面倒なので行きません。以上」

「バカッ! あれは限定ミルフィーユで一ヶ月以上予約待ちがあるんだよ! それを……それをお前は……!」

 号泣していた。本気で泣いていた。いい年をした女性が、ミルフィーユ一つで本気の涙を流していた。

 犯人を見つけたところで法的な効力がない以上、被害者は泣き寝入りするしかない。この世知辛い現実はどこでも同じなのか。しかし、ミルフィーユ一つで号泣する大人というのもなぁ――

「あだぢの、ミデュヴィーユ……」

「お前殴ったからチャラな」

「ハァ!?」

 号哭から一転、その表情には憤怒が戻る。その表情が向けられれば流石に怯むことも避け得ないだろうに、ヴェルデは余裕綽々と言った表情で相変わらず微笑んでいた。むしろ益々笑みを深めたようにも見えた。

「俺を殴った懲罰……」

「うっ……」

 ぼそりと耳元で囁いた言葉が余程効果的だったのか、セリアの意気が消沈する。それを絶好のチャンスとばかりにヴェルデはだめ押しに一言告げる。

「今回は痛み分けってことで」

「うう……」

「じゃあそう言うことで!」

「……覚えてろよ……」

 負け犬、と云う言葉がこれ程似合うこともそうそうはないだろう。もしもその頭に獣耳が付いていれば、ペッタリと倒れ伏していたことを想像するのは容易だ。完全に敗北した様子でくるりと踵を返し、とぼとぼと歩みを進めるセリア。こちらを一度も振り返らずに――いや、振り向いた。物憂げな、遺恨を残しているような、そんな表情を貼りつけては何度もヴェルデを振り返る。しかし何かをすることも出来ず、結局は無言で立ち去るのが精一杯だ。振り向く回数は流石にしつこいが。

 そんなセリアをニコニコと見送っていたヴェルデの様子がどうにも腑には落ちない。

「……さてと」

 ヴェルデはそう一拍置くと沙雪に正面から向き合った。その表情は真剣さなどそ知らぬ顔で、常に微笑を浮かべることに慣れてしまっているように剽軽で軽率で胡散臭くて締まりのないものだ。

「色々と聞きたいこともあるだろうけど、ちょーっと待っててくれるかな?」

 そう言うと再び笑みを深める。始めの冷たい表情や視線は何だったのだろうかと訝らざるを得ない。先程までの表情と現在の表情が接続できない。それこそ、ミッシングリンクとでも言い表すのが最適なように。

 その訝った表情を気取り、ヴェルデが苦笑を浮かべる。苦笑の意味するところを察してしまい、沙雪はやや羞恥を湛えた顔を反らす。そうすることで思わず見せた浅はかで幼い表情をどうにかして誤魔化そうとする。

「こっちも事情があってね。公私混同、ダメ絶対、ってね」

「はぁ……」

「まあ素がばれちゃった以上隠しても意味ないしこれで特に問題ないよね?」

「私は別に良いですけど……」

「そうなんだよねー。君……あっ、そうそう。名前教えてよ」

 壁に向かって何やらゴソゴソと仕掛けるその様子は、どうにも滑稽と言わざるを得ない。と言うか怪しい。そもそも何のためにそんなことをしているのかと疑問が湧いてくる。そう、その行動を例えるならば、ピッキングを施しているような泥棒の相好というのが最適だろう。

「……何してるんですか」

 あえてヴェルデの問答に答えないのは精一杯の抵抗のようで、そんなことをした自身にさえ呆れ返るしかない。『質問に質問で返すな』とはよく言われるものだが、いやしかし質問で返した側にも苦痛はあるものだと沙雪は物珍しい体験を噛み締める。

 沙雪の心証を悟ってか、ヴェルデは軽く声を漏らして笑う。それが沙雪の苛立ちを誘うのだが、その機微を敏感に感じ取ったヴェルデが慌てて言葉を被せる。

「いやいや、ちょっとドアを開けるだけだよ」

 さて、それが沙雪の気を反らすための文言だとしても、やはりその言葉の意味を理解出来る筈がない。何故ならそこにあるのは煉瓦で組まれた頑強な壁なのだから。一面煉瓦、煉瓦、煉瓦。幾重にも重ねられたそれは容易に人を通す役割を果たすことなど出来るはずもない。

「ドア?」

「んふふー」

 意味深に笑みを深めるヴェルデにやはり苛立ちが募るのも当然の事であったが、それも些事に過ぎなくなるのはすぐ後の事であった。

「え? え? え?」

 崩れ得ぬように組み合わされた煉瓦が、微かな物音さえ立てることもなしにズレ動いていく。そう、それは丁度人一人が通りやすいように工夫された扉のサイズと同一。

 一つ一つの煉瓦が意志を持ったかのように動く様は圧巻であった。あるいは、不気味。しかし統率の取れたその動作は、門を形作るのに幾許の時間も必要としない。

 呆気に取られる沙雪を前に、ヴェルデはイタズラの成功した少年のように笑いかけると鼻の頭を人差し指の背中で擦る。それが尚更ヴェルデの子供っぽい行動に拍車をかける。

「ようこそ、ガルフィア王国へ!」

 そしてまさに今、沙雪の目の前に新たな世界への門戸が開かれたのであった。

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