俺1歳 魔法使いへの道程は遠く険しいな
旅先からの投稿です。
前回の更新から長く日が経ってしまいまして申し訳ありません。
リゼルグ公爵家が仕えるイーゼル国は、現在戦時下にある。
国の南西側で接地している小国クリルタリアへの報復戦争と、南のウズキア国からの侵略を食い止めている防衛戦争。
もとはその2国からの同時攻撃を受けた訳なのだが、西の隣国レレリルとの休戦協定の締結を皮切りに反撃へと移り、現在の情勢へと至っていた。
その3国間戦争に、ベルタユス領は領地がクリルタリアにもウズキアにも接地していないため、直接的な被害は受けていない。
長期化した戦争に兵は奪われたものの、長らく敵対していた西の隣国レレリルとは休戦協定によって争いの火種か沈静化したため、互いに警戒はしても戦は暫く起こっていなかった。
去年に統治国がかわったばかりの東の隣国バリクは、その国の情勢自体が不穏なため、イーゼル国とは戦を望まず概ね友好的な関係下にある。
リゼルグ自身が長く留学していた歴史ある国、南東のオーバージュ国に至ってはイーゼル国と同盟関係下にあるのでまず戦争は起こらなかった。
そして、リゼルグ自身が滅ぼした、閉鎖された北の地。
都合5つの国に接しているイーゼル国の中にあって、その3国と領地が接しているベルタユス領は、北の地を治めた事によって歪な形をしていた。
立地上、西のレレリルと東のバリクと戦が起こった場合にはまず間違いなく最前線となるこの地からひとまず戦の火が消えてから、そろそろ3年の月日が流れる事になる。
未だ情勢は不安定ながらも、リゼルグ公爵家の屋敷内では、今日も平穏な一日が始ま……。
「おやめください、リゼルグ様!」
「離せジル! この様な不肖な息子をいつまでも生かしていては我が家の末代までの恥! 日がな一日中、女共に囲まれてちやほやされておるだけの怠け者に、我が息子の名を名乗る資格などない! 既に1年も経つというのに、未だハイハイも出来ない等という世間一般の者にも劣る無能力ぶり! あまりにも不甲斐なさすぎる! 不名誉な噂がたってしまう前に、俺がこの手でその命を断ってくれる!」
「それだけは! それだけはおやめください、リゼルグ様!」
(くるちぃ……死ぬぅ。誰か……助けて、くれぇ~……)
……らなかった。
イグニスは、久しぶりに父親の手によって殺されかけていた。
「まぁ……イグニスったら。リゼルグ様に高い高いされて、あまりの感激に言葉もでないのね。それともリゼルグ様とは久しぶりの対面だから緊張してるのかしら?」
「ユ、ユディアさま……あれは、そういう状況じゃ……」
「貴方達、邪魔しては駄目よ。カーラもね。貴方はイグニスには少し優しすぎるから、今だけは我慢してちょうだい」
「……はい」
「お、おくさま……」
右手でイグニスの首を持って天へと掲げているリゼルグと、その手を必死に下ろそうと頑張っている若い執事と。
その三人の姿を、少し離れた所で女達は眺めていた。
それまでイグニスを取り合って遊んでいたメイド達は、突然に部屋へと入ってきたリゼルグの行動に、いったいどうしたらいいのか分からず、ただただ慌て続けた。
リゼルグのその暴挙を真っ先に静止すべき妻のユディアが、普通ではない。
それはいつもの事ではあったが、イグニスが目の前で殺されかけようとしているのは、メイド達にとっても初めての事である。
逆に乳母であるカーラの態度はいつも通りすぎて逆に恐怖を感じたぐらいだった。
「リゼルグ様、失礼!」
「ぬ!?」
これ以上は危ないと判断した執事のジルが、リゼルグの膝裏に軽く打撃を当てて体勢を崩す。
と同時にイグニスの首を絞めていた腕を絡めとりつつリゼルグの上半身を押し倒し、投げ倒した。
そのまま腕に関節技をきめて、イグニスの喉を潰していたリゼルグの腕を無理やりに引き剥がす。
手が離れた所で素早くイグニスを掻っ攫い、反撃してきたリゼルグからジルは間合いを取った。
「貴様……もう戦えぬ身と聞いていたが、あれは嘘だった様だな」
「お手を出してしまった事、大変申し訳ありませんでした、リゼルグ様。私の身体は戦場ではもはや役にたちませんが、先程のような軽い運動程度の武芸であれば問題ないのです」
「よもや主である俺に手を出すとは。ルードヴィヒの奴も、随分と適当な人選をしたものだ。貴様、覚悟は出来ているのか?」
「滅相もありません」
ケホケホと咳をするイグニスを抱いたまま、ジルが頭を下げる。
そのジルがいる位置は、リゼルグの視界に心配しているメイド達の姿が入る位置であり、よく計算されていた場所だった。
メイド達もジルが頭を下げた事で、つられて頭を下げている。
それはリゼルグに対して、イグニスを殺す事を止めてくれとみんなで懇願しているかの様な雰囲気だった。
「あら、イグニスは風邪かしら? すぐに医者を呼ばないと。リゼルグ様、宜しいでしょうか?」
そこに、一人だけ空気を読めないユディアが口を挟んだ。
妻の場違いな発言に、リゼルグの怒気が急速に萎えていく。
ユディアは、心が壊れていた。
その症状が現れ始めたのは、一年前に本当の息子を亡くしてしまったあの時から。
息子が亡くなったのは嘘だと話し、代わりに今の息子を与えて事無きをえたと思っていたのだが、その時には既に手遅れだった。
心が壊れたユディアは、息子であるイグニスの死の可能性に関してだけはまるで認識出来なくなっている。
