ウサギさんとフェアリーテイルのその向こう
結局どんなに言葉を尽くしても、話をそこへ持っていくのか、と、思わず舌打ちしそうになった。
「だからね、佳音 (かのん)ちゃんはうちでのびのび育てた方が」
「いえお義母さん、ですからその話は……」
この電話相手は、幾度断ろうともその都度同じ話を繰り返して蒸し返し、なかなか上手く切れずにズルズルと通話時間が引き延ばされてしまう。長谷川理奈 (はせがわ・りな)は、遠方に住む亡き夫の母……義理の母の長年に渡る要求に、ほとほと辟易していた。
この日ももう既に一時間以上に及ぶ電話攻勢に理奈は疲れ果てており、何とか切り上げたいと四苦八苦するも、相手の粘り強さにウンザリし、ぐったりと机に突っ伏してしまう。
彼女の亡き夫、公宏 (きみひろ)の両親は、決して悪い人間ではない。それは分かっているが、彼らの要求は理不尽で到底受け入れられる筈もない。
……また、先方は自分達の申し出はあくまでも善意でありまたとても理に適っているのだから、断り続ける理奈の方が現実を見据えていない愚か者である、と考えている節がある。
亡き夫の血を引く次女の佳音と、今は亡き友人、響 (ひびき)の血を引く長女の咲来 (さら)という父親の違う二人の娘を持ち、細々とした暮らしを営む未亡人の理奈。
有り体に言えば、夫の両親は自分達の手元で佳音を引き取って育てたい、と言い出しているのだ。
『シングルマザーの身で、娘を二人育てるだなんて大変でしょう?』などと、親切めかして押し付けがましく言っているが、要するに理奈には娘を育てるだなんて土台無理な話だと彼女を侮辱しているに等しいというのに、彼らは自分達の言っている事の意味さえ把握していない。
第一、引き取りたいと申し出ているのはあくまでも、彼らのお気に入りの三男坊である公宏の娘だけであり、佳音が慕って懐いている姉の咲来と引き離す事を、何とも思っていない。彼らが居を構える県と理奈が暮らすこの街は、子供が気軽に行き来出来る距離でないにも関わらず。
まるで茶菓子を半分こするかのような軽い気持ちで、『公宏そっくりの佳音ちゃんが欲しい。そっちにはもう一人娘がいるんだから、構わないだろう? 不憫な孫娘は実の祖父母のもとで養育した方が良いに決まってる』と、したり顔で。
ああもう、と、理奈は携帯を片手に額を覆った。
誰も彼もが、理奈の娘に亡き父親の面影を求めている。あの子達はペットでもお人形でも響や公宏のクローンでもない、自分の意志を持つ生きた人間であるというのに。
一方的に話し続ける義母の甲高い声を右から左に流しつつ、今日はどう切り抜けようかと思案していた理奈は、玄関の方から聞こえてきたチャイムを渡りに船とばかりに、通話を切る非礼を詫びた。
「お義母さんすみません、来客がありましたのでこれで失礼いたしますね」
「あらそお? それじゃ理奈さん、またかけるわね。次は佳音と話させてちょうだい」
娘達が学校に行っている時間帯にかけてきたクセに、何を言っているんだ。まるで、祖母と孫の交流を妨害したがる不出来な嫁扱いではないか。
内心ではそんな苛立ちが掻き立てられたが、理奈は努めて愛想の良い声音で「はい。ではまた」とそつなくやり過ごし、ようやく電話を切る事が叶った。
理奈はやれやれと肩を竦め携帯を畳むと、遠慮がちに鳴らされた二度目のチャイムに応えて「はい、ただいま」と玄関の向こうに向かって声を張り上げた。
いったい誰がこの窮地を救ってくれたのであろうかと、歩くだけでキシキシと軋み年期の入り具合を窺わせるアパートの床を滑るように抜け、玄関のドアスコープを覗き込んだ。
扉一枚隔てた向こうに佇んでいるのは、見慣れた大家さんの姿だ。待たせた事を詫びながら鍵を開けると、彼女は「上がらせて頂いても良いかしら?」と、何かの書類が入ったファイルを手に首を傾げた。
家賃は銀行口座から引き落としだし、契約更新にはまだ間がある。いったいどういった用件なのだろうかと、訝しみながらも理奈は大家さんに出すお茶の用意に入った。
大家さんの、恰幅の良い後ろ姿が機嫌良く立ち去る姿を見送りながら、理奈は握った拳をプルプルと震わせていた。
思い返せば今までにも、(もしかしたらそうなんじゃないか?)と、疑わせる出来事は幾度もあった。
しかし、彼はそういった事項についてチラリとも口にした事がなかったし、理奈も敢えて問い詰めるような真似はせず、不透明なままで流していた。関わらない、無関係、そう言い聞かせて。
だがしかし、今回のこれは明らかにやり過ぎだ。お互いに過分なやり取りは避けて不干渉である、そんな素振りを貫くという暗黙の了解を破る、微妙な問題に発展しかねない領域侵犯でなくてなんだというのか。
理奈は携帯のアドレス帳を呼び出し、登録名『某氏』の番号を鼻息も荒くプッシュした。
そして、呼び出し音を聞きながら深呼吸を一つ。
落ち着け。相手は自分よりも遥かに場数を踏んだ、海千山千のタヌキだ。冷静さを欠いて頭に血を上らせたままでは、いいようにあしらわれてお終いだ。
四回目のコール音の後に、電話の向こう側から何かの物音が聞こえてくる。カタカタと、キーボードをタッチする音だろうか。それから一瞬の間を空けて「もしもし」と、なんの感情も滲んではいない『某氏』の平坦な声が理奈の耳朶を打つ。
てっきり、忙しい彼は電話に出ることができず、留守番センターに繋がるだろうと高をくくっていたというのに、呆気なく本人に繋ぎが取れてしまった。
気合いを入れて果たし状を届けに行ったら、決着をつけるべき当人が、門前で水まきをやっていました的な意表の突かれ方に、理奈はやや怯みつつ口を開く。
「こんにちは、宇佐木 (うさき)さん。少しお話するお時間はありますか?」
「やあ、長谷川さん。
生憎と、私は丁度たった今から会議の予定が入っている。夜にまた掛け直す」
「え、ちょっ……!」
勢い込んで話を切り出そうとしたというのに、『某氏』こと響の実兄である優 (まさる)は早口に電話口でそう告げるなり、理奈に口を挟む隙を与えず問答無用で通話を終了させてしまった。
「……なんなのよ、あの男!」
ツー、ツー、ツーと、無情な電子音だけが流れる携帯電話を睨み付け、理奈は思わず苛立ちも露わに吐き捨てた。
彼には、電話している暇が無いのなら初めから留守電に任せて出なければ良い、という感覚さえ持ち合わせていないのだろうか。
ひとまず、敵の策略を打ち破る打開策を練るべく、理奈は大家さんから渡された案内パンフレットを手に、敵情視察へと向かった。
そもそも、優の自由になる時間帯が全く分からない。具体的にいつ掛けてくると明言されなかった理奈はその日、優からの電話がいつ掛かってくるかと、ソワソワと落ち着かずに上の空で過ごす羽目になった。
「今日のママ、元気ないね」
「そう? 何か考え事してるんじゃない?」
小学校から帰ってきた娘達から、訝しげな視線が時折向けられるが、理奈としては、電話口で優と話しているところを咲来や佳音に見られる訳にはいかないと、その一点が気がかりでどうしても挙動不審になってしまう。
娘達とて当事者なのだ。ずっと黙ったままでいるのは、彼女達の意志や発言権を無視した形になるだろうと、理奈は昼間大家さんが置いていったパンフレットをちゃぶ台の上に広げ、二人の愛娘の顔をしっかりと見据えた。
「実は、昼間ね……」
この子達は、いったいどんな反応を示すのだろうかと、少しばかり不安にかられながら……
結局のところ、優からの折り返しがあったのは、娘達がとうに寝付いた真夜中の11時過ぎであった。
ようやく掛かってきたそれに、携帯を握った理奈の手には不自然に力が入る。
「もしもし、宇佐木さん?」
「やあ長谷川さん、今晩は。遅くなってすまない」
「いいえ、お仕事お疲れ様です」
怒りが沸点を迎えた瞬間の挑戦心が薄れた挙げ句、勝手に『夜に掛け直す』という、正確な日付や時刻さえ不明な曖昧にして一方的なアポをごり押しされた不機嫌さから、理奈の声音は地を這うような低さだ。
台詞だけはなんとか取り繕ってはいるが、本心としては罵声を浴びせたいところである。この手の交渉事に明るくない理奈としては、この状況は巌流島の決闘と似たような戦術だろうかと、穿った見方をしてしまう。
「それで、昼間は聞きそびれたが、何か困り事でも?」
そもそも、昼間の連絡には一方的に喋って切った男は、理奈の低い声音など意にも介さず、いけしゃあしゃあと挨拶もそこそこに本題に入れと促してくる。
(……ムカつくって、こういう状態を言うのかしら)
理奈は無意識のうちに力を込めていた握り拳を開きつつ、用件をズバリと口にする事にした。
「今日の昼、私の借りているアパートの大家さんがいらっしゃって、このアパートは近日中に改装の予定だから引っ越してくれ、だそうです」
「ほお、遠回しな立ち退き勧告かね? 随分と無体な話だ」
全く声音を変えずに、ウサギの皮を被ったタヌキ親父はしれっとそう答える。まるっきり、自分は無関係だ初耳だと言いたげだが、絶対にこの男の仕業だと、理奈には嫌な確信があった。
「いいえ、アパート改装に伴い、現住人には別のアパートに引っ越してくれというお願いをされました。
引っ越し費用は大家さん持ち、今までの家賃と同額、通りを一本抜けた場所で、私達店子にかかる面倒事と言えば、荷物梱包と荷解き、諸々の機関への住所変更の届け出ぐらいなものです」
「つまり、大家さんから推薦された代わりのアパートに問題があった、と」
「全く何も問題はありません。むしろ、部屋数は増えて安全性は向上し居住空間の快適性が増します」
昼間に理奈の住む部屋を訪ねてきた大家さん曰わく。
先日大々的に行われたチェックで、このアパートが建築基準法が定める建築物の構造耐力を満たしていないと判定が下された。
何しろ古い前時代的アパートだもの、さもありなん。これを機に、このアパートは根本から大工事を行うので店子の皆さんは早く引っ越してね。
新しいお部屋は私達が見繕っておいたから、今後はそちらにお世話になってちょうだいな。
大丈夫、家賃はうちと変わらないし、場所はすぐそこのアパートよ。どんな物件か不安なら、管理人さんがお部屋を案内してくれるわ。
そちらの部屋を借りるお話を蹴るなら、新しいお住まいは長谷川さんが自分でなんとかしてちょうだい。じゃあね。
……と、まあ、大家さんの話を要約するとこんなところだ。
「なるほど、話を聞く限りではとても良い話のようだが?」
不動産をいくつも所有する代々広大な土地を受け継いできた地主の家柄、という旧家に生まれ育った男は、どこまでも空惚けるつもりのようだ。
明らかに、背後で手を引いているのはこの電話の向こうの男だとしか思えないのに。理奈個人の力では、大家さんにアパートの点検や工事費用、そして店子へのアフターケアに至るまでの話を振った大元がこの宇佐木優氏だと、突き止めて証拠を振りかざす事さえ出来ない。
ふと、怒りをたぎらせた頭の片隅で、冷静な部分の声が理奈に語り掛けてくる。(私は、今回の話のいったい何が不満なのだろうか)と。
引っ越すかもしれない、という話を聞いた娘達は……たいそう喜んだ。代わりの物件として紹介されたのは、近所に建ったばかりのこ洒落た雰囲気のアパートだったし、学区は変わらないから当然転校する事もない。
古くて狭苦しくて危険なボロアパートよりも、新しくて少し手狭で安全なアパートの方が、何十倍も嬉しいに決まっている。
「もしもし、長谷川さん?」
急に黙り込んだ理奈を訝しみ、優が少しばかり強い口調で彼女を呼んだ。
「ああ、すみません。少し考え事を」
「……もしや、長谷川さんはそのアパートに亡きご夫君の思い出が詰まっているから、引っ越したくはないのか?」
電話相手は、途中でやや言葉を選ぶような間を挟みつつ、気遣わしげに問うてきた。理奈個人に対してはどこか横柄な態度が多いくせに、彼女とそれ以外の誰かの関わりについては、優はまるで薄氷の上を歩いているかのように、無駄に慎重になるきらいがある。
「夫とは、このアパートで暮らしていた訳ではありませんから」
「……そうなのか」
なんとも返答や次なる話の転換に困る相槌を打つ優に、理奈は無意識のうちに疲れた笑みを浮かべていた。
誰かの手の平の上で転がされている感覚が我慢ならない。だから、理奈の承諾を得ずに勝手に話を進めた元凶に文句を言おう、だなんて。
それこそ、間抜けな滑稽さで呆れた話だ。優の企てを事前に察する事も出来ず、すっかり外堀が埋め立てられてからようやく気がつき、その時点で騒ぎ立てたところで所詮は負け犬の遠吠え。
彼の独断専行を不服に思うのなら、理奈は自力で優の動きを察知して、周囲へと影響が及ぶ以前に敢然と撥ね除け、踏み潰しておかなければならなかったのだ。それをせずにいたくせに、今になってグダグダと優に文句を言ったところで、いったい何になるというのだろう。
「このアパートへは、公宏が亡くなってから引っ越してきたんです」
別段、長年暮らしてきたこのアパートから離れるのが名残惜しいという訳でもない。
昔から言い古されているように、正しくうまい話には裏がある。優氏が裏でお膳立てしたアパートに引っ越したら、益々彼に理奈や娘達の生活が掌握されるようで気に入らない。
「長谷川さん、ご実家でご両親と暮らす、という選択肢もあるのではないか? あるいは、ご夫君の……」
「夫の家には頼れません」
優はいかにも常識的な提案をしてくるが、理奈は思わずピシャリと拒絶していた。
彼らは決して悪い人間ではない。だからこそ、憎んだり嫌ったりしたくはない。疎まれたり邪魔者扱いされたくもない。
弟にも両親にも、これ以上迷惑は掛けられない。
どこまでも八方塞がりで、理奈に残された道は細くて薄暗く頼りない。その上、その先に続いているのはタヌキが用意した張りぼての宮殿だ。
どんなに力が欲しいと願っても、無力な理奈は力ある存在に屈従するしか、頼りなくも自分の足で歩いていける道が無いのだろうか。
結局、宇佐木優氏に抗議するという怒りの根底が見えてしまえば、理奈に残されたものは意気消沈した見苦しいプライドの燃え滓だけ。
娘達を守ってやらねばならないのに、孤独な彼女がどれほど足掻こうと、大きな波がひとたび襲ってくれば、木の葉のようにただもまれて流されてしまう。
引っ越しはなるべく早い方が良いと大家さんにお願いされ、同じボロアパートに住んでいた一同は、早々に荷造りを済ませて引っ越し業者さんのお世話になる事になった。
元々、理奈が借りていたアパートの住人はそう多くない。お隣のお部屋は気のいい老夫婦で、その更に向こうに新婚アツアツカップル、下階に当たる一階に、お勤めが大抵夜勤勤務な警備員の若いお兄さん、ジムのインストラクターだというマッチョなアニキ、出掛けているところを見た事が無い、分厚いレンズの眼鏡がチャームポイントな引き籠もり青年という、いかにもお金に余裕がありそうとは言い難い顔ぶれである。
理奈の親戚……と言っても良いのか、多少判断に悩む優のやり口のせいで、気のいいご近所さんな彼らにまで迷惑を掛けてしまって、本当に申し訳なさでいっぱいである。とはいえ、彼らは多かれ少なかれ、今回の話を喜んでいるようであったが……
新しいお部屋に歓声を上げながら荷解きにかかる咲来と佳音の姿に目を細めてから、理奈は和室の片隅の仏壇に向き直り亡き夫の写真を飾った。無言のまま、両手を合わせる。
(あなた……)
どんなに理奈が心の中で声を掛けても、公宏は応えてくれない。それでもただ、そっと目を閉じた。
そうしてしばらく心の中の公宏に語り掛け、再び荷解きに戻った。
新しい部屋に引っ越してからも、相変わらず遠方に住む長谷川家の義母からの電話は絶える事がない。むしろ、最近になって以前よりも電話が掛かってくる頻度が上がったような気さえする。
資格試験や研修などを経て、勤め先での仕事ぶりが認められて無事に正社員登用を果たした理奈は、その日の夜も、遅くまで本部に提出する書類と格闘していた。
彼女の勤める企業は、国内にチェーン店を展開する大規模なスーパーマーケットチェーンであり、お客様により良い売り場や商品を提供するべく、斬新な発想や企画を常に求めている。社員となったからには、そういったアイデアを定期的に送る事もノルマに含まれてしまうのだ。
「やっぱりこう、季節感を先取りした商品ディスプレイ……は、真っ先に皆考えてるし。
出入り口近くのエントランスで、新商品試食会とか、注目を集めそうだけど……夏だし、冷たい飲み物とか? で、それに併せて冷房温度設定を変えて節電……」
自分でもこの案のまま提出したところで採用される気がしない理奈だが、やはり時代は節電を求めていると考えるのだ。だから、何としてでも節電に繋がるアイデアを捻り出したいが、浮かんだのがこれだけだった。
また明日、チーフに相談してみようと一息ついた理奈が、暗い廊下を静かに横切り娘達の部屋の前を通り掛かると、子供部屋のドアは僅かに隙間が開いていて、室内灯の光が漏れ出ているではないか。
(あの子達ったら、こんな時間まで夜更かし?
もう、明日も学校なのに)
早く寝なさいと声を掛けるべく、ドアに手を掛けた理奈の耳に、室内で交わされる会話が聞こえてきた。
「……でもさ、交通いじえんじょ? だっけ。それがもらえるんじゃないの?」
「ダメ。それも調べたけど、高校からみたい」
「でも、その学校もしょー学金せいど? があるんだよね?」
「入学支度金貸付もね。奨学金は入学してから家計に急変があった場合、は書いてあるけど……
やっぱり、無理なものは無理なのよ。ほら、この話はやめやめ」
「……やだよ、そんなの! お姉ちゃん頭いいのに、どうして行きたい学校にいけないの?
ママにそーだんした方がいいよ!」
佳音が駄々っ子のように声を大きくして、咲来は「しーっ」と、静かにするようにと言い含めながら宥める。
「い~い? 佳音。うちは貧乏なの。お金が無いの。
公立なら学費の負担は諸々の助成金もあるし、きっと遣り繰り出来るわ。
私立中学は余裕がある家の子が通ってれば良いのよ。別に高校からだって入れるし」
「でも、お姉ちゃん」
佳音が悔しげに反論したそうに口を開く。しかし、結局は言葉が見つからないのか、次の台詞が出てこない。
理奈は薄く開かれていたドアの取っ手を握って、ゆっくりと押し開けた。
物音に気付いた娘達は、同時に振り向く。
「ま、ママ……」
「ママッ!」
咲来は『マズいところを見られた、まさか話を聞かれた!?』と、あからさまに狼狽えて、佳音は喜び勇んで飛び付いてくる。理奈はしっかりと、佳音を抱き返した。
「咲来ちゃん、とっても大切そうなお話みたいね。ママにも聞かせてちょうだい?」
「何でもないの、本当に何でもないのよ、ママッ!」
「だいじなことだよ!」
半分泣き出しそうな表情で、咲来は懸命に首を左右に振る。しかし、妹の佳音は決してこのままうやむやにさせてはならじとばかりに食い下がって、姉の誤魔化しを否定する。
理奈は佳音をかき抱いたまま、咲来の方にも腕を伸ばして娘達をギュッと抱き締めた。
「咲来ちゃん、お金の事で不安に思う事なんてないわ。
ママお仕事頑張るし、パパが残してくれた貯金だってあるもの。咲来ちゃんが通ってみたい学校って、どんなところ?」
咲来は学習意欲旺盛で、スポーツにも学業にも人一倍打ち込む頑張り屋だと、理奈は鼻が高い思いでいた。
賢い娘だからこそ我が家の家計に遠慮して、ワガママさえ言い出せないでいるのだという事を、母でありながら失念していた自分が憎い。
「ご飯はどうしても質素になりそうだけど、その学校と話し合っていい方法を皆で考えましょう?」
娘達は理奈に残された宝だ。経済的な理由で、学びたい学校への受験を断念させるだなんて事態には、絶対にさせたくない。
「えっ、ごはんマズくなるの!?」
「それどころか、おやつも無しね」
「おやつなし!?」
母や姉の言葉に、佳音はこの世の終わりのような顔をしているが、大丈夫だろうか。姉妹の絆に小さくも深いヒビが入ったような気もする。
とある公休の日の午後、理奈は不可解な思いで指定された喫茶店へと足を運んでいた。
駅前にある、高級感溢れる雰囲気でお値段も素敵におハイソなその店は、普段の彼女ならば「あら素敵なお店」の感想一つを抱いて通り過ぎるぐらいで、この店を利用しようなどとは夢にも思った事がない。
しかし、彼女を呼びつけた『某氏』こと宇佐木優氏には、確かに喫茶店一つをとっても、このランクの店がお似合いなのだろう。
澄んだ音を立てるドアベルのさえずりを聞きつけ、品の良い給仕さんに出迎えられた理奈は、待ち合わせの人物の下へと案内された。
直射日光の当たらない、しかしガラスの向こうに咲き乱れる花々や通りを行き交う人々を眺められる席に先に着いていた優は、ノートパソコンのキーボードをカタカタとリズミカルにタッチしていた。人の気配に気がついたのか、ふと顔を上げる。
「やあ、長谷川さん。休みの日に呼び出してすまないね」
「いえ、仕事がある日に呼び出されても困りますし」
むしろ理奈としては、何故優が彼女の勤務予定を把握しているのか、の方が気にかかる。
パタンとノートパソコンを閉じた優は、理奈に正面の椅子に座るよう促し、メニュー表に目を走らせる彼女に、「ここの店はウィンナーコーヒーが美味いんだ」と勧めてきた。
正直、コーヒー豆の種類やドリップ方法がどうのこうの、といった話にはとんと疎い、お湯に粉を溶かして飲むインスタントコーヒーぐらいしか身近に接していない理奈としては、何を頼めば良いのかサッパリと分からない。なので、勧められるままウィンナーコーヒーを頼み、改めて優と向き合った。
「それで、宇佐木さん。お話ってなんですか?」
閑静な店内には彼らの他に客の姿も見えず、落ち着いたヴァイオリンソナタが心地良く聞こえてくる。そして、マスターがカウンターで注文のコーヒーを淹れている微かな音。
優は理奈の前に、何枚かの書類がホッチキスで纏められた束をスッと差し出してきた。
そこに書かれた文字に、理奈は食い入るように見入る。
「……これは……」
「君の婚家、長谷川家の調査報告書だ」
淡々と良心の呵責無しに告げる優に、理奈は唇を噛みしめた。
「勝手に調べたんですか……!?」
「先日の君からの電話は不可解極まりなかった。
私なりに解釈した結果、あれは長谷川さんなりの、亡きご夫君のご実家に関連するSOSだと判断した。しかし、君は多くを語ろうとはしない。よって、当たり障りのない範囲を調査させたまでだ」
「そんなの、頼んでいません」
優の利用している興信所は、どれだけ優秀なのだろうか。長谷川家の内情は事細かに記載されており、理奈が知らないような情報さえ載っている。
だが、だが理奈は、決して優にそんな事をしてくれと頼んだ覚えなどない。彼はどこまで独断専行するつもりなのだろう。
『長谷川家のご夫妻には息子が三人。三男が公宏氏で、ご夫妻は現在長男夫婦、及び次男と同居中。
長男夫婦の仲は険悪かつ離婚間近で、高校生になる息子は家に寄り付かず友人宅を泊まり歩き、たまに帰宅しては祖父母に小遣いをねだるか、暴力を振るう。
次男は昨年失業して以来、実家から一歩も外に出ず』
「こんな状況で佳音さんを引き取りたいと申し出るとは、随分と剛毅な方々だな」
「どうして、それを」
やれやれ、と肩を竦める優を睨み付けるも、彼は何の痛痒も感じていない素振りで書類を数枚捲り、とある一点を指先で軽くトントンと叩いた。
最悪な事に、そこにはしっかりと理奈の義母が執拗に佳音を呼び寄せたがっている、という情報まで書かれている。
咲来を欲しがっていた貴方が言えた義理なの、とは、理奈には口に出す事が出来ない。何故ならば優は、一度たりとて『咲来を我が家に迎え入れたい』と言った事は無いのだ。学費や生活費を援助したい、とは、幾度も耳がタコになるほど言われたけれど。
「彼らが佳音さんを欲する理由は、だいたい見当がつく。
大方、亡き公宏氏の遺したものを本来受け取るべき佳音さんの手元から掠め取り、長谷川さんからは養育費と称した年金でもせしめようという腹だろう」
「やめて下さいっ」
理奈も薄々、もしかしたらと疑っていた予想を抉るように優から指摘されて、語調を強めて遮った。しかし優はやはり、軽く片方の眉を上げただけ。
「情報や人脈とは大いに活用するべきだと思わないか、長谷川さん。
可愛い娘を、こんな家に送り出すべきではない」
「貴方に言われなくても私は初めから、お義母さん達に佳音を渡すつもりはありません」
「志は立派だが、突っぱねるだけで問題が解決するのならば世話は無い」
「……何が仰りたいのですか」
ふ、と小さく笑みを浮かべながら、優はコーヒーカップを口元で傾ける。それを合図にしていたかのように、理奈の前にウィンナーコーヒーが運ばれてきた。カップの上にたっぷりと乗せられた生クリームは、コーヒーと接している部分がジワジワと溶け込んでいく。
給仕が離れていくのを待って、優が唇を開いた。
「根本から解決しなければ、この手の問題は禍根を残す。
……長谷川さん。君は彼らと縁続きになった以上、自分は無関係だと知らぬふりを決め込む事は難しいだろう」
「だから、私にどうしろと仰りたい?」
生クリームをスプーンで掬ってその味に内心感嘆しながらも、理奈は迫力負けしないように優をジッと見返した。
「忘れたのか? 君は私に多大なる貸しがある。こんな時に私を使わずして、いつ使う?」
「生憎と、宇佐木さんに何かを貸した覚えはありません」
即座に断りを入れると、優は唇を緩めた。
「君はもっと、貪欲になって良い筈だ。利用出来るモノは大いに利用したまえ。自分と娘達の平穏を脅かすものを排除する為には、なりふり構わずにな。
何故なら君は、母親なのだろう?」
余裕綽々にコーヒーを楽しむ優からは見えないテーブルクロスの陰で、理奈は拳を握り締めた。
ここで優の手助けを断るという事は、理奈の矜持を優先して咲来や佳音の幸せに翳りをもたらす事だと、彼は遠回しに匂わせているのだ。
「『排除』とは不穏なお言葉ですが、何をなさるおつもりですか?」
「それは彼ら次第だが、何も日本から追放したり危害を加えるという意味ではないよ」
震える声で「どうかよろしくお願いします」という一言を絞り出すのに、理奈はしばし時間が掛かった。
公宏と結婚式を挙げた日の事が、遥か昔のように感じられる。
あの日、空は晴れ渡っていて、理奈は期待と喜びで幸せいっぱいの花嫁だった。
手を取ってくれる夫の顔も誇らしげに輝いていて、参列してくれた親族や友人知人達の誰もが晴れやかな笑顔で祝福してくれた。
これから先、こんな幸せがきっとずっと続いていくのだと、『それから二人は、永遠に幸せに暮らしましたとさ』で締めくくられるおとぎ話の結末の場面のようだと、本気で柄にもなく感じていた。
祭壇の前で誓い合った言葉は本気であるのに、理奈を残して公宏は呆気なく先に逝ってしまった。
「……私を利用する事を、長谷川さんは本当に気にする事はない。君のご夫君がなさっていたであろう事を、愚弟に代わってやり遂げねばと考えているに過ぎない。
君が望む望まないに関わらず、私は長谷川さんの味方だ」
「……宇佐木さんは、本当に誰も彼をも過大評価する傾向にありますね」
「私は直接お会いした事はないが、ご夫君は立派な方だったのだろうな」
「ほら、また」
公宏の死を残念そうに語る優に、理奈は苦笑を浮かべた。
「私の夫は、スーパーマンじゃありません。実家の問題を『なんとかしてみせる』と、言い切れたかどうか」
ワタワタと慌てて、親身に心配して、結局は諸共に転げ落ちていく姿が目に浮かぶようだ。何故なら彼は、非情になどなれない、とてもとても優しい人だったから。
だからこそ彼は、理奈を残して先に逝ってしまった。
「……話は変わるが、先日、咲来さんと共にオープンスクールに参加したそうだね」
しんみりした空気に耐えきれなくなったのか、予定時間が押しているのか、優はやや強引に話題を変えてきた。
理奈としてもそれ以上突っ込まれても困るので、その転換に乗っかり頷く。
「ええ、翔 (しょう)君から聞いたんですか?」
「ああ。彬 (あきら)からもね。咲来さんはとても熱心に見学していたそうじゃないか」
優氏の四人いる息子達の内、上三人は全て咲来が受験したいと考えている私立の学校に通っているらしい。咲来とクラスメートである四男の翔も、そちらを受験予定であるとの話で、先日共に私立中学の見学に向かったのだ。
その際に確かに三男の彬とも顔を合わせた。
「あの学校は設備もセキュリティーも申し分ないし、カリキュラムや教師陣も充実している。
何より、通学時間がさして掛からないのが魅力的だ」
「え、一番評価するところがそこなんですか?」
どこの学校でも選び放題な優が息子達を全員入学させたいと思っている辺り、よほど素晴らしい教育環境が整っているのかと、密かに娘の見る目に感心していたのだが、最後に断言された一言に理奈はちょっとばかり拍子抜けした。
(全然似ていないようでいて、でもやっぱりこの人、響のお兄さんなのね……)
「咲来さんを受験させるつもりなのか?」
「あの子の意志が変わらなければ」
あくまでも選ぶのは咲来本人で、見学した感触としては咲来はとても心惹かれたようだった。学校説明会の際は理奈もまた熱心に質問し、学校の教育方針や校内の和気藹々とした空気に感銘を受けている。
問題の学費についても学校側は親身に相談に乗ってくれて、奨学金はやはり学期途中での家計急変で学費を支払うのが困難になったケースで適用されるようだが、咲来の入学試験の成績如何では特待生制度の適用を検討してくれるようだ。
(……いざとなったら、公宏さんと二人で「家を買おうね」って少しずつ貯めてた資金を、学費に充てれば……)
いつか家を買おうと地道に倹約に努めてきたが、これこそ使い時ではないだろうか。
娘の学びたいという強い気持ちを隠されてしまうような情けない母親でも、こればかりは娘に心配掛けずになんとかしてやりたい。
優は不意に、コーヒーに添えられたお茶請けのドーナツを、あむあむと無心に食べ出した。
「……甘い物、お好きなんですか?」
「私が甘党だと、何か不都合でも?」
ドーナツを食べる姿があまりにも、真剣かつ集中してじっくりと味わっているように見受けられた為、ついつい、聞かずとも言いようなどうでも良い質問がポロリと理奈の唇から零れ落ちた。
そして優は、甘党である事を何ら恥じている様子もない。
気まずさを誤魔化すべく、理奈は自分の分のお茶請けドーナツの皿を、試しにスス……と、優の手元へと押しやってみた。ウサギの皮を被ったタヌキの目が、気のせいでも見間違いでもなく輝く。
「よろしければ、こちらもどうぞ」
「良いのかね? 有り難う」
理奈がどうぞと促すと、間髪入れずに優は迷わずドーナツの所有権を受け入れた。この手の決断力と周囲の人間を操る手腕が、タヌキのタヌキたる所以なのだろうか。
あむあむと、二個目のドーナツも無表情のままじっくりと味わっているらしき姿にやや引きつつ、理奈はコーヒーに口をつける。生クリームが溶け込んだコーヒーは、インスタントとは比べ物にならないほど美味しい。
「長谷川さん。君にとっては受け入れがたいことかもしれないが、生活の負担にならないよう、私が学費を援助したい」
優が懲りずに言い出したお決まりの台詞に、理奈がコーヒーカップを静かにソーサーに戻すと、彼は軽く眉を上げた。
「またそのお話ですか。
保護者補助金制度も申請しますし……」
「そもそも、咲来さんがあの私立中学に興味を持つきっかけとなったのは、翔が受験すると話したからだろう」
「翔君は何も、咲来に『一緒に通おう』と誘った訳ではありませんよ」
小学校に入学して以来、ずっと咲来と仲良く友人付き合いをしてきてくれた翔は、ヨソの家庭事情も慮らずに悪気のない独り善がりな善意で友人へ私立中学の受験を勧めたりはしない。むしろつい最近まで黙っていたと、てっきり自分と同じように公立中学に進むのだろうとばかり思っていたと、咲来は憤慨していたぐらいだ。
「息子には引き込んだつもりはなくとも、関心を寄せる結果となったのは想像に難くない。
長谷川さんの事だ。なけなしの貯蓄を切り崩してでも、咲来さんを通わせてやるつもりだろう?」
「ええ」
迷わず頷く理奈に、優は「愚かしい事だ」と眉をしかめた。
瞬間的にムッと苛立ちが掻き立てられて、彼女はそれを表に出さないように懸命に抑える。
「娘の学費の為に節制を行うのは、なるほど素晴らしい心掛けだ。しかし、それで緊急事態が起きたらどうする?」
「緊急事態、とは?」
「例えば……咲来さんの学費を支払ったばかりのタイミングで、佳音さんに緊急手術の必要がある重度の疾患が発見されたら?」
「なっ……!」
なんという例えを出すのだと言葉を失う理奈に、優は表情を変えずに更に追い詰めてくる。
「君もよく分かっている筈ではないか? 『災難はいつ何時、降りかかってくるか分からない』
目の前の問題だけを解決しても、より大きな難問が湧き出ないとは限らない。その時君は、手術費用が工面出来ないという理由で、佳音さんを見捨てるのか?」
「そんな事は!」
「では、その時にはどうすると言うつもりだ?
今度こそ、実家や婚家に泣きつくのかね?」
ガタンッと、思わずテーブルに両手をついて椅子から立ち上がった理奈を、優は平静な眼差しで見上げる。
咲来を必ず、特待生として入学させてくれると確約を取り付けた訳ではない。予め枠が設けられた制度でないのならば、過剰な期待や楽観視は危険だ。
理奈の給料や公宏が遺してくれた貯金、それだけで諸々の生活費に加えて私立中学の学費、更には予想外の出費……雁字搦めになって首が回らなくなる未来像に、理奈は唇を噛みしめた。
オープンスクールを体験した時の、咲来のキラキラと輝く瞳を、理奈には曇らせるしか出来ないというのか。
「子供のより良き暮らしの為に、下らないプライドは捨てたまえ、長谷川さん。
古来から、優秀な人材を育成するべく後援者がつく事は珍しい事ではない。いわゆる……あしながおじさん、か?」
プライドでご飯は食べられないし、娘達に服や小物やオモチャを買い与えてやる事も出来ない。
「あなたはそうやって支援を申し出て、いったいどんな見返りを要求するつもりなの?」
いっそ、彼は理奈にとっての極悪人だったら良かったのに。
「さて、見返りと言われてもな……長谷川さんが差し出せる範囲の物品を、わざわざ遠回しに君に要求しなくとも、私が直接買った方が早い。
私からいちいち頼まずとも、君は咲来さんや佳音さんの良き母であろうとするだろう? だから、何も無いな」
お互いに利益の出る取引、だと言うのならばまだしもマシだった。
誰でも良いから救いの手を下さいと、涙ながらに祈っていた最中に拾い上げられたのなら。
しかし、優は理奈が持たない力を誇示するでもなく的確に使いこなし、『誰も助けてくれなくったって、私一人でやれる!』と、虚勢を張る理奈の背後から、彼は『肩の力を抜いて良いんだよ』と、囁いてくる。
(止めて。どうせ、中途半端な憐れみをかけて『君は一人じゃない』と言うくらいなら)
気がつきたくない。優の行動のせいで、娘達がそばにいるというのに、理奈が孤独であるという事なんて。
天国へと至る門は狭すぎて、永遠を口にした公宏は、彼女を置いて足早に昇っていってしまった。
「学費の援助について、前向きに考えておいてくれ」
結局は、優の言葉にただ黙って頷くしかない。
理奈は無力で、素地も築いていない身でありながら、娘の望む学校に通わせてやりたいと高望みして、期待させてしまったのだから。
コーヒーを一口飲み、理奈は自らの心から目と話題を逸らしにかかる。
「ああ、そうそう。私、無事に正社員登用されたんですよ」
「そうか、それはおめでとう」
「制度の周知徹底とやらで、特別に何年も遡って申し込めると言われて、社の助成金や入学祝い金も、給付されましたよ」
「それは元々、長谷川さんの給料から共済掛け金が引かれていたのだから、当然受け取るべき分だろう」
試しに、理奈の近況を立て板に水のごとく報告してみても、優はのらりくらりとしか返答しない。
「先日、ご近所を騒がせていた空き巣が捕まったそうです」
「小学校に匿名でベルマークが何百万点と届けられたそうですね」
「私の住んでいるアパートから、小学校に通う通学路の安全対策がどんどん見直されて、安心感が増しました」
理奈が何を告げても、優は「そうか」「そうらしいな」「それはとても良かった」としか答えようとしない。
絶対にこの目の前の男が一枚噛んでいるに違いないのに、彼はそれをおくびにも出さない。きっと、理奈が気がついていないところでも影で何かをやっている。
(……正直に、『こんな事をやったぜ』と功労者や支援者として名乗り出てくれていたなら、「ありがとうございます」って、言えるのに)
そうだとすれば、理奈が素直に受け入れていたかどうか、反発していたかもしれないけれど。優があちこちに働きかけて、住みよい暮らしに細心しているのだろうという事は想像に難くない。
ふと、話が途切れたタイミングを見計らってか、優はテーブルの脇に押しやっていたノートパソコンの傍らからminiSDカードを手に取った。パソコン用だとしたら規格が合わない。
彼はそれを、理奈に差し出してくる。
「君の携帯にも、microSDカードのスロットはあったと思う。これは昔、私がスマートフォンに機種変更する前に使っていたカードだ」
「何故、それを私に?」
そんな物をどうして寄越してくるのか。理奈には優の真意が今日もさっぱり分からず、眉をひそめてテーブルクロスの上で両手を組んだまま。
「……響が事故に遭う直前、何をしていたかは知っているか?」
「さあ……?」
「彼は、メールを打っていたんだ。途中までしか書き上げていないものが響の携帯に残っていて、私はそれを保存してカードに移しておいた。
長谷川さんの話を聞いてから、これは君に渡すべきではないかと、そんな考えがチラついて頭から離れないんだ。
気が進まなければ読まなくても良い。だが、これは君に」
いつまでも手を伸ばさない理奈の眼前に、優はminiSDカードをそっと置いた。そしてノートパソコンを腕に抱え、伝票を手に立ち上がる。
理奈もまた、慌ててコーヒーの残りを飲み干して彼を見送る為に立ち上がった。
自分の分は自分で払おうと考えていたのに、優は彼女に口を挟む隙を与えずサッサとカードで会計を済ませてしまう。
「今日はコーヒーに付き合ってくれてありがとう、長谷川さん。仕事があるのでこれで失礼する」
「コーヒーご馳走様でした。とても美味しかったです」
何はともあれ喫茶店の前でお礼と共に頭を下げると、優は子供の前ではないというのに、珍しく頬を緩めた。
「いや……それから長谷川さん。大切な事を伝え忘れていた」
「はい?」
優はポケットから丁寧にプレスされたハンカチを取り出し、あろうことか理奈の上唇の辺りをそれで拭う。
何事だ? と、ポカンとして見上げる理奈を見下ろして、優は笑いを堪えながら続きを口にする。
「ウィンナーコーヒーを飲んだ後は、口元を拭いた方が良い。クリームが立派な髭をつけてくれるから」
一瞬、理奈は優の言っている事の意味が分からなかった。二呼吸ほど時間を空けてから、ようやく脳に浸透してくる。
「宇佐木さんっ! 私がコーヒー飲んでる間、ずっと人の顔見て笑いを堪えてたんですか!?」
しかし、理奈が文句を叩き付ける頃には優は駐車場に停めていた車に既に乗り込んでおり、彼女の罵声など涼しい顔で受け流す。理奈に軽く手を振って自動車は発進していった。
(あ、あの男~っ!?)
優氏はやはり、海千山千の古タヌキである。
――つー訳で、盗んだ自転車で走り出す~!
――って、それ盗んだの!?
――ノリ悪ぃぞ理奈! これは俺のチャリ! いざ、あの夕陽が沈む水平線へ向かってダッシュだ!
――アホか。海や湖を水平線って言うんです~。
あれは……ビル群線?
――びるぐんせん……美しくねえっ! よって、俺達は海を目指す!
――そう。一人で逝け。
不意にパチッと目を開いた理奈は、むくりと布団の上に上半身を起こした。
「……変な事思い出したわ」
昔の夢を見る事はあっても、それは大抵が公宏が笑顔で「行ってきます」と仕事に向かう最後の朝の光景であり、理奈はこれは夢だと分かっているのに行かないでくれと叫ぶのだ。決して届かない手を伸ばし、振り向かない背中は無情にも閉じゆくドアの向こうに消えてゆく。
それが、今日はあの不肖の友ことアホボン響との、学生時代のお馬鹿な体験を夢に見るとは。あの後理奈は結局、制服のまま響の自転車後部に強引に座らされて、一緒に海にまで自転車を交代で漕がされたのだ。到着まで一時間以上掛かって「海行きたいなら電車使えよバカ」と、道中何度彼の後頭部をはたいた事か。
何故そんな夢を見たのか、原因は嫌と言うほど分かっている。
優から押し付けられて、自分の携帯にその場で差し込むつもりにもなれず、カバンの中に放り込まれたままであるminiSDカードの、その中身のせいだ。
どうせあのバカが書こうとしたメールだからロクな内容の筈がないとは思うのに、ある意味響の遺品であるそれを、理奈はどういう理由を付けて優に押し返せば良いのか。
カバンのポケットから引っ張り出したminiSDカードを手に、理奈はしばらく迷った。
読むべきなのだろうか。
理奈の中で響の遺言が書き換わるのか、それとも彼を友人だとすら思いたくなくなるかもしれない。
被せられた互換用のケースを外して、簡単に無くしてしまいそうなぐらい、小さな小さなmicroSDカードを取り出した。携帯に差し込むスロットの場所は、よく分かっている。
カチリと、それは呆気なく彼女の携帯に挿入され、SDカードがセットされた事を示すアイコンが待ち受け画面に表示される。
カチカチと携帯を操作して、SDカード内のメールフォルダを開くと、保存数は未送信メールが一件。
少しばかり、指先が決定キーを押すのを躊躇った。カチリと、静かな室内に小さな音が響く。
『こんな事、書いても良いものか分からねえ。俺はまた、カッとなって言っちゃマズイ事言っちまった。もう二度とって、約束したのにな。
なあ、でんわしてもいいか』
タイトルは無く、最後の文節は未変換のまま。
恐らく漢字変換をしようとした正にその時に、このメールを書き込んで操作されていた携帯は宙を舞ったのだ。
響が誰宛てに認めていたメールだったのかは、分からない。弟の携帯に残された書きかけのメールがバッテリー切れで消滅する前に保存して、自分のSDカードに移した優はもしかしたら知っているのかもしれないが、この未送信メールの宛先は未設定のままだ。
「……バカ響。
何で、メール打つのに夢中で、後ろから衝突されたりしてんのよ」
あの言葉は彼の本心なんかじゃないと、理奈はずっと分かっていたつもりだった。
彼が生きていて謝ってきたら、響が口にした中で一番腹立たしいバカ台詞だと、そう吐き捨てて鼻息も荒く蹴りつけていた筈なのだ。
けれどもそれを確かめる術はとうに無く、降り積もって徐々に堆積していく何かが、呼吸を妨げ理奈の心を押し潰そうとしていて。
事故に遭う直前、響が何をしていたのか。誰に何を言ったのか。優はこの途中で途切れたメールを抱え、長年、弟の真意を知り得ぬままでいたのだろう。そうして理奈からあの言葉を聞いた。
窓の外に目を向けると、まだ明け切らぬ空は薄暗い灰色の世界。
理奈は再び目線を携帯画面に転じ、クリアキーを押してメールフォルダを閉じようとしたのだが、ふと、メールフォルダ以外にもデータが保存されている事に気がついた。
個人情報の流出には細心の注意が必要なのにと、中身をよく確認もせずに他人にSDカードを手渡した優に、呆れた感情が湧き上がってくる。意外と、抜けてるところがあるのだろうか。
これを理由にこのカードを返そうとユーザーフォルダをクリックすると、保存されているデータはブック。
そしてフォルダ名をよくよく見直してみると、『長谷川さんへ、号泣できる本です』と書かれていた。
電子書籍の類だろうか、開いてみたブックのタイトルは聞いた事が無い物だった。
しかし、あのタヌキ親父がわざわざ仕込んできたらしきブツだ。いかほどの物か、『たいして泣けなかったわ』と、鼻先に叩き付けてやるべく内容に目を通し始めたのだった。
「ママ、朝だよ。おはよう!」
ノックもそこそこに咲来が部屋に駆け込んできて、理奈はハッと携帯から顔を上げた。
慌てて辺りを見回してみれば、燦々と降り注ぐ朝日に照らし出される室内はすっかり明るくなっている。夢中になって電子書籍を読み耽っている間に、朝の支度に取り掛からねばならない時間になっていたようだ。
「ママ……泣いてたの?」
心配そうに顔を覗き込んでくる咲来に、理奈は安心させるように微笑みかけた。
「ええ、涙が出るほど笑える本を、知人から借りてね。
ごめんなさいね、ママ、つい爆笑しちゃって。うるさくなかった?」
「ううん、全然聞こえなかったから平気。早く朝ご飯にしよ? 佳音がご飯ご飯騒ぎ立てて、もう手に負えない」
携帯を充電器に繋いで、理奈は手早く娘達の朝食の支度に取り掛かった。
(全く……あのタヌキ親父は、やることなすこと私の予想外な事ばかりだわ)
彼の流儀に沿った言動は、理奈には全く対策のしようもない事ばかりで、身構えても警戒しても、結局は簡単に翻弄されてしまう。
朝まだきからご近所迷惑にならないよう、クッションを口に当てて涙が出るほど大声で笑い転げさせられて。肩が少しだけ、軽かった。
長年この会社に勤めていけたのは、ひとえにシングルマザーに対して出来うる限り配慮してくれる、という点にある。
そして理奈が借りているアパートの住人は本当に親切な人達で、忙しくなる日は事前にお願いしておけば、お隣の老婦人は娘達を預かってくれるし、夕食まで振る舞ってくれる。
いつもダボついた服を着ている髪を伸ばしっぱなしの引き籠もり気味青年でさえ、話によると咲来や佳音に時々お菓子をくれるらしい。
そんな訳で、今日も一時間の残業を終えて理奈は隣人宅に携帯で電話を入れた。
これから帰ります、今日も娘達を見て下さって本当にありがとうございますと、電話先で感謝を伝えると、気のいい婦人は気にするなと、ころころと電話口で笑い声を響かせる。
電話越しに、婦人の夫と咲来と佳音の笑い声が聞こえてきた。どうやら、三人で一緒に何かのバラエティー番組を視聴しているらしい。
さあ早く帰ろうと、いそいそと店舗裏の従業員用駐車場の片隅に置いておいた愛車のママチャリに跨がったところで、理奈はふと、見知った人影が視界の片隅を横切った気がして、公園の入り口をじっくりと見つめた。
ランドセルを背負って人気の無い公園に足を踏み入れる少年の後ろ姿には、やはり見覚えがある。
「あれは……翔君?」
優氏の末息子、溌剌かつ利発な少年で咲来の長年の友人である宇佐木翔少年だったような気がしたのだ。
夏場であるし、まだ完全に日が暮れた訳ではない。
別に、子供が表で遊んでいても何らおかしくはない時間帯であるが、友人が多い彼が学校帰りに一人でわざわざこんな侘びしい公園、それも学校と彼の自宅を結ぶ道沿いに全く重ならず、方角が異なるところへ向かうというのは解せない。
余計なお節介かもとは思ったのだが、理奈は自転車の鍵を掛け直して、翔の姿を追い掛けて公園に足を踏み入れた。
狭くて遊具もあまり設置されておらず、住宅街の真ん中にポツンと取り残されたようなその公園には誰も利用者がおらず、目に付くものと言えば木陰のテーブルとベンチや、精々理奈が入った方とは反対側の出入り口に灰色のバンが不法駐車されているぐらいだ。
翔は公園を横切りながら、園内をぐるりと見回した。そして、後から追い掛けてきた理奈と目が合う。
「……理奈さん?」
「今晩は、翔君。どうしたの、こんなところで」
公園の反対側でようやく少年に追い付いた理奈は、小さく肩で息をしつつ問い掛けた。
「え、もしかして理奈さんがおれを呼び出した……ワケ無いか」
翔はひとりごちてから、理奈に向き直った。
「咲来に呼び出されたんです。話したい事があるから、この公園に来てくれって」
「咲来が?」
「はい。今日はおれ、部活だったんですけど、帰ろうと思ったら咲来からのメモが下駄箱に入ってて」
「まあ、翔君とお話がしたいのならこんなところにわざわざ呼び出さなくても、家に呼んでくれたら良かったのにね。咲来ちゃんったら。
でも、どうして学校で話さなかったのかしら?」
「多分受験の事だと思うんですけど……」
毎日学校で会っている友人を、わざわざこんな人気の無い公園に呼び出す娘の考えがよく分からず、首を捻る理奈。翔はどことなく言いにくそうに、上目遣いに彼女をチラチラと見上げた。
ふと見上げれば空は茜色に染まりつつあり、日没まで一時間と無さそうだ。
「それならもしかして私がここに居たら、咲来が姿を見せづらい……かしら?」
咲来はどうしても、理奈に遠慮してしまう傾向にある。
翔に中学受験の事で相談だなんて、もしかするとやはり長谷川家の家計を慮ってやっぱり取り止めると言い出すのだろうか。それとも、兄達が通っており評判を知っているであろう翔に、どんな学校なのかを詳しく聞き出したいのだろうか。
(いやいやもしかすると、受験云々は単なる口実で、咲来は思い切って翔君に告白……!?)
「翔君、携帯は持ってるのよね?」
「はい。暗くなる前にちゃんと帰ります」
「咲来の事も、日があるうちに帰してあげてちょうだいね。
それなら私、これで帰るわね」
「はい、さようなら理奈さん」
「またね、翔君」
娘の春か? そうなのか? 翔君はとても良い子だけれども、これは全面的に諸手を上げて喜んでもよい事なのか?
と、微妙に複雑な気持ちを抱えつつ、理奈は踵を返して公園の出入り口を見やった。サラリーマン風の男が公園前の道を横切るぐらいで、まだ娘はここに来ていないようだ。
しかし、すぐに帰宅しようと早歩きでザカザカと歩き出入り口に差し掛かった所で、理奈はふと、(あれ?)と違和感を覚えた。
翔をメモでこの公園に呼び出したという理奈の娘は、今、隣人宅で妹と一緒にテレビを観ている。
友人と出掛ける約束をしたならば、待ち合わせ場所には約束の時間15分前には到着して待機するという、キビキビとした行動が基本の咲来にしては、翔が待っているかもしれないのにまだアパートに居るだなんて、珍しくルーズだ。
「ねえ翔君、もしかして、約束の待ち合わせ日時が違うんじゃ……?」
そう疑問を口にしながら振り返った理奈は、信じがたい光景を目撃した。
うっすらと夕闇に沈みだした静かな公園で、数人の男達が翔を羽交い締めにして口を押さえ、反対側の出入り口に向かって引きずっている。そちらにあるのは、ドアを開けて男達が翔を連れて来るのを待ち構えているバン。
「なっ、あなた達、いったい何をしているの!?」
数人の男達に掴み掛かられながらも、懸命に首を左右に振って手足をバタつかせる翔に向かって理奈は怒鳴りつけながら猛ダッシュ。
黒っぽい服と、顔を隠す意図があるのか帽子やサングラス姿という不審な男達は、理奈が気がついた事に面倒そうに舌打ちして……ポケットから短く細い棒のような物を取り出した。
「誰か、誰か来て!」
「ダメだ! 理奈さん逃げて!」
翔を取り押さえていたうちの一人が理奈に向き直ったお陰で口が自由になった翔が、懸命に叫ぶ。
「大丈夫だから! おれなら大丈夫だから!」
素顔をさらけ出さないよう隠している不審な男は、仲間に翔を任せて理奈に向かって棒を突き付けてくる。パッと灯り始めた頼りない街頭に照らされて、刃物の鈍い輝きが彼女の視界に飛び込んでくる。
(……ナイフ……!?)
時間の流れが妙にゆっくりに感じられる。目が、ナイフから離せない。それは真っ直ぐに、彼女に突き出されて……
甲高い悲鳴が理奈の唇から漏れ出て、恐怖で立ち竦んでしまっている彼女の目の前で、突如として刃物を振りかざしてきていた不審な男は、横っ飛びに吹き飛ばされた。すぐには理解が追い付かず、ギョッと目を見張る。
「やあ長谷川さん。無事?」
ええと、と無意味な言葉をモゴモゴと口の中で呟きつつ、理奈はカクリと首を上下させた。「危ないところをありがとうございます」と、舌をもつれさせながらも何とかお礼を口にする。
この危機的状況にどこかそぐわない、ヘラヘラとした笑みを浮かべて彼女の安否を気遣ってくるのは、見慣れたご近所さんである、一階下に住むジムのインストラクターだという筋肉自慢なあんちゃんである。
不審な男や理奈は全くヨソへと注意が向かっていなかったが、どうやら彼はいつの間にか公園のテーブルの影を回り込み、男が気がつかぬ内に側面から駆け寄ってマッチョの大ジャンプ&キーック! を、まともに食らったらしい。
ホッと安堵しかけ、慌てて翔はどうなったかと園内をキョロキョロと見回すと、不審な男達を取り押さえている……これまた見覚えのあるご近所さんな、らぶらぶカポーの姿が。奥さんからは普段のほわほわんとしたハートマークな雰囲気が消え失せて、不機嫌そうに目を細めて不審人物の腕を背中から捻り上げている。
翔は彼らから少し離れた地面の上に、尻餅をついていた。
今度こそホッと息を吐きながら、理奈は少年の傍らに駆け寄って片膝をつき、顔を覗き込んだ。
「大丈夫、翔君? どこか怪我は無い?」
「はい、大丈夫です。おれのせいで怖い思いさせてしまって、ごめんなさい、理奈さん」
危うく誘拐されかかった直後だというのに、翔は意外なほどしっかりと受け答えしつつ立ち上がり、理奈に深々と頭を下げる。
「ターゲット確保。車は?」
「仁科が追跡中。画像は送信済みです」
「警察の到着まで、後五分ほどだそうです」
「了解」
理奈は、傍らでご近所さん達が一見サラリーマン風の男に淡々と状況を報告している光景を、半ば呆然と眺めた。
サラリーマン風の男の顔には全く見覚えが無いが、何となく声に聞き覚えがあるような……と、記憶を懸命に探りつつ眉間に皺が寄る。
そんな理奈が見詰める先で、彼はスーツの胸元に軽く口元を寄せ、平坦な声音を発した。
「状況完了。そちらに異変は?
……了解。これより通常ケースに移行する」
よくよく目を凝らしてみると、サラリーマン風の男の耳にはイヤホンが装着されている。
「班長~、要警護者から班長ガン見されてますよー?」
「クックック……バレてしまっては致し方ない。そう、我々は日夜、人々の都会の暮らしを影から見守る正義の戦隊ヒーロー! ……あてっ!?」
マッチョが不審人物その一その二を押さえつけつつ、ケラケラと笑いながらサラリーマン風の男に話し掛け、らぶらぶカポーの片割れ男は謎のポーズを決めて世迷い事をのたまい、奥様に後頭部をはたき倒されていた。
「助けて下さって、ありがとうございました」
翔は一同に向かってペコリと頭を下げ、サラリーマン風の男がリーダー格だと判断したのか、彼をひたりと見上げる。
「民間企業のガードの方々ですよね? 上手く撒いたと思ったんですけど……」
「生憎ですが坊ちゃん。我々はあなたの警護チームではありません。今回はたまたまです」
翔の平然とした態度や、サラリーマン風男の発言に、理奈は何となく裏の背景が見えてきた。つまり、つまりは……彼らの言う要警護者とは。そして当然、依頼主は。
サラリーマン風男は、気まずげに理奈からぎこちなく視線を逸らした。その錆び付いたロボットを彷彿とさせる仕草に、理奈の脳裏にハッと思い当たるものがあった。
(……伸ばしっぱなしのボサボサ頭と牛乳瓶の底眼鏡の、引き籠もりさん!?)
一歩も表を歩かないのかと思いきや、変装上手な班長さんとやらは素知らぬ顔をして、余所行きの格好で理奈の周辺を徘徊していたらしい。
彼らはあくまでも民間の警備会社の社員であり、犯罪者の逮捕権はないのだそうで、駆けつけた警察官に誘拐未遂犯のグループを突き出していた。
優の仕事の関係上、まだ幼い息子達を捕まえて彼に言うことを聞かせようとする過激な勢力もあるらしく、普段から翔達兄弟は夜間に出歩く際、民間の警備会社の人達が車で送迎するなど、警護してくれているらしい。
特に、末っ子の翔は一番狙われやすいから注意するようにと、口を酸っぱくして言い含まれているのだが……今回、誘拐を企む一味はどうやら翔の交友関係を調べ、親しい友人である咲来の名前を騙って人気のない場所へ誘き出したようだった。
警察が到着するまでの短い間に、そういった情報を淡々と語った翔は、肩を落とす。
「疑うべきだったんだ……咲来からのメモが下駄箱に入れられてるだなんて、おかしいって。
だってあいつに携帯番号とメルアド教えても、おれに電話やメールを寄越してくれた事さえ、一度も無いのに」
もしかすると友人だと思っているのは自分一人で、彼女は彼に僅かばかりの友情さえ感じていないのかもしれないと、寂しげに俯く翔に、理奈はオロオロと声を掛けた。
「あの、多分それ違うわ、翔君。
実はうち、固定電話引いてないの」
「え?」
「携帯は私しか持ってないし、だから多分……咲来は翔君には言いたくなかったのね。たとえ番号を教えて貰っても、掛けられないって」
咲来にだってプライバシーがある。いくら何でも母親の携帯を使って、翔とメールや電話のやり取りなどしたくなかったのだろう。
理奈の弁明に、翔はピシャリと自らの額を叩いた。
「おれ、そこまで思い至らなかった……情けねえ」
「……翔君!」
益々俯いてしまった翔だったが、不意に公園の出入り口から駆け寄ってくる人影が彼の名を叫ぶので、理奈もまた少年と共にそちらを振り向いた。
猛烈な速度で公園の砂を蹴立てつつ駆けつけてきたスーツ姿の男、優は翔の名を叫びつつ全力かつ脇目も振らずに息子に向かってタックルをかまし、哀れ息子は再び地面に尻餅をついた。
「翔君、翔君、怪我は!?」
「どこも怪我してないよ、父さん」
鬼気迫る形相で息子の怪我の有無を確認した優は、やおら翔の頬を叩いた。パァン! とかなり大きな音が、ビルに沈む太陽が茜色に染める公園に痛々しく響く。
「いつも一生懸命守ってくれている警護の人達の目を誤魔化して離れるなんて、何を考えているんだ、翔君!
その上、長谷川さんにまでご迷惑をかけて、危ない目に巻き込んで!」
「すみません……」
「もう二度とこんな事はしないと、パパと約束出来る?」
「はい。絶対に、二度と騙されたりなんてしません」
父親の目を真っ直ぐ見返し、翔は力強く頷く。
そして父と息子は、揃って理奈に頭を下げた。
「とんだご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「ごめんなさい」
「翔を助けて下さって本当にありがとうございます、長谷川さん」
「いえ、私は何も……」
翔の誘拐を企てた連中を撃退したのは、ガードの方々だ。(私、本当に口ポカーンと開けて突っ立ってただけ)
それさえも、理奈の預かり知らぬところでいつの間にか配置されていて、(ああ、彼らは皆、良き隣人だと信じて疑わなかったとも。オマケに、あの四人以外にも警護メンバーがいるらしいじゃない!)
きっと今までも、彼女の知らない間に様々な危険を排除していて、(もしかして、空き巣や痴漢を未然に撃退してくれてたのかしら?)
そんな彼らに支払われる給金だって、十中八九タヌキ親父の懐からだ。(疑う余地が無い!)
「すっかり遅くなってしまいましたし、送らせて下さい」と言い出す、ウサギの皮を被ったタヌキを呆然と見やりつつ、理奈は弱々しく首肯していた。
娘達は今頃、老夫婦宅でお夕食を頂いている頃だろうか……
理奈はこれまで、周囲の優しい人々の手助けを有り難く借りつつ、何とか女手一つで娘二人を育ててきたつもりだった。
しかし蓋を開けてみれば、それは理奈の完全なる思い込みや勘違いであり、ここまでやってこれたのは自分自身の力だけだとは到底言い難い。
親切なご近所さん達は皆、きっかけとしては仕事として割り当てられたからこそ彼女ら一家をとても深く気に掛けてくれていたのだし、娘達自身が親の手を借りずに自分を育て上げていった面もある。
理奈は再び優に呼び出されて以前共にコーヒーを頂いた喫茶店を訪れ、先にテーブルに着いて待ち合わせ相手の来訪を待ちつつ、ぼんやりとガラスの向こうを眺めていた。
今日も通りを行き交う人々は忙しなく、静かなピアノのソロ演奏が屋内を彩るこの喫茶店の中だけが、表の喧騒から切り離された別世界のようだ。
カランと、ドアベルが涼やかに音色を奏でた。
物思いから現実に返って、出入り口に目をやった理奈は、入店してきた優の姿にそっと瞼を伏せる。彼はぐるりと店内を見渡して、理奈の姿に目を留めると真っ直ぐにこちらのテーブルに歩み寄ってきた。
「遅くなった。待たせてすまない」
「いいえ、退屈はしませんでしたし」
理奈の真正面に腰掛け、優はメニュー表に目をやる。
給仕の人物がテーブル脇にさり気なく控えて、注文待ちの体勢を作った。
「ここの喫茶店のウィンナーコーヒーは、本当に美味しいですね?
宇佐木さんも、今日はそれにしたらいかがです?」
「そうだな。それを頂こう」
今日も前回と同じ物を注文していた理奈がカップから生クリームをすくい上げつつ、やや意地悪く優に勧めると、彼は一つ頷いてあっさりと同調した。甘党なだけに、ウィンナーコーヒーは好物なのかもしれない。
給仕の人物がテーブルから離れると、優は今日もホッチキスで留められた報告書を、バサリとテーブルの上に乗せた。
「君の婚家の最新情報だ。既に、本人達の口から聞いているかもしれないがね」
書類に記載された文面に目を走らせる。
長男夫妻は正式に離婚した事、彼らの息子は妻が引き取った事、次男がIT企業のプログラマーに採用された事。
「長谷川さんのお義父さんとお義母さんは、里親を探していた子犬を引き取って、新しい家族にすっかり夢中なようだね。平和で結構な事だ」
義父と義母はご近所の様々な同好会に参加して友人関係が広がり、更には多趣味になったようだ。
近頃、彼らからもたらされる電話の内容は『うちのワンちゃんを、きっと孫も気に入るよ。夏休みになったら遊びにおいで』だ。
「宇佐木さんは、この短期間であの人達に何をなさったのですか?」
理奈の疑問に、優は瞬いてテーブルに片肘をついて答える。
「私は彼らに何もしていないよ。何しろ、私は椅子に座って皆の話を聞いて頷いているだけの、単なる無能な張りぼてらしいからね」
嘘ばっかり、と小さく呟く理奈の声がふてぶてしいタヌキ親父に聞こえたかどうか。
優は提供されたウィンナーコーヒーを一口含み、満足そうに目を細める。
カップをソーサーに戻した彼の口元へくっきりと描かれた白い芸術に、理奈は遠慮なく吹き出した。
「宇佐木さん、お髭がよくお似合いですね」
「それはどうもありがとう。君の髭もとってもチャーミングだよ」
これから何十年も先も。
こんな風に、この人と差し向かいでコーヒーを飲む姿が、理奈には自然と想像出来た。
白い髭のお爺さんと白髪のお婆さんが、のんびりとコーヒーを嗜んでいても良いではないか。
理奈の遠く先の未来は決して独りぼっちなどではないと、彼はその時もこんな風に穏やかに寄り添っていてくれるだろうか。
そんな思いがふと、理奈の胸を過ぎったのである。
それから約一年後の、吉日。
優曰わく、細やかな……お式は派手にしましょうとノリノリな周囲を『再婚同士だし、控えめで』と懸命に説得し、理奈の目には絢爛豪華な華燭の典だったが、あれで控え目にしたらしい……結婚式を無事に済ませ、新しく家族となった宇佐木家一同は、共に祝いの晩餐を囲んでいた。
「父さんと母さんの結婚を祝して、乾杯」
長男の匡 (たすく)が代表して音頭をとり、口々に「乾杯」の声が上がり掲げられ触れ合わされるグラス。
まさか、こんなに早く再婚する事になるとは思わなかったな、と、理奈は花嫁本人でありながら内心非常に驚いていた。
優へと抱く感情は、公宏に向けていた心をかき乱す恋情とはまた違った、穏やかさに満ちた温かい気持ち。友愛や親愛に近い感覚であり、戦友にも似た愛情。彼となら家庭を築く姿が思い描けるけれども、だからといって何としてでも再婚したいとは思っていなかった。
しかしながら、どうやら優の方は多少違う考え方だったようで……理奈が彼のそば近くにありたいと望んでいる事を知ると、過干渉だとか過保護だとか、独善的かつ独裁的な態度を取り出した。
(要するに優さんって……私的な面であんまり人付き合いが上手くなくて、メンタル面は独占欲が強い子供だと思えば、あんまり腹も立たないのよね……)
という訳で、『理奈さんとの再婚、大・歓・迎!』な優の次男坊、蓮 (れん)の暗躍の結果、とんとん拍子に再婚にまで話が進んでいた。問題のプチ策略家はただ今、彼が可愛がっている理奈の次女、佳音に盛んに話し掛けて頬を緩めている。
「ああ……家族が増えるというのは、素敵な事ですねえ、理奈さん」
恍惚とした表情で、優は理奈に話を振ってくる。早くも酔っ払っているのか、幸せに酔っているのだろうか。タヌキ親父は存外、そのウサギの厚い面の皮を被った姿を眺めるのが面白い。
「そうね、優さん」
理奈もまた、この夫に合わせて『のほほんママ』の態度でいるのがなんだか楽しくなってきたところだ。
彼女がカリカリしていたら娘達は不安がるけれど、こうして穏やかさに満ちどっしりとして鷹揚なスタンスを構えていると、なんだか心が軽い。
以前、優が『全く別人の仮面を被れるほど器用ではない』と口にしていたように、お互いにこういった人間性も間違いなく持ち合わせているのだろう。
「ふつつかな娘ですが、パパ、これからよろしくお願いします」
「パパ、わたしの事もよろしくです!」
咲来が神妙に頭を下げると、佳音もまた楽しげに「ハイハイ!」と手を挙げて、にっこりと笑む。
優は突如、ぶるぶると震えだした。
「どうしたんですか、父さん? 体調でも崩されて……?」
グラスをテーブルに置いた途端に脈絡なく身を震わせる父の姿に、彬が心配そうに尋ねる。優はその声に応えて、ぐわっと三男坊へ顔を向けた。
「大変だよ彬君……我が家は天使を迎えるんだ! 可愛い天使達が、私を『パパ』って……!」
「父さん……」
息子はその面にありありと、『大丈夫かこのヒト?』という懐疑的な表情を浮かべて絶句。
「ふむ。今日の父さんを見ていたら、某ハリウッド俳優を彷彿とさせるな」
「ハリウッド俳優?」
匡はマイペースに自分の取り皿の上の料理を平らげて、そんな感想を漏らした。今日の父の姿には、感慨深い何かがあるらしい。
蓮の合いの手に頷き、
「ああ。かの人物は、一人娘を溺愛する親バカとして有名で。
何でも、彼女が生まれたその日から、娘に身に着けさせるモノは服から小物に至るまで全てデザイナーズブランドにオーダーメイドしていて、1日たりとて同じ服を着ているところは目撃された事は無いとか」
滔々と語る。ゴシップなどに興味は無さそうな長男から披露された意外な話題に、理奈は素直に「へ~」と感心しきりだ。
そして優はおもむろに、懐からシュパッと携帯電話を取り出した。
「理奈さん理奈さん、咲来さんと佳音さんの服を特注しましょう!
どこのブランドが良いですかね?」
危うく理奈は、「アホか!」と叫びつつ、夫の肩に裏手ツッコミを入れるところだった。
「まあ優さん。娘達から自分の着たい服を選ぶ、ショッピングの楽しみを奪わないで」
「それもそうですね」
携帯を握ったまま、シュン、とうなだれた優は咲来と佳音に向き直り、
「今度、パパと一緒にショッピングデートに出掛けましょうね!」
どうしても、娘達に服を買ってやりたいらしい。某ハリウッド俳優に触発されたのか、元々から親バカ志望だったのか。
「それで、娘を猫可愛がりする某ハリウッド俳優の話の続きだが」
「その人、他にも親バカ伝説があるのか!?」
両親の会話が一段落ついたタイミングを見計らってか、匡は更に言葉を紡ぐ。ギョッと仰け反って、チラチラと父と長兄を忙しく見比べる彬と翔の言いたい事は、何となく理奈にも察せられた。
つまり意訳すると、『優君がうっかり真似したがるといけないから、匡君は変な事を吹き込んじゃいけません』だ。
「へえ。面白そうだし、是非聞きたいな。ねえ佳音ちゃん?」
「うんっ」
しかし弟達の懸命な祈りも虚しく、策略家にして愉快犯な次兄は、妹を味方に付けて晴れやかな笑顔で長兄を促す。
「マスコミのインタビューで彼は、娘が語学の天才だと語ったんだ。彼がいったいどんな言葉を聞いて、才能を痛感したのかと言うと、『パパ大好き!』だったそうだ」
「それは……母国語で?」
「母国語の英語だったらしい」
疲れた顔をして恐る恐る問い掛ける咲来に、匡は真顔で頷く。
理奈だけでなく、何となく場の視線が優に集中すると、彼は案の定、プルプルと震えていた。
そしてその様子を見て取り、妙なところで茶目っ気を発揮する佳音が、「パパッ」と弾むような声音で優に語り掛ける。
「パパ、大好きっ」
語尾にハートマークが付いていそうな、気合いの入った愛想200%増しの愛くるしい声だった。うちの娘はなかなか芸達者だったようだと、理奈はグラスