僕3歳 やりすぎには御注意を
メイドさんが勝手にどんどん増えていきます……
だからイグニス君(主人公)の出番がどんどん減っていきます……
え? もともと少ないって!?
トンテンカンッ。
連日続く屋敷の改築作業の音が鳴り響く。
部分的な増築は過去何度かあっても、屋敷全体にも及ぶ大掛かりな突貫工事は類をみない初めての事だった。
火事や戦争で焼け落ちた建物を立て直すのとは訳が違う。
人がまだ住んでいるにも関わらず、その大部分を壊しながら造り変えていく作業に、それを行っている大工はおろか住んでいる者達にとっても、その屋敷は非常に居心地が悪い場所となっていた。
「よう。嬢ちゃん達、今日は何の用だい?」
本来ならば口を聞く事も出来なかった筈の見目可愛らしい領主お抱えメイド達の突然の訪問に、一番最初に気が付いた男が言葉を掛ける。
しかしその声色はまったく歓迎しているものではなく、むしろ辟易しているといったもの。
年若い娘達――自身の子供と同じぐらいの年齢の彼女達に、男はわざわざ仕事の手を止めて応対する。
「イグニス坊ちゃまがお休みになられましたので、暫くお手を止めて頂けませんでしょうか?」
「……またかよ」
何度となく中断させられてきたメイド達の要望に、彼女達の訪問に遅れて気が付いた男達がやれやれといった風に手を止めていく。
もはや彼等には、彼女達メイドが決まった時間以外で現れた場合、それが何を意味するのか理解していた。
理解していても、その顔に浮かぶものには納得という感情は欠片も浮かんでこない。
「申し訳ありません。かわりといってはなんですが、今日はお茶を振る舞いたいと思います」
「ああ、そうかよ。んじゃ、宜しくな。……という訳だ。御前等、他の奴等にも伝えてやれ。いつもの休憩時間だとな」
へーい、というやる気も喜びも感じさせない応えが返ってくる。
応対した男以外の、すぐに作業を中断できた者達が、適当に周囲を片付けた後のんびりとした足取りで周囲に散っていく。
まるで無秩序に拡散していくように、近場の方から徐々に音が消えていった。
「……まったく。予定も計画もあったものじゃねぇな」
「ご迷惑をおかけ致します」
「本当にそう思ってるのかねぇ……」
最後の言葉だけはメイド達には聞こえない様に呟いて、その男も手早く足下を片付けていく。
鈍器やら鋭利なものやらを流石に出しっぱなしにしておくのは危険だからだ。
その事がよく躾けられているのか、そのまま見回りもかねて辺りを片付けながら、男はフラフラと奥へ消えていった。
その場に残ったメイド達は、次の仕事へと取りかかる。
無駄な時間を惜しむ様に、後ろで待ち構えていたメイド達が手に持っていたテーブルを設置し、安物のポットとカップをテキパキと並べていく。
お湯は既に煮沸されているため、後は茶葉を入れポットに注ぐだけだった。
その茶葉も値段の高いものではない。
男達は床であろうと工具の上だろうと適当に座るため、椅子は必要なかった。
「やりがい、ないですよねぇ」
最初の頃は良かった。
男達は可愛いメイド達の奉仕に胸をときめかせて我先にと集まってきていたのだから。
だがそれが毎日の様に続き、不定期に発生し、月が変わる程の時が経った今では誰も歓迎してくれない。
貴族ならば体面を保つためにそういう事はないのだろうが、ごくごく普通の平民である彼等にはその様な矜持もなく、繰り返される奉仕という名の迷惑に、感謝の言葉すら最近では聞く事がなくなっていた。
それにつれてメイド達の士気も明らかに落ちていき、体面だけは保っているものの使われる食器や用意される品物の値段は下がる一方。
それにすら気付いて貰えないのだから、かつては自然だった笑顔も今では仕事の作り笑顔へと変わっている。
それを咎めてくれる様な年輩の熟練者メイドは、この屋敷にはいなかった。
「ユイティとクリーオゥはそのままお願いね。他の人は持ち場に戻って下さい」
「え? あの……私達だけ、ですか?」
「そうよ。別にとって食われる訳じゃないんだから、いつもの様に適当に相手してれば大丈夫よ」
「でも……」
「フォローが期待出来ない仕事というのも、そろそろ経験してみなさい。貴方達もいつまでも新人扱いじゃ困るでしょ? 屋敷の改築が終わったらまた新しい子が増えると思うから、それまでに先輩として恥ずかしくないだけの力を身に着けなさい」
「そうではなくて……」
「まだ何か?」
獣っ娘以外には厳しいケイトに睨まれて、気の弱いユイティが物怖じする。
その間、赤毛のクリーオゥはずっと黙ったままだった。
気弱と寡黙。
この組み合わせで仕事をさせるとどうなるのか、ケイト以外のメイド達も何となく察していた。
ただ、口出しはしない。
それは己の利にも関わってくるために。
「ないなら、私はもう行くわね」
「あと宜しく~♪」
「……はい」
ケイトが容赦なく会話を終わらせ、アンナが鼻歌交じりにそう言うのを二人は見送ってから、ユイティはガックリと項垂れた。
「うぅ……私もイグニス様の寝顔をもっと見たかったのにぃ」
相方の残念そうにしている姿に、クリーオゥは心の中でそっと呟く。
悔しがる顔も、可愛い。
彼女のその百合という性癖の秘密をユイティが知るのは、まだ暫く後の事だった。
――知った時にはもう手遅れだった訳だが。
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あの事件の後、リゼルグはイグニスに法術封じの指輪を二つ付けさせていた。
一つは魔力を封じるもの。
一つは聖力を封じるもの。
それぞれ右手と左手に付けさせて、リゼルグは息子の持つ力を封じた。
但し、それはあくまで一時凌ぎにしかならない。
指輪は急ごしらえで用意した物であり、成長と共にイグニスの指は大きくなっていくので、最も効果のある指に身に付けさせて力を封じるというのはすぐに出来なくなる。
後は首飾りにして身に着けさせるつもりではあったが、予想以上にイグニスが持っている力が大きすぎたため、それは気休めにしかならないだろうとリゼルグは考えている。
イグニスが巨大な力を持った事は、己の立てていた計画にとっては歓迎出来るものではなかった。
だが反面、喜ばしいとも思っている。
いつか用済みになったイグニスを殺すとはいえ、まったく無名のまま散らしたくはなかったからだ。
少なくとも、わざわざ育ててやっただけの見返りは返して欲しかったため。
あまり好ましい事ではなかったが、政略結婚で最低限の利益を確保しようとさえ考えていたぐらいだ。
手が出しにくくなるよりは、イグニスが2歳にして築いてしまった暴走劇は十分価値に値した。
力を持つという事は、それだけで名声になる。
ましてや神童という言葉は、侯爵家にとっては名誉ですらあった。
その代償として失ったものの片方は、まだ価値が未確定だったために、ただの育成費の損失にしかなっていない。
もう片方の代償に至っては、もともとの予定と変わりがなかったので問題にならない。
どちらも表沙汰にならない様に秘密裏に処理してあるので、結果としては先の事件は良い部類だとリゼルグは評価していた。
しかし。
増えた悩み事の解決策は、まだ見えていない。
イグニスは、力を封じたにも関わらず、一日の大半を勉強と力の向上に費やしていた。
どちらも法術に関わる事であり、将来は間違いなく法術士としての道を歩むだろうと思わざるをえない程、それは熱心だった。
とはいえ、もともと勉強には耐性がないのか、本を読んでる途中でイグニスは良く眠る。
封じられても使える強い力に、たまに無理をしてイグニスは良く昏倒する。
その無駄に費やされる睡眠時間に多少は歓迎する気持ちをリゼルグは持ち合わせていたが、その都度メイド達によって屋敷の改築作業が止められてしまうとは流石のリゼルグも想定していなかった。
いつも屋敷とは別の場所で執務をしていたため、リゼルグはその事に気が付いていない。
今回の改築作業はもともと初めての試みであったため事前に時間が掛かると言われていたのも、リゼルグが気が付かなかった要因だろう。
暫くして、南での戦のために長い間ずっと領地の運営を人任せにしていたリゼルグが、ようやく自らが治めている領地全ての現状を確認し、ある程度の対策を指示し、余裕が出来てきた頃。
法術ばかりに目を向けているイグニスの目を変えさせるために、リゼルグは剣を教える事にした。
たまっていた鬱憤を晴らすかの様にイグニスに虐待ともいえる指導を行い、剣を教えるという名目でイグニスの身体をこれでもかというぐらいにボロボロにした際。
「悔しければ、貴様も強くなればいい。手段は問わぬ。俺から一本を取ってみよ」
「……分かりました」
そう何気なく言った時、それは起こった。
「では、指輪を外しますね」
「……ん?」
何かがおかしい会話。
決してイグニス自身では外せない筈の指輪を、どうやって外すのだろうかとリゼルグが不思議に思った瞬間。
取り外すとは名ばかり。
イグニスは、力尽くで指輪を破壊した。
もともと指輪の力はそれほど強いものではない。
それは何度もイグニスが力を制御しようとして実験を繰り返していた事からしても確かである。
イグニスにとってそれは、重しの様な特訓器具でしかなかった。
最初、イグニスは己の力だけでリゼルグと相対した。
剣の特訓なのだから、余計な力は使うまいと決めたからだ。
だが、想像以上の酷い仕打ちをリゼルグから受けて、イグニスが怒りを覚えない訳がない。
そんな時に何気なく言われた言葉に、イグニスは素直に己の感情を受け入れた。
まったく想定していなかった事態に、周囲で見守っていた執事のジルやメイド達一同が呆気に取られる。
リゼルグもまた驚く。
その一瞬の隙すらも、イグニスは計算に入れた。
故にリゼルグがイグニスの攻撃を受け止める事が出来たのは、長年の経験からくる勘と身体の反射からだっただろう。
ただ……。
受け止められたとしても、受けきる事は出来なかった。
法術で筋力を強化し、風の力で速力を加え、全身全霊の全力全開を込めたイグニスのその一撃を受けたリゼルグの身体は、次の瞬間、盛大に吹き飛ばされた。
まだ建設中の屋敷の壁をぶち破り、子供相手に外に出る必要もないと2階で行っていたために空中から落ちる羽目になり、最後には噴水へとぶつかって水浸しになる。
その様を、外で仕事をしていた大工達は、突然に吹き飛んできたリゼルグの姿に目を見開いて非常に驚いた。
「馬鹿、な……」
よろよろになりながらも起き上がったリゼルグは、己の身に起こったとんでもない出来事に愕然とした。
と同時に、イグニスに対する評価があまりにも甘かった事に己の愚を恥じた。
流石に無傷とはいわないまでも、鍛え上げられた肉体と高価な防具、そして少なからず防御法術を瞬時に展開したので今回は事なきをえたが、それがまだ3歳の子供によって引き起こされたという事を思い出して、その馬鹿げた現実にリゼルグは更に頭を抱えた。
このリゼルグ自身にとっては不名誉となる事件は、リゼルグの努力も虚しく、民に広く知れ渡る事となる。
先に起こした不幸な事故も付け加わって、イグニスの名は諸外国にまで及ぶ事となった。
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父という名を被った他人をぶっ飛ばして、そろそろ一月が経つ。
健康的に育った僕の身体は、予想以上のキャパシティを持っていたらしく、自分でも驚く程の成長力をみせていた。
だけど今、僕が行っているのは、基本だと考えている初歩の初歩。
魔力と聖力を身体の中でゆっくりと循環させながら、徐々にその濃度を高くしていく修練。
それにいったいどの様な効果があるのかというと、実は自分でもよくわからなかった。
何しろ、僕には師匠と呼べる人がいなかったのだから。
ただの勘。
それだけを頼りに、僕は力を使っている。
勿論、1歳の時に手に入れた魔法の書に書かれてあった内容も少しは参考にしていたけど、結局それは独自に解読した信憑性の低いあやふやな情報なので、この世界の真実には程遠いと僕は考えている。
だからその本の内容はとりあえず置いといて、僕はただ己の勘を頼りに修行していた。
「イグニスは、努力家ですね」
その僕を膝の上に乗せて寛いでいるのは、ユディアママ。
若くて綺麗な女の子。
実際の年齢差でいえば子供、この身体との年齢差でいえば年の離れた姉?。
どちらであっても、ちょっと僕にはどう相対していいか分からない困った存在だった。
最近の彼女は、息子である僕を膝の上にのせて編み物をしている。
その編み物は残念ながら僕にくれるものではなく、困った事に新しい命への気の早いプレゼントだった。
早く言えば、ユディアママは父リゼルグの子供をお腹に宿していた。
血の繋がらない兄弟。
僕はまだその新しい命に戸惑いを覚えている。
どう接すればいいのか、ハッキリ言って困っていた。
転生前の世界では一応下には弟がいたけど、物心ついた頃にはとっくに弟は産まれていたので、その産まれた頃を僕は知らない。
それどころか幼稚園にあがった後から小学校に入るまでの記憶もほとんど覚えていなかった。
それに、僕は結婚していなかったし子供も当然作っていない。
だから産まれてくる赤ん坊にどの様な感情を向けていいのかいまいち分からない。
血が繋がっていない事も起因していると思う。
ユディアママが僕にとっては可愛い女の子にしか見えない事もその原因だった。
「ああ……私のイグニス」
目の前で編まれていた糸が動きをとめ、背中から人肌の温もりが包み込んでくる。
ユディアママは疲れた時、よくこうして抱き着いてくる。
まるでムスコニウムという謎のエネルギーを充填しているかの様に、ユディアママは日に何度も何度も抱き着いてきた。
暇さえあればどころか、僕を見るとすぐにというぐらいの頻度で。
周りの者から見れば、それはとても微笑ましい光景だったのだろう。
なぜかメイド達もそれを真似して、よく抱き着いてくる。
僕としては頭を撫で撫でしてくれるぐらいのスキンシップで満足出来るのだけれど、彼女達にとってはこれぐらいの密着が一番心地がいいみたいだった。
悪い気はまったくしないので、抱き着いてきた場合は僕はいつもなされるがままに徹する。
そんな時の僕の顔はとても安らぎに満ちているのだとメイド達は言うのだけれど、僕にはまったくその自覚はなかった。
短い抱擁が終わり、ムスコニウムっぽいエネルギーを充填し終えたユディアママが、お腹の子を気遣ってか、別れの言葉を僕に告げた後、部屋へと引き上げていく。
入れ替わりにナニアが現れて、僕を外へと引っ張っていった。
僕はもう言葉も喋れるし、文字だって読める。
一人で歩く事も出来るし、3歳児とは思えない知能も備えていた。
だけども僕はまだまだ未知の世界に思いを馳せて色々勉強する事を好み、またこの不思議な二つの力をもっと上手く使いたいと思い日夜修練に励んでいる。
だからなのか、ナニアを初めとして活発なタイプのメイド達は、こうしてよく僕を外へと連れ出した。
猫っ娘のナニアに連れられて、そのナニアと同じ狐っ娘の獣人であるリースと、リースが大好きなケイトと、その彼女達と僕の護衛に少し離れて十名を越える兵士が町の中を歩く。
最初はその取り巻きの数に僕は驚いたけど、町の人達の態度があまり気にしていない様だったので、僕もすぐに慣れる事が出来た。
でも同時にそのちょっと不自然さにも疑問が浮かんだので、こっそりククリカに聞いてみた所、どうやらナニアはよく町の子供を連れ歩いている事が多く、僕もその子供の一人だと町の人達は勘違いしたらしい。
普通、領主の息子であり、あの事件を引き起こした僕がメイドや護衛に連れられて町を歩けば、少なからず戸惑いや驚きや好奇の視線を受けてもいい筈なのだが、そうならなかったのはそういう事らしかった。
また、ナニアが僕の事を屋敷から連れ出す事が出来たのも、ナニアならば普段からそういう事をしてるので、カモフラージュとして最適だと判断したという。
そんな訳で、僕はナニアと一緒にいる場合に限り、町へと出る事が出来た。
中央都ギレン。
川沿いに作られた町。
近年になってようやく荒れた街道の整備も終わり、治安も向上した事から貿易も盛んになってきたので徐々に活気づいている、今が伸び盛りの土地。
長い戦争に苦しんでいた人々も今では笑顔を取り戻し、僕の目でもそこに偽りの笑みは浮かんでいないと見て取れた。
これが、父リゼルグの功績。
屋敷の中では自堕落にも見えるあの中年親父が、長い年月を費やしてようやく勝ち取った、町の誰もが認める大きな功績。
その偉大なる功績に比べれば、僕が得た名声など本当に子供騙しなものだろう。
意外に大きな存在だった父リゼルグに、僕は自分がまだまだ力自慢の矮小な存在だと再認識させられた。
「イグニス様、少しお顔が優れない様ですが、少し日陰でお休み致しますか? それとも何かお飲み物でもお持ち致しましょうか?」
屋敷の中でもないのに、屋敷にいる時と同じ様な言葉で話し掛けてきたケイトに、僕は大丈夫だと言ってから、ありがとうと付け加えて無邪気に微笑む。
ついでに頭をちょっと突き出して撫で撫でを催促し、頭を撫でさせた。
ケイトの撫で撫ではちょっとくすぐったい。
ここでポイント。
撫でられている時は猫であれ。
僕の喜んでいる素振りに満足したのか、ケイトはそれ以上は何も言ってこなかった。
「あ、リース。あれなに~?」
分かっているけど僕は質問する。
リースがちょっと羨ましそうに見ていたからからだ。
こういう場合、こちらから声を掛けて構ってあげるとリースはすぐに機嫌を良くしてくれる。
とてとてと小走りに歩いて、僕は指さした物へと近付いていく。
名指しで指名されたリースは、やったといわんばかりに喜んで僕にそれを説明し始めた。
その間、何度もリースの方を振り返って、その栗色の瞳を見る。
勿論、相槌も忘れない。
リースは僕の興味津々な態度に益々説明に熱を入れ、夢中になっていく。
それは途中でケイトが歯止めを掛けるまで長く続いた。
流石の僕もちょっと疲れを感じていたけど、そこは我慢してリースの説明が終わるまでずっと耳を傾ける。
最後にはお約束、リースに感謝の気持ちを込めて抱き着いてから、撫で撫でを催促して撫でて貰う。
リースの好感度もまたアップ。
そんな感じで僕達は町を回っていく。
ちなみにナニアは率先して僕の手を掴んで独占しようとするので、わざわざこちらから何かをしなくても事足りた。
屋敷に戻ると、掃除大好きっ娘のシルフィルと、常識人の様で常識人ではないルリが僕の事を三人から奪い取る。
僕は物じゃないんだけれど……。
疲れた僕を癒すためだと言って、二人は僕を部屋へと連れて行く。
その際、シルフィルがやたらとベタベタしてきた事や、それを見かねたルリが僕を解放するためにラリアットを放ったのはいつもの事。
二人が連れて行った先は休むための部屋ではなく、汗を流すための場所だったのにはちょっと驚いたけど。
昼間からお風呂に入るなんて、なんてハーレム!
と思ったら、もうすぐそのお風呂が取り壊されてしまうという事で立ち入り禁止になるとのお話だった。
なので、もしそのお風呂に入りたい場合は、今日が最後らしい。
期待した背中洗い流しっこは今日もお預け。
なかなか肌は許してくれないメイドさん達でした。
ガックリ。
ちなみにいつも僕は欲服?を着たままのメイドさん達とお風呂に入りますです、はい。
それでも羨ましい?
僕としては生殺しにされている様で欲求不満の毎日です、はい。
今度こそ部屋に戻り、僕はまた法術の鍛錬を行い始める。
但しその僕を膝に乗せて抱き着いているのは、ユディアママではなくルリルリ。
本人曰く、集中力をつけるためには人と接していた方が良いのだと。
何となくルリルリがくっついていたいだけだと僕は思っているけど、それはそれで嬉しい事だったのでそのままにしておいた。
その間、目の前ではシルフィルがちょっと羨ましそうに見ていたけど、それはそれで集中力の妨げになるので、ルリルリの言っている事も正しいといえるのかな?
彼女達の休憩時間も終わり、今度はククリカがアンナと新人二人を引き連れて部屋に入ってきた。
何か用があるのかなと聞いてみたら、特にありませんとの応えが返ってきましたよ。
だったら何できたんだろ……とは僕は別に思っていない。
なんだかんだと言って、ククリカは結構な恥ずかしがり屋だったりする。
普段は他のメイド達を仕切っているのでちょっと格好良い彼女。
でも部屋の中は誰にも負けないぐらいファンシーだったりするし、表だって僕に接しきれない鬱憤がたまってたまに暴走してみたりと、結構可愛い面が多かったりする。
たぶん今日も、新人二人をだしにして僕の様子を見に来たのだろう。
楽しそうにその二人と会話をしている僕に(でも片方はまったく無口なので実質一人?)、ククリカは部屋の掃除をしている様に見せ掛けながら、ちらちらと僕の方へと視線を投げていた。
視線があうと、すぐに視線をそらすものいつもと変わらない。
だけどすぐにまたチラ見してくる。
そのまま放っておくとまた暴走する可能性がある事を知っていたので、タイミングを見て僕は彼女を招き寄せ、僕を抱え上げさせた。
たったそれだけの事で、ククリカは破顔する。
さて、残った一人、アンナはというと。
ただ僕の近くに座って寛いでいるだけだった。
どうやら彼女は側にいるだけで癒されるタイプらしい。
色々な女の子がいるなと僕は思う。
彼女達の長い休憩時間も終わり、ようやく一人になれるかというと、実はそういう訳でもなかった。
こっそり人目を忍んで筋力トレーニングをしていると、猫のリリが窓から入ってくる。
最近、屋敷のあちこちが改築でデコボコになっている中、リリはそれを喜んでいるのか屋敷の中をこれでもかというぐらい散歩している。
今までは部屋の中でうに~っとなってのんびりすごしていたので、もっぱら僕の方が構って欲しくて近付いていたのだが、最近ではそれは逆。
散歩し終えて満足したリリが、一時の平穏を求めて僕へとすり寄ってくる。
頭をしきりに僕へと撫でつけ、座っていると膝の上に乗り、仰向け寝ていると寄り添ってくる。
俯せに寝転がっていると背中に乗って眠り始めるのでちょっと迷惑だったけど、どれを取っても僕は嬉しかった。
猫好きの僕には、リリの甘えはたまらなく嬉しい。
そのままリリと一緒に寝てしまう事もあった。
「イグニス様、起きて下さい」
今日もまた寝ていた様だ。
そんな僕を起こしたのは、執事のジル。
年若く端正な顔立ちをした勝ち組野郎。
領主である父リゼルグならば兎も角として、ジルがこの屋敷に住んでいるのは僕は納得がいっていなかった。
何故、こいつはこんなにも幸せな環境にいるのだろうか。
それは僕にも言える事ではあったが、少なくとも僕とジルの立場はまったく異なっている。
領主の息子である僕にはある意味当たり前のこのハーレム環境ではあるが、何故ジルもその環境にいられるのだろうか?
何度考えても分からない。
メイド達に聞いても、僕と同じ様に誰もその理由を知らない様だった。
目を覚ました後は、ジルのなんちゃって講義を受ける事になる。
最初は適当に無視していたのだが、言葉を喋り始めてからというもの、相手とコミュニケーションを取れる事がばれてしまい僕はそれを無視する事が出来なくなった。
一応、ジルの僕に対する教育の熱意は認めているのだけれど、その内容はというと、どうにも評価出来る様なものではない。
およそ、学問という世界においては、ジルはあまり教師に向いていなかった。
だからといって、ジルが教え様としてくる内容すべてが悪いかというとそうではなく、こと体術に関してはリゼルグも一目を置き始めている事もあって、僕はそれを重点的に教えてくれる様にジルの熱意をそれとなく誘導し続けている。
ただ、教え方は我流だったので、なかなか僕には理解する事は出来なかったけど。
もともと転生前はこれといって武術は学んでいた訳ではないので、幾らキャパシティの高いこの身体といえども、精神の資質までは補ってくれないため、それは難航した。
それでも体術に関してだけは物覚えの悪い僕に、ジルは根気よく付き合ってくれている。
というか僕が付き合ってあげているんだっけ?
ようやく夜になる。
その頃にはみんな落ち着いて、僕に無理矢理構ってくる様な事は少なくなる。
とはいえ、今はユディアママに拉致されていた。
お腹の子が原因で、最近リゼルグには相手にして貰っていないために。
その寂しさを紛らわせるためだろう、僕と一緒に寝る事をユディアママは好んだ。
断る訳にもいかないため、僕はユディアママのしたい様にさせる。
法術の修練を行いながらだけど。
下の用事を思い出し、その事を告げて部屋を抜け出る。
つまりお手洗いね。
寝る前には水を飲まない事、用は足しておく、というのはおねしょをしないための必須事項です。
それでも絶対という訳ではない。
だけど、流石に可愛い女の子と一緒に寝ている時におねしょをしてしまうというのは僕には耐えられなかった。
だって、ねぇ?
用を足すといえば、普通は誰かメイドの一人でも付いてくる筈のこの時間帯。
その通り、部屋を出ると外に控えていたミズキが僕に付いてきた。
彼女は東方の血を引いているのか、僕には馴染みのある髪の色をしている。
だけでなく、生真面目で古風で頑固という三拍子も揃っちゃってる珍しいメイドさん。
彼女は一年前から屋敷で働いている、もと新人さん。
だというのにあっという間に他のメイド達を追い抜いて、僕専属のメイドさん……になる予定だったのだが、不器用な性格と慣れない仕事に躓いてしまい、今では新人二人にも追い抜かれてしまったという可哀想な駄目メイドさんだった。
そんな彼女が、僕が用を足していると意識して目線をそらしているのは何とも微笑ましい光景と言えるだろう。
いつか僕の……コホン、ちょっとまだ早すぎるかな?
その帰り道。
耳を澄ませると聞き慣れた嬌声が屋敷の中に響いているのを、僕は気が付かない振りをしてやり過ごす。
ミズキも気にしていない振りをしているが、顔が少し赤らんでいるのを僕は見逃さない。
明らかに意識している。
そういう時には僕はそっと彼女の手を掴んであげる。
やっぱり夜は怖い、という子供の恐怖している心境を見せる事で、彼女の意識を僕の方へと切り替えてあげるためだ。
彼女は明らかに安堵して僕の手を握り替えしてきた。
まったく……あの中年親父は。
盛んなのも結構だが、少しはこちらを気遣って対策の一つでもしてほしい。
それでなくとも、こっちはたまる一方だというのに。
部屋に戻り、その思いをぶつける様にユディアママの胸へと抱き着いて目を閉じる。
ユディアママも同じ様に僕の背中へと手を回し、次第に寝息が静かになっていく。
お腹の中にいる奴がちょっと邪魔だったけど、僕もまたゆっくりと意識を沈めていった。
明日は、どんな楽しい事が待っているのだろう。
まだ見ぬ未来に思いを馳せながら、僕は幸せいっぱいの今日を謳歌した。
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カタリ。
「おい! 物音たてるなよ!」
「兄貴こそ、声が大きい!」
夜も更けた丑三つ時。
この世界の言葉で言い換えれば、水の真刻。
分かりやすく時間で言えば、深夜2時。
ベルタユス領領主、リゼルグ侯爵家の屋敷に二つの闇が忍び込んでいた。
全身を黒装束で包んだ、明らかに怪しい者達。
まるで東国の不忍人を思わせる風貌は、イグニスが見れば思わず忍者だと叫んでいただろう。
だが実際には、目元以外の全てを黒くて長い布を何枚も使って巻いているだけなので、明るい場所で見ればただの黒ミイラ。
今は月も隠れているため、これ幸いと闇に紛れて黒い人影となって彼等は忍び足で進んでいく。
ただ時折、自身の足下もほとんど見えないために物音を立ててしまう。
東国の不忍人はおろか、元執事のルードヴィヒが育てあげている暗殺者にも劣る足取りで、二人は屋敷の中を壁に手をつき手探りで廊下を進む。
――と、突然。
壁が終わり、先行していた男が空中に投げ出された。
「……え?」
本来ある筈の壁。
それがないことなど露とも思っていなかったその男は、しかし間一髪仲間の手に引かれて落下死する事を免れた。
例え落下先で死ななくとも、すぐに異変を聞きつけた兵士達によって捕まり、首を斬られていた事だろう。
「ああああぶないな!」
「そ、そうか……そういえば、屋敷中を改築してたんだよな……」
だからこそ好機と考え屋敷に忍び込んだというのに、男達は純粋に馬鹿だった。
幾ら屋敷の中から手引きがあったとしても……例え誰にも気付かれず目的の場所に辿り着ける様な好機だったとしても、彼等自身にそれをするだけの能力がなければ意味がない。
夜の闇に紛れて人様の家に忍び込むというのは、意外とスキルがいる。
音をたてない事もそうだが、夜目がきく事、暗闇でも周囲に十分気を配れる事、突発的なトラブルに対処出来る事、事前の調査、速やかな行動、目的以外には目もくれない自制心、計画性、etc……。
それら全てが必要な訳ではないが、もともとリスクが高いのだから成功率をあげるにこした事はない。
「おい。いつまでも休んでないで、いくぞ」
「……ああ。無駄な時間を費やしてしまったな。すまない」
「気にするな」
無駄話もしない事も重要だろう。
だが他人の家に忍び込むという事が初めての彼等に、そんな意識はあまりない。
彼等にとって、これは最初で最後の犯罪だった。
少なくとも彼等はそう思っている。
「俺達は、やれるのかな……」
不安げに後ろから掛けられてきたその言葉に、兄である男は沈黙する。
目の前を行く兄も自分と同じ様にとても不安なのだと思い、弟はそれ以上の言葉は慎んだ。
懐に隠しているナイフを右手で確かめながら、二人は暗い廊下を進んでいく。
途中にあったドアはすべて無視し、予め聞いていた間取りを頼りに二人は己の目的を達成させるために兎に角進み続けた。
都合上、目的地からは遠い場所からでしか屋敷に侵入する事が出来なかったため、なかなかその場所には辿り着かない。
大した距離を歩いた訳ではないにも関わらず、緊張からか二人は随分と汗をかいていた。
コツッ……コツッ……コツッ……コツッ……。
そんな時、遠くから誰かが歩いてくる音が聞こえてくる。
至極当然の様に見回りだと思い、二人は物陰に潜んで音が遠のくのをひたすら待った。
しかし、音はどんどんこちらへと近付いてくる。
だが光らしきものは何も見えない。
まさか幽霊?と二人が思い始めた頃。
音が突然に止まった。
二人のすぐ後ろで。
通り過ぎた筈の足音がすぐそこで止まった事に、二人は息をのむ。
振り返りたいという気持ちが沸き上がるが、見たら後悔するという思いも同時に沸き起こっていたため、二人はただただその場でじっとする事しか出来なかった。
心臓がドクドクと鳴り響く。
その心臓の音が相手にも聞こえているのではないかというぐらいに、二人は極限の緊張を強いられる。
――刹那。
「私も可愛いイグニス様を抱いて寝たいのです! 何故、イグニス様は私だけのけ者にするのですかー!」
夢遊病持ちだったジルが、そう寝言を呟いた。
突然の意味不明不可解な言葉を聞いて、二人は石の様に硬直する。
その二人の事など寝ているジルが気付く筈もなく、思っていた事を口に出来て満足したのか、ジルは再び歩き始め、そして闇の向こうへと消えていった。
後に残された二人は完全に足音が消えて暫くして、ようやく硬直を解く。
「な、何だったんだ、今のは……」
「さ、さぁ……?」
とりあえず危機が去った事に安堵し、気を取り直した彼等は再び歩みを再開する。
流石に次はないだろうと思っていた矢先に、今度はメイドのシルフィルに遭遇して二人はまた肝を冷やした。
シルフィルは夜になるとテンションが激しくあがる。
特に深夜をすぎるとフフフッ……という笑みを零しながら夜の散歩をし始める癖があるので、それを知らない新人メイド達はよく幽霊が出たと言って騒ぎを起こした。
知っているメイド達ですら、たまに驚いて悲鳴をあげる事もあった。
それが切っ掛けで彼女を雇った筈のリゼルグも、忘れていたその彼女の存在を一年ぶりに思い出した訳なのだが、それからもリゼルグは彼女の名を呼ぶ事はなかった。
いつの間にか屋敷から消えるまで、ずっと……。
何とか隠れてシルフィルをやり過ごした二人は、今度こそ目的の場所へと到着する事が出来た。
その場所は、屋敷の地下にある宝物庫……ではなく、この屋敷の主が休んでいる筈の寝室。
昼夜問わず、いつ使われるか分からないリゼルグ専用の個室。
そのドアを二人はゆっくりと開けていく。
大きな寝台の上には、二つの影が横になっていた。
どちらも裸。
暗いためにハッキリとは分からないが、手前にいる者の方が大きかったので、二人はそれが目的の相手だと思い、頷きあう。
懐に忍ばせたナイフに手を伸ばし、音を立てない様に鞘からゆっくりと引き抜く。
星の光がその刀身へと降り注ぐが、毒の塗られていたナイフはその光を反射する事はなかった。
兄は頭部を狙ってナイフを掲げる。
弟は胸の急所へと狙いをすまし、兄の呼吸にタイミングをあわせる。
目の前で寝ている人物は、二人にとって憎き敵とも言える存在だった。
かつてこのベルタユス領の東に、ムストと呼ばれた国があった。
小国ながらも強力な騎馬兵団を有し、隣国からの侵略にも屈強に耐えてみせ続け、長くその地に君臨していた誇り高き国。
その長き繁栄に終止符を打ったのは、たった一人の男による謀略という名の攻撃だった。
派閥闘争の激化、貴族の腐敗、人工災害による食糧難、難民増加、民の流出、騎馬の質的低下、外交不良、絶え間のない戦争、暗殺、引き抜き、密偵、埋伏の毒。
十年以上の歳月を掛けて行われ続けたそれらに、ついにムストは他国の侵略に耐えきれず3年前に滅びる事となった。
亡国の王子。
傍系だったために運良く処刑される事は免れたが、王族としての地位を剥奪され国を追い出された彼等は、そうなる原因を作りだしたリゼルグの事を少なからず恨んでいた。
例え国では役に立たない遊び人の怠け者と称されていたとしても、少しぐらいは誇りを持っている。
王族の中で唯一生き残っていた彼等は、その小さな誇りを満たすために計画を練り、そして今日ここでその目的を果たす気でいた。
あと少し。
この手を振り下ろせば、その目的が叶う。
その後自分達がどうなるのかは、二人はまったく考えていなかった。
行き当たりばったりの計画。
ずっと遊び呆けてすごしてきた彼等には、目の前の愉悦しか見ていなかった。
だからこそ。
背後にいたリゼルグに首を斬られ絶命しても。
二人は最後までそれに気が付く事はなかった。
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「さようなら。ユウガお兄様、ユアルフお兄様」
二人の兄によって無理矢理にリゼルグの屋敷に送り込まれたユイティは、寝台の上で死んだ兄達に背を向けたまま、そう小さく呟いた。
初めから、嫌いだった兄達を裏切るためにユイティはリゼルグの屋敷へと潜り込んだ。
ムストという国があった頃から毛嫌いしていた兄達。
よく暴力を振るってきた上の兄ユウガ。
腹違いである自分を何かと罵り続け、国が滅んでからは自分をまるで奴隷の様にこき使ってきた下の兄ユアルフ。
その二人が身売り同然の言葉を含ませながら、間接的な親の敵であるリゼルグのもとへと自分を売り払う話を持ち出してきた時、ユイティは少しも迷わず決断した。
例えこの後、自分もリゼルグの手によって殺される可能性があるとしても、ユイティは今日というこの日をずっと望み続けていた。
己の純血が散った日に、自分も散る。
兄達と同じ日に死ぬ事はとても嫌な事だったが、覚悟はあの日に既に終えていた。
後は待つだけ。
疲れ果てたまま眠っている所を殺してくれるのだろうか?
それとも起こされて二人の前で抱かれた後?
大々的に処刑されるのは出来れば止めて欲しい。
隣で眠っているクリーオゥは、朝に目が覚めた時、どんな反応を見せるのだろう。
驚いて悲鳴をあげるのかな?
それとも怒ってくれるのかな?
でもやっぱり最後にはちゃんと悲しんで欲しい。
短い人生だったけど、本当の意味で友達と呼べたのはたぶんクリーオゥだけ。
もっとこの屋敷で働き続ければ、きっと他の人達とも本当のお友達になれたとユイティは思う。
そして、イグニスの事もユイティは想う。
末っ子だったユイティは、自分より年下の子供をほとんど知らなかった。
国が滅んだ後も生きるために忙しくて子供と触れ合う機会などなく、それは憧れとなってユイティの中に降り積もっていく。
屋敷を訪れた最初の日。
イグニスはユイティの目の前で盛大に転けた。
すぐにユイティはイグニスを助け起こし、怪我がないかを確かめ介抱した。
イグニスは意外にも泣いておらず、ちょっと恥ずかしげに自分へと感謝の言葉を口にする。
そして抱き着いて甘えてきた。
領主の息子
侯爵家の跡取り。
王族として生を受けたものの、妾の子だったために酷く虐められながらも厳格に育てられてきたユイティは、イグニスのそのらしからぬ振る舞いに戸惑いを覚えた。
自分はこんなにも自由に感情を表に出す事が果たして出来ていたのだろうか。
転けるという恥ずかしい行為。
それを隠す様な素振りもなく、痛みに泣く事のない強さも持ち合わせている。
ただの新米メイドである今は平民の自分に対して躊躇いなく掛けられた感謝の言葉。
そして、めいいっぱいに甘えてくる愛らしさ。
降り積もっていた憧れと、かつての自分に近い立場にある筈のイグニスのその無垢で無邪気な振る舞いに、ユイティの心の中にあったどす黒い何かは一気に吹き飛んだ。
生きる喜びを、この時初めてユイティは心の底から感じる事が出来た。
屋敷で暮らす内に、いつのまにかユイティはいつもイグニスの事を考える様になっていた。
初めは、生きる喜びを教えてくれた感謝の気持ちから。
その後は、たぶん憧れていた子供と触れあう事が出来るからと。
十分に時が経った頃には、純粋に今の暮らしが楽しいからだとユイティは思った。
その想いは日々強くなっていく。
気が付かない内に、一日の大半をイグニスを想いながらすごしていた。
その想いがいったい何なのか、ユイティには分からなかった。
ほんの一ヶ月前までは、朝から晩までずっと働きづめで、それを感じる余裕などまるでなかった。
まだ王族であった頃は、血の繋がらない母と兄達にビクビクしながら、出来るだけ目立たない様に生きてきた。
嫁ぐ先も生まれた時から決められており、自由などなく、まるで道具の様に箱に入れられてただ生かされているだけだった。
だから分からない。
まさかまだ3歳児のイグニスに対して、ユイティは生まれて初めての恋をしていたなどとは露にも思わなかった。
だけどその想いも、もうすぐ終わりを迎えてしまう。
背後で消えた二つの気配。
それから少しして、押し殺されていた強い気配が隠す事をやめ、ゆっくりとこちらへと近付いてくる。
血に濡れた床を気にせずにピチャピチャと小さな音を鳴らしながら、それは自分のすぐ後ろまで迫ってきた。
音がやみ、その者が立ち止まったのをユイティは察する。
そして静寂。
――ユイティの意識はその後、闇に沈み込む様に静かに途切れた。
今回はメイド全員の名前を出せて良かった。
でもこの話で実は3人も勝手に増えたのは内緒ね。
もしかしたら次の話でも……