故に、彼女の前でリゼルグがイグニスに対して如何に暴挙を働いた所で、ユディアはそれをリゼルグがただじゃれているものとしてしか認識しなかった。
「……ああ。つれて行くがいい」
「ありがとうございます」
それは実質リゼルグがイグニスを殺す事を止めた事になり、ジルとメイド達は一斉に安堵した。
頭をあげたジルからユディアがイグニスを奪い取る。
イグニスは既に咳も止まり、ぐでっとなって放心していたが、ユディアはそれを眠りに落ち様としているのだと思い込み、何も心配しない。
「ユディアに救われた様だな」
我関せずに徹していた乳母のカーラと一緒に妻の姿が部屋から消えていった所で、リゼルグは閉じていた口を再び開け放った。
「まことに、申し訳ありませんでした」
再度、ジルはお辞儀をして謝罪の言葉を口にする。
この後、どの様な責め苦を受けるのか、内心恐怖しながら。
「だが、次はないと思え」
「は!」
しかし同時に、ジルは確信もしていた。
己の主であるリゼルグは非情の心の持ち主だが、それ以上に寛大な面も持ち合わせている事を。
例え分を弁えぬ行き過ぎた行動をしても、その後の対応次第ではどうとでもなる事をジルは知っている。
それは前任であるルードヴィヒから伝えられた言葉だった。
「一月だ」
リゼルグが発したその言葉の意味を、すぐにジルは理解した。
「一月だけ猶予をやる。その間にイグニスを、他人にも誇れるだけの状態に仕立てあげろ」
ただのハイハイ以上の事をイグニスに欲している。
それは不可能ではないが、ジル達にとってはとても重い難題だった。
何しろ相手はまだ赤ん坊。
何を教えるにしろ、相手の方に理解する力がまだないのだから教える方としては相手の才覚と運に天を任せるしかない。
しかし、ジル達には頷く事しか出来なかった。
「……分かりました。必ずやリゼルグ様のご期待にそえる様、我等一同、一層の努力を誓います」
「努力などいらん。結果のみをみせよ」
「は!」
メイド達は一斉に心の中で悲鳴をあげた。
それは無理難題を押し付けられたからではなかった。
この一年で可愛いイグニスによってすっかり骨抜きにされてしまったメイド達は、その愛するイグニスに対して暫く心を鬼に徹して接しなければならないからである。
「ジルのばかー!」
リゼルグが退室した後、それを知らなかったジルは一斉にメイド達のお仕置きを受けた。
執務室に引き上げたリゼルグが次にジルの姿を見た時、ちょっとやりすぎたかと思うぐらいに。
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「……という訳で、これよりイグニス様のハイハイ教育を真剣に行いたいと思いまーす♪ 意見のある人、手を挙げてー」
イグニスが真っ先に手を挙げる。
しかしそれをメイド達はきゃいきゃい喜んだだけで当然取り合わなかった。
「はい! リースは物でつるのが良いと思います!」
「第一案、採用OK。早速、イグニス様が興味のあるものをみんな集めてきてー」
語尾を間延びさせるメイドの一人、ちょっと垂れ目気味のククリカの指示に従って、一斉に屋敷のメイド達全員が屋敷中に散っていく。
その様を見て、イグニスはちょっと骨抜きにしすぎたかなと内心ほくそ笑んでいた。
何しろ、メイドとしての他の一切の業務を放棄して、イグニスのために全員がこの場に集まっているのだからである。
「リースには採用のご褒美としてイグニス様を預けておくわね」
「やたっ♪」
指示の後に続いたそのククリカの言葉を聞いて、一斉にメイド達が足を止める。
しかしすぐに前以上の速度となって、部屋を出て行った。
一人残ったリースが、ここぞとばかりにイグニスにめいっぱいに抱擁する。
イグニスはそれを今日もめいいっぱいに楽しんだ。
(……っと。そういう場合じゃなかったな。さて、どうしたものかなー)
自分の事ながら、イグニスは結構適当だった。
何しろ、1歳の赤ん坊ではあるが年齢不相応の意識と経験を持っているのだから、その気になればハイハイなどお茶の子さいさいである。
これまではリゼルグの言う通りただ怠けていただけなのだ。
「あ、そうだ! 私を餌にすれば、イグニス様ハイハイしてきてくれるのかな!?」
まるで物凄く良い案だと思い込んだリースが、イグニスを下に落とす。
突然の暴挙に、イグニスが心の中で悲鳴をあげて咄嗟に対処する。
獣人であるリースの感覚では、赤ん坊は適当に放り投げても空中で勝手に姿勢を直すし、万が一着地に失敗しても柔軟な身体がクッションの役割をして大事には至らないというのが常識だった。
(やべーやべー。そういえばリースは獣ちゃんだった。種族の違いって、本当に怖いなぁ)
幾度となく獣人メイドの常識外れの行動に大ダメージを被っていたイグニスは、望んだ訳でもないのにいつの間にか卓越した反射が身についていた。
それだけでも十分にハイハイ以上に凄い事なのだが、屋敷の者は誰一人としてそれに気がついていない。
当事者であるイグニス自身もである。
「イグニス様ー、イグニス様ー。私はこちらですよー」
「あうー」
ちょっと心臓がバクバクいっていたイグニスは、動けない。
「む……この方法は駄目なのかなー」
「リース、何をやってるの?」
「あ、ケイト。ちょっと私自身でイグニス様をつろうとしたんだけど、どうやら駄目みたい」
「あら、そうなの? じゃあ私も試しに……イグニス様、貴方様のケイトはここにいますよ。こっちまで来れますか?」
「……駄目みたいね。待ってれば私達の方が勝手に寄ってくるとでも思ってるのかな?」
「かもしれないわね。イグニス様、よく私達の事を身振り手振りで呼ぶ事あるから」
「うーん、ちょっと残念」
言いながら、リースがてててっと近づいてイグニスを拾い上げる。
(あ、やべ。折角の切っ掛けを不意にしてしまった……)
後の祭りである。
「そういえば、ケイトは何を持ってきたの?」
「私はこれよ」
「猫じゃらしと、ボール? ……そういえばケイト、よくそれでウェアキャットのナニアと遊んでいたわね。イグニス様もそれでつれるのかな?」
「物は試しよ」
「いっちばーん♪ ……って、あれ。ちょーっと遅かったか」
「ルリちゃん、おかえり」
「おかえり」
「たっだーいま。ケイトが一番なんだ、いがーい」
「最初から持っていた事をすぐに思い出したからね。探す手間が省けたの」
「ケイトはナニアが大好きだからね。ナニアの方はどうかは分からないけど」
「好きなんじゃない? ナニア、猫だし」
「猫だしね」
「猫ですからね」
「よんだー?」
「あ、おかえりナニア」
「おかえりなさい、ナニア」
「噂をすれば何とやら。おかえりー」
「ただいまにぅ。うー、必死に急いだのにナニアは三番なんだぁ。ちょっと捕まえるのに時間掛かり過ぎたかなぁ」
「ナニアはやっぱり、リリなんだね」
「猫が猫を餌にするって、ちょっーとシュール?」
「ナニアらしいわよね。ふふ」
(いやいや、みなさん俺の事よく分かっていらっしゃる。どれも少なからず俺が好きなものばかりが並んでるなー。うーん、でも俺が一番好きなのは可愛い女の子なんだけど……さっき失敗しちゃったし。どれに反応しようか迷うぜー)
次々に返ってくるメイド達に、奪われるように代わりばんこに抱かれながらイグニスはやはり適当に考える。
この一年のメイドハーレム生活ですっかり堕落しきったので、命に対する危機感もほとんど消えうせていた。
殺されかけたばかりだというのに。
ちなみに現在の時世の句は「今が楽しければそれでいい!」である。
「……これも駄目みたいね。第一案は失敗とし、次の案へと移りましょうかー」
もう少し根気よくイグニスが動き始めるのを待っていれば結果は恐らく変わっていたのだろう。
が、メイド達へと向けて手を伸ばして求めてくるイグニスの可愛さに、メイドの誰かがすぐに逆に根負けしてイグニスへと近づいてしまうため、結果はいつも失敗だった。
むしろ、いち早くイグニスへと駆け寄った者がイグニスを抱く権利を貰えるというルールが暗黙の内に出来てしまったため、ほとんど物でつっていない状況となっていた。
とりあえず取りまとめているククリカも、他のメイド達も、その事には示し合わせたように気がつかないふりをしてイグニスで遊び続ける。
それはほとんどいつもの光景とかわらなかった。
そして一月が経った。
「さて、見せて貰おうか」
(やべぇーーーー! ついつい楽しすぎて、ハイハイするのかんっっっっっぺきに忘れてた(笑))
今でもどうとでもなると考えていたので、イグニスは内心まだ余裕があった。
だが、ハイハイ以上のものを見せないといけないという事はすっかり失念していた。
「……はい」
今この場には妻のユディアも乳母のカーラもいない。
カーラはどうでもよかったが、今回はユディアの手助けは期待できない。
執事のジルと屋敷のメイド達はもはや打つ手なし。
奇跡に運を任せるしかなかった。
「まずは、ハイハイを見せてもらおうか」
ジルの顔に緊張が訪れる。
メイド達も、結局イグニスにハイハイさせる事が出来なかったため、もはや諦めの境地に近かった。
メイド達は決して手を抜いたつもりはなかったのだが、昨日ジルが見た限りでは、ほとんど遊んでいる様にしか見えていない。
ジルは己の行動を後悔していた。
一月前にメイド達によって盛大なお仕置きを受けた事で、完全にメイド達にイグニスの教育を任せて自身は彼女達に極力近づかない様にしていたのだが、それがまるっきり裏目に出てしまっていた。
よもや全くの結果が出ていないとは思いもよらなかったのだが、それは後の祭りである。
実際にはイグニス自身がすべて悪い訳なのだが、イグニスの真実を知らない者達にとってはそれは分かる筈もなかった。
「どうした? はやくしろ」
「はい。では……」
リゼルグに促されて、現在イグニスの抱擁権を持たされていたメイドの一人が前へとでる。
今の今までイグニスを抱いて矢面に立つ人を押し付けあっていたのがまるで嘘の様に、最後の抱擁とばかりにそのメイドはきつくイグニスの身を抱いてから、リゼルグの前でイグニスを床に解き放った。
「うー」
イグニスのその言葉に、メイドの何人かが顔を背けて涙を流す。
ジルの顔にも、覚悟を決めた騎士の姿が浮かびあがっていた。
だがその状況を既に理解していたリゼルグに、もはや温情の欠片などない。
何しろ、ここ一月の間は満足な食事も取れず、屋敷は少し誇りっぽくなり、執務にも多少なりとも影響が出ていたからである。
そのあまりの状況に、乳母のカーラがたまに腕を振るって手料理を作ったぐらいだった。
邪魔な妻を遠ざけ、帯剣したリゼルグが厳しい目でイグニスの一挙手一投足を睨み付ける。
いつでも斬り殺せる様に、ジルや他のメイド達が間に入って止められない場所にリゼルグは位置どっていた。
(あー。もう、仕方ねぇよな。ちゃちゃっと終わらせてやるかー)
そんなイグニスの頭には、実は一つの野望が浮かんでいた。
それは……。
(はやく終わらせて、メイド達のパンツが見たい!)
ハイハイを利用してメイド達の足元に近づき上を見上げるという、全世界の男性の大半が夢見る願望を叶えるつもり満々だった。
(よい……しょっ、と)
右手を前に出す。
瞬間、部屋中に小さなどよめきが起こった。
心の中でイグニスはほくそ笑む。
更に一歩……。
(……って。あ、れ?)
続いて左手を前に出そうとした所で、イグニスはバランスを崩して前のめりに倒れてしまった。
今度は部屋中に落胆の声が小さく響き渡る。
リゼルグの顔に、殺戮を前にした嘲笑が浮かぶ。
少し焦りながら、もう一度イグニスは手を前に出した。
一歩……二歩……。
しかし三歩目でまたバランスを崩して、ごろんと転がる。
(げ……まさか、あまりに怠けすぎたために筋肉が発達してない!?)
ようやくその事実に気がついたイグニスの脳裏に、リゼルグに斬り殺された未来像が浮かびあがった。
すぐに(それだけは勘弁!)とその考えを吹き飛ばし、再度ハイハイを続行する。
「イグニス様! 足が、足が出ていません!」
「頑張って! イグニス様!」
(ああ、そういう事か(笑))
実際には笑える状況ではなかったが、イグニスは小声で聞こえてきたメイド達の言葉に手を挙げて感謝の意を示したあと、再度ハイハイを試みる。
しかも、それは一つ一つの動作を慎重に確認しながらという、今までほとんど行った事のない身体の動かし方として。
(えーと……右手を出して、右足を出して、左手?を出して、左足を出す。おお、いけた!)
距離にして僅か赤子の手一つ分。
たったそれだけの前進にも関わらず、イグニスは疲労を覚えていた。
しかし一気に危機感が解消された事に、イグニスは内心で歌まで歌いながら続くハイハイ歩行を繰り返し始める。
(みっぎてーを出して♪ みっぎあーしを出ーす♪ おっつぎっはひーだりて♪ さいごーにひっだりっのあっっっしよん♪ そーれ♪ みっぎて、みっぎあっし、ひーだりて、ひだりあーし♪ みっぎて、みっぎあーし……)
「あーう♪ あーう♪ いっいあ♪ いっいあーあ♪」
つたない動きではあるが、可愛いメイド達の足元へと向けてハイハイするイグニスの姿にメイド達が喜びの涙を流し始める。
執事のジルも、内心でほっとして顔を綻ばせていた。
何しろ、ハイハイにあわせて歌まで歌い始めたのだ。
これがハイハイ以上の何かでない訳がない。
「ほぅ……ハイハイは出来るようになったのだな」
「ええ、見ての通りです。まだ少しぎこちないですが、それもすぐに消える事でしょう。この分ですと、何かに掴まって立ち上がる様になるのもそれほど時間は掛からないかと思います」
それは過剰な表現ではあったが、ジルはイグニスが助かる見込みを少しでも高くするために嘘を吐いていた。
だが、それが却ってリゼルグの非情に火をつけてしまった事にジルはまだ気がついていない。
(く……あと少しという所で、抱き上げられたか。無念!)
ようやくお目当てのメイドの足元まで辿り着いた所で抱え挙げられたイグニスが、仕方ないという風に無理して笑う。
そのイグニスを、自分が一番大好きなのではという勘違いをしたナニアが力いっぱいに抱きしめた。
実はナニアがただ単に一番近くにいたという理由だった訳なのだが、イグニスが彼女の事を一番好いていた事はあながち嘘ではない。
イグニスは猫好きだ。
それは屋敷で飼っている動物の中で猫のリリに最も愛着を見せている事を知っているメイド達全員の知る所である。
そのイグニスがウェアキャットという獣人族であるナニアに向かっていった事に、少し悔しい気持ちもあった訳だが、それは全員が納得のいく状況ではあった。
但し、イグニスの中でのパンツ閲覧の優先度はまったく異なっている訳なのだが。
「さて、次を見せて貰おうか」
「……え?」
はじめ、ジルはリゼルグが何を言っているのか分からなかった。
メイド達はイグニスに構う事でリゼルグの言葉がほとんど耳に入っていない。
「歌を……歌っていたのでは、いけませんか……?」
「赤子でも歌ぐらいは歌うだろう。それではあまり誇れまい」
「それは……」
ジルは絶句する。
ジルには最初から打つ手はなかった。
そんな中で奇跡ともいえるイグニスのハイハイと歌にジルは天に感謝する思いだった。
だが、その奇跡に二度目などある訳がない。
一縷の望みを込めてイグニスに懇願しようかとも思ったが、ジルは赤子であるイグニスにはまだ難しい言葉は理解できないだろうと思い直して諦めた。
もしもこの時、ジルが恥を忍んでイグニスにそれを行っていれば、あんな事態にはならなかっただろう。
と、ジルは一年後になって後悔する事となる。
「失礼します」
その時、まるでそのタイミングを見計らったかの様に、カーラが現れた。
響きのある声に、部屋にいた者達が一斉に振り返る。
可愛いメイド達に囲まれてハーレムを堪能していたイグニスも、彼女達の視線の動きにつられてカーラの方に意識を傾ける。
「カーラか。何用だ?」
「少し、ご相談したい事がありまして、お伺い致しました。取り込み中でしたでしょうか?」
ユディアを遠ざけるためにカーラには兵を連れて共に町へと繰り出すように命じた筈だったのだが、賢いカーラであれば事態を理解しているので無闇に問題を引き起こす愚は犯さないだろうと思い、リゼルグはその事には言及しない。
「いや、構わない。何だ?」
カーラの方も、心得ていますといった目配せをしてきたのでリゼルグは安心してカーラの言葉を促す。
だが、それは間違いだった。
それは、誰にとっての間違いであったのかは分からない。
しかし偶然とその可能性からして、それはありえない事ではなかったなと、ただ一人だけ後から納得したものがいた。
「実は、町で魔法の書を見つけたのですが……」
(え!? 魔法の書!!?)
ぴょんっ。
すたすたすたすたすたすたすたっ。
がしっ。
よじよじよじ。
びと。
「……ん?」
「……え?」
(おお……マジでか! 本当だ、魔法の書っぽい。魔法の書だ。初めてみ見た。これがあの伝説の魔法の書かー。これを読めば俺も魔法使いになれるのかなー? うー、み・な・ぎ・・っ・て・キターーーー!)
いつの間にか本を持っていた右手に重い荷物がしがみついていた事に気がつくも、カーラは一瞬現実が認識できなかった。
突然に視界の端から現れて目の前のカーラの身体をよじ登っていったその物体に、リゼルグは自身のこれまでの常識が崩れていった音を聞いた気がした。
その一部始終をすべて見ていたジルは、その光景を生涯忘れる事はないだろう。
己の理解を越えた動きをした赤子の動きに、メイド達の数人は呆気に取られて固まった。
ナニアをはじめとする獣人族のメイド達だけは、それを特に不思議には思っていなかった。
「……おい」
その言葉は、1歳の子供に対して親がかける言葉では決してない。
だが、リゼルグはまるで相手が己の言葉を十中八九理解出来る存在だとして言葉を投げた。
「こちらを向け、イグニス」
「あ?」
(うるせぇなぁ。今てめぇに構っていたくねぇんだよ。どっかいけ、色ボケ中年)
相手が泣いてくる事も予期した上で重圧的な態度で接したにも関わらず、明らかに赤子とは思えない不躾な瞳を向けてきたイグニスに、リゼルグは逆に戦慄した。
その瞳の色を、遠巻きに見ていたためジルとメイド達は幸運にも見ていない。
リゼルグが発する威圧が数段はねあがる。
(……って、やばっ!)
「うー?」
すぐに己の愚を悟り、イグニスはいつもの演技に頭を切り替える。
そのイグニスの首の後ろを掴み上げ、リゼルグは誰もいない床に向けて投げ捨てた。
刹那、獣人族以外のメイド達から悲鳴があがる。
だがその窮地は、咄嗟の機転で滑り込んできたジルの手によって救われる……事はなく、間に合わないと悟ったイグニスが仕方なくいつもの様に自身の身体を制御して、見事な空中回転を見せて床へと着地した。
その様を、獣人族のメイド達がパチパチと喝采する。
「えっと……」
受け取り損ねたイグニスのその軽業の舞を最も間近で目の当たりにしたジルが、己の手の行き先を求めて空中を彷徨わせる。
年齢を重ねある程度の知識を持っていたリゼルグは、獣人族の娘達の態度から、そういえば獣人族はそうであったなと思い出していたので、別段もう驚きはしなかった。
「イグニス、もう一度チャンスをやろう」
明らかにイグニスが言葉を理解しているといった風に言葉をつむぐ主に、ジルはどうしていいか分からない。
それは最初からほとんど変わらない訳なのだが、執事としては失格なため必死に考える。
その答えを待たず、リゼルグは言葉を続ける。
「カーラの持つ書が欲しければ、先程の様にその手に取ってみせよ」
(え!? くれるの!? やたっ♪)
すたすたすたすたすたすたすたっ。
がしっ。
よじよじよじよじよじ。
びと。
(げーーーーーーっと!)
「……」
幾ら身体が軽いといっても、自身の体重を支えられるほどの筋力を有していない事は、これまでのイグニスの堕落生活ぶりからカーラも分かっていた。
だが自身の纏っている衣服を利用しているとはいえ、断崖絶壁ともいえる角度と高さを苦もなくよじ登ってきたイグニスに、もはやカーラは言葉が出なかった。
右手にかかる本とイグニスの重みにどうしていいのか、助けを求めてリゼルグに視線を向ける。
リゼルグは困り果てた様に、しかし何か言いたそうな顔で強張っていた。
「ハイハイ以上……どころでは、ありません……よね?」
ジルもどうすべきか若干困りながらも、この場で最も重要だと思われる事を思い出して主に問いかける。
伺いをたてるというよりは、まるでその信じられない事実を確認するかの様に。
「……その本はイグニスにくれてやれ。カーラ、お前の話しは別の所で聞くとしよう。こい」
「は、はい……」
逃げる様に退室していった二人に、暫くほぼ全員が放心していた。
そこには含まれていなかったイグニスが、その隙をついて最も身近にいたメイドの真下にコソコソと忍び足で近づいていたが、あと少しの所で捕獲されてしまう。
「よかったねー、イグニスさまぁ♪」
同じ様にしっかり意識を持っていたナニアの手に抱かれながら、この一連の騒動は幕を閉じたのであった。
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その一連の騒動が幕を開けた、約一ヶ月前。
それよりも数日を遡った日。
カーラは、ユディアからある相談を持ちかけられていた。
「イグニスったら、まだハイハイが出来ないの。困った子よね。カーラ、何か良い手はないものでしょうか?」
自分よりも一回りも二回りも年下のユディアからのその相談事は、むしろ随分と遅いものだとカーラは思っていた。
仮にも乳母としてカーラは屋敷に召し上げられたため、一応それなりの知識は心得ている。
しかし、実際には性欲の捌け口としてしかリゼルグには求められていなかったので、イグニスには適度に乳を飲ませる事しかしていない。
教育も愛情も、カーラはまったくといってイグニスには注いでいなかった。
「リゼルグ様にはご相談なされたのですか?」
そんな事は出来なかっただろう事を知っていたものの、カーラはあえてその質問を投げ返す。
リゼルグは数ヶ月前から南の戦に招聘されている。
本来ならば自領の防衛と、東西国の監視のため戦に赴くべきではないのだが、国王直々の招聘状が出されたため、リゼルグはやむなく参戦せざるをえなかった。
それは一部の者のみ知らされている極秘事項なのだが、カーラは独自の調査でそれを調べ上げていた。
「いいえ、まだです。あの方はとても忙しい身ですから」
リゼルグは屋敷にいたとしても、ほとんどユディアとは一緒にすごす事はない。
せいぜい、夜の営みの時とたまのすれ違い程度。
ユディア自身はそう思っていたが、カーラはその真実を知りえていた。
だが口に出してそれをユディアに伝えるつもりはない。
「一度、谷底に落としてもらった方がいいのかしら? 確かそういう子育ての方法があったわよね」
「それは……確かにそういう育て方もあるにはありますが、この場合は不適かと思います。別の手を考えるべきでしょう」
獅子の血を持つ獣人族は千尋の谷に我が子を突き落とし、這い上がってきた者のみをわが子とする。
それはただの童話であり、スパルタ教育の代名詞でもあることわざの一つではあったが、実際にそれをしてしまった馬鹿な親は己の子を亡くしたという話しか聞いた事がなかった。
過酷な試練を与えてその才能を試し立派な存在に育てるのが本当の意味であり、決してハイハイをさせるための手段の一つとしては使われない。
目の前にいるイグニスの母親たる壊れた少女は、たまにそういう事をさも当然の様に口にしてきた。
カーラがそれとなく別の方向へと誘導していなければ、今頃イグニスは何度も死に掛けていたことだろう。
あまりこの屋敷の者達とは親密になるつもりがないカーラではあったが、自身がこの屋敷にいる唯一の公然とした理由であるイグニスをまた殺されては困るので、夜伽の相手であるリゼルグは別として、実は一番危険な存在であるユディアにだけはこうして今日も自ら相手をしていた。
「では、川向かいの森の奥で放すのはどう? 帰省本能の習性で、ハイハイしながら屋敷に戻ってくるかもしれないわ」
それは連絡手段に用いられる伝書鳩の習性だと言いたい。
それにハイハイでは距離的にかなりつらいものもある。
川を越えるのはいったいどうすれば良いのだろうとも思ったが、その前に餓死するか獣の餌になること間違いなしだろう。
相変わらずにユディアはイグニスの死を全く疑っていない様子なので、その事にはまったく気がついていない様だった。
「そこまで手をかける事はないでしょう。やはりまずはリゼルグ様にご相談されるのが一番かと……」
「でも、リゼルグ様はいつ帰ってくるのか分かりませんし……」
このままでは流石に埒があかないと思い、仕方なくカーラは|まだ誰も知らない筈の情報《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をもちだす事にした。
「リゼルグ様は近日中に一度このお屋敷のお帰りになられるそうです」
それは事実だが、それを知る者はこの屋敷にはまだ自分以外にはいない。
故に、もしもユディアがこの事を屋敷にいる誰かに話してしまったら、自身にとって少し好ましくない状態へと陥る可能性があった。
すぐにでも裏で動いて屋敷の者達にそれとなく伝えなければならないなと、カーラは心の中で溜息を吐く。
同時に、決してその知りえない事実を屋敷の者達に明るみに出さない様にと注意喚起もしなければならない。
主のいない屋敷なのに、何故かリゼルグがいる時よりも忙しく、そして動きにくくなっているのは本当に不思議だった。
「リゼルグ様がお帰りになられるの!?」
「はい。ですがまだ正式な通達ではありませんので、あまり他言はしないで下さいね。こういう事は、ジルの口からまずは聞くのが筋ですので」
「そうね、分かりました。こっそり私に教えてくれてありがとう、カーラ」
優しい微笑みをユディアに返して、控えめに印象を与えておく。
二人だけの秘密だという風に。
「少しイグニスの顔を見てこようと思います。ユディア様はどうなされますか?」
「私は少し休んでから行きます。あまりイグニスを甘やかさないでくださいね、カーラ。でないと、実の母である私よりも胸の大きい貴方の方をイグニスはすぐに好いてしまいますから」
「ユディア様の愛情にはどうやっても負けてしまいますよ」
互いに冗談を言い合ってから、カーラは退室した。
イグニスが自身の胸に惹きつけられているのは分かってはいたが、カーラは一度としてイグニスを甘やかした事はない。
むしろいつも指をつねったり頭をはたいたりして、必要以上にスキンシップを求めてくるイグニスを若干虐待している方だった。
だが、傍目にはそれは一種の愛情表現にしか見えていない事をカーラは知る由もない。
「さて……」
周りに誰もいない事を確認してから、カーラは顔から表情を消し去る。
そうして一瞬思考した後。
これから起こる事態を想定して、イグニスの命を助けるための手段を求めて町へと向かった。
目的地は、外の国からの輸入を生業としている、己の同国者が商っている店。
行うのはいつもの情報交換と、融通して貰うべき物の取り寄せ依頼。
ここ一年、イグニスを観察していてカーラは最近気がついた事があった。
それは、イグニスの身に宿している魔力と聖力の内包量に関してである。
どういう訳かイグニスは年齢不相応の知識を有している事をカーラは見抜いていた。
その理由はまるで分からないが、そう仮定した上でイグニスを一人にしている時にこっそり観察していると、イグニスがとんでもない事を毎日しているのをカーラは目の当たりにしていた。
それは、己の体内と周囲にある魔力と聖力の擬似的操作。
そういう遊びをまだ物心ついていない赤子がしない訳ではないが、意図的に人目を忍んで行うのは明らかに異常な行為だった。
この行為は行えば行うほど自身の魔力量と聖力量を向上させ、一度に使用できる力の量を底上げする事が出来る。
それは、物心のついていない赤子ならば、とりあえずよく分からない身近なそれでただ遊ぶというのが普通だった。
本来は、物心ついた後に法術士を目指し始めた者達が行う修行の一つ。
それをイグニスは後者として行っている様だった。
しかもそれは日に日に技術が格段に向上し、今では意識的に見ようとしない限りは隠せるまでになっている。
周りにいる者は皆それにはまったく気づいていない。
それも当然の事。
この屋敷にいる者達は、主であるリゼルグを除いて皆そういう素養は別に持ち合わせていない者達だったのだから。
ただ単に、それは偶然に。
いつかはリゼルグも、イグニスが法術士としての素養が恐ろしくある事に気がつくだろう。
それはとても確立の低い事ではあったが、赤子の内にその聖魔力遊びをめいっぱいにしてしまい、子供の内から多大な才能を発揮したという話しは決して少なくない。
十中八九、イグニスはそうなるだろう事をカーラは予期していた。
だが、それとこれとは別である。
イグニスが既に法術に興味を示しているのは確かだった。
ならば今後の事の考え、魔法か聖術の書を事前に用意しておき、イグニスの命を救う切り札としておくのは悪い考えではない。
むしろ効果のありすぎる切り札にもなりえた。
リゼルグは、イグニスという誰とも分からない他人の命を、いつでも散らせる用意があった。
それは同時に、乳母である現在の地位を失う切っ掛けにもなる。
だけでなく、自身も以前に屋敷にいた者達と同様に、いつか殺されてしまう可能性があった。
屋敷のメイドはこの一年間で総入れ替えされ、あれほどリゼルグの信任が厚かった執事も変わった。
裏を調べてみれば、おぞましい程に出てくる非道な現実。
屋敷を追い出された後、人知れず殺された身寄りのなかったメイド。
不幸な事故を装い、亡くなったメイド。
南の国との激戦地に送り込まれ、殉職していく兵士達。
いつか暗殺者の実験台として使われる予定の、北の地に向かった者達。
その彼等彼女達とは入れ替わりに入ってきた年若いメイド達と、何も知らない新兵達。
メイド達はリゼルグの慰み者として。
新兵達は失われていく兵力の代わりとして、安月給で雇われている。
あの時期にリゼルグの周りにいて、最後まで生き残っていられる可能性があるのは、ごく数人しかいないだろう事は既にほぼ確定されていた。
その中に、恐らく自分は入っていない。
いったいどの様な手段で殺されるのか。
いつまで生きていられるのか。
屋敷から出る時は必ずついてくる兵士達を意識しながら、それでも普段通りに振舞いながら町の中を歩き続ける。
時折、馴染みの店を訪れては時間を費やし、怪しまれない程度に雑談を交しながら目的の店へと近づいていく。
実は既に聡いリゼルグには全て看破されている可能性もあったが、もはやカーラにはいつもの事をいつもの様にする以外の選択肢は持ち合わせていなかった。
店に辿り着き、店主と暗号を含んだ会話を楽しみ、最後に暗号の含まれていない言葉で目的の書物が取り寄せ出来ないかと相談を持ちかける。
その理由は隠すことなく、イグニスのためだとはっきり言う。
いずれリゼルグの耳にこの内容は入ってくる事にはなるだろうが、どうせいずれはイグニスの素質にリゼルグは気がつくのだから問題ない。
取り寄せる事はも勿論出来るが、入荷には一月近く掛かるという話に了承の意を返し、カーラはその日の買い物を終了させる。
とても痛い出費だったが、諦めた。
屋敷に帰ってからは、兵士やメイド達に口裏を合わせてくれる様に頼み込まなければならない。
兵士達には魅惑の身体を武器に、魅了だけして決して触らせる事はさせずに篭絡する。
メイド達には町でのお土産を贈り物にすれば事足りた。
最後にイグニスを伴って、まだ部屋で休んでいたユディアを訪ねる。
なんだかとても損な役回りだと思ったが、今日何度目となるのか、仕方ないという言葉でカーラは自身を納得させたのだった。
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みたいな事があったんだったら、面白いよなぁ。
ま、そんな想像話は今は置いといて。
今の俺にはやるべき事があった。
目の前の床に置いて開いている本のページをまたぺラッとめくる。
(何が書いてあるのかわかんねぇ!)
思わず心の中で叫ぶ。
予想していたよりも早く魔法の書を手に入れる事が出来たのは僥倖だったが、文字が全く読めなかったのは想定し忘れていた。
言葉が普通に分かったから、文字もたぶん大丈夫かなーっと思っていたのかもしれない。
だが、魔法の書に使われていた文字は、そんな暢気なレベルの類ではなかった。
多少なりとも以前の世界で一般的な外国語を幾つか見ている身としては、最初はちょこちょこと解読すれば何とかなると思っていたのだが……。
困った事に、同じ様な文字がなかなか見当たらない。
同じ文字があればそこを基点としてこのロジックを解いていく事も可能かなという甘すぎる淡い期待も、そもそもそれすら稀な状況では独自の解読ではほとんどお手上げな状態だった。
ここ数日、以前の世界にはなかったとある二つの感覚遊びも中断させて、この魔法の書に没頭している訳なのだが、まるで成果があがってない。
まぁ現実世界でも他言語の解読というのは恐ろしく時間と手間が掛かるものなのだからこれは普通なのだろうが、俺としてはやっぱりこれは諦めきれるものではなかった。
何しろ、魔法なのだ。
魔法だよ?
魔法なんだぜー。
魔法だってばよ!
もう喉から手が出るほどに欲しかった、あの超常現象的な力だ。
俺も他に漏れず普通にゲームの世界にどっぷりと浸かっていた身なので、こういう非現実的な力には憧れていた。
火の玉を出したり。
氷のツララを作り出したり。
風の魔法で斬り裂いたり。
地面から土壁をボコッて出して防いでみたり。
魅惑の魔法で女の子を惚れさせてみたり。
時間を止めて色々いけない事をしてみたり。
俺でなくとも、あっちの世界にいる誰もがその力に惹かれる事だろう。
それが、もうすぐ手が届きそうな位置にある。
何としても、この手に持つ魔法の書物の紐を解きたい所だった。
「イグニス様、すごーく集中してるよね」
「うん、凄いよね。私達が一生懸命構っても、ほとんど見向きしないんだから」
「あ、でも下着を見せたらすぐに寄ってきたよー?」
「貴女はいったい何をしているのですか!?」
「というか、イグニス様ったらもうそっち方面に目覚めたのかしら?」
「流石リゼルグ様の子」
「違うんじゃなーい? ただ単に見慣れない物に惹きつけられたんじゃないかな?」
「うぅ……イグニス様、ナニアは寂しいですぅ」
「それ、抱っこしてる貴方がいうんじゃない!」
「しっ。イグニス様は御本に集中してるんだから、もっとお静かに」
「はーい」
「はいー」
「むー……」
「ところで誰か、あの文字って読めないの?」
「読める訳ないですね。恐らくあれは古代文字というよりも複雑な暗号文みたいなものですから。読み解けない様に法術がかけられている訳ではないと思いますが、解読にはそれなりの知識と技術がいる筈です」
「よく分かるわね、貴女」
「ただの勘です」
「.……つまり、どっちにしても分からない、と」
「イグニス様、あれを読めてるのかなー?」
「読んでいるというよりは、眺めているだけなのではないでしょうか?」
「絵本を読むみたいに?」
「かもしれません。何しろ、初めて見るものですから。何に惹かれるのかは個人によって異なりますし、イグニス様はただあの本だったというだけで、それ以外に意味はないかと思います」
「でも、もう五日目ですぅ」
「まだ五日目です。それに、もうすぐ……」
「あ。イグニス様、うつらうつらし始めてる」
「意外と寝る前に読むとすぐに眠れる様になる事を分かっていらっしゃるのかもしれませんね」
「イグニス様、実はただ寝たーいだけ?」
「それはどうでしょう? 今までは私達と遊ぶ事の方を優先させていましたし」
「まさか、私達って飽きられた!?」
「演技でもないことは言わない」
「いたーい。アンナに叩かれたー」
「はいはい。よーしよし」
「ねぇ、そろそろイグニス様から本を離さないと危なくない?」
「あぁ……ちょっと遅かったかも。涎ついてる」
「貴重な本なのに、イグニス様にとっては関係ないからね」
「暢気に感想を述べてないで、すぐにジルさんかククリカを呼んできなさい!」
「はーい」
「ナニアはどうするぅ?」
「ナニアはそのままイグニス様を寝所にご案内してあげて」
「あ、ずるい! 私もついていく!」
「あ……イグニス様、起きたぁ」
「あぁ……リースが大きな声をあげるから」
「仕方ない。ここはお詫びに私の下着を見せて許してもら……いたーい」
「貴女は何を馬鹿な事を……」
「でも、イグニス様はリースの言葉に反応しましたよ。随分と目が覚めたみたいです」
「え?」
「まぁ、気のせいでしょう……。リースもわざわざスカートをたくしあげなくてもいいです……って、ちょっとガッカリしてる様に見えるのは私の気のせいでしょうか?」
「もう一回試してみる? いたっ!」
「痛恨の一撃ですね」
「二人とも、馬鹿な事は言ってないでイグニス様の口を早く拭いてあげなさい」
「はーい」
「はい」
(くそ! もうちょっとだったのにぃ~~。やっぱり、パンツ攻略を先にするかなー?)
イグニスが魔法の書の解読に成功するのは、まだ暫く先の事だった。
メイド達の会話シーンが、思ったより書きやすい。
さて、誰が誰でしょう?
(注:後半部は名前を出してないメイドも入っているので、実は俺自身も把握しきれてないかも・・・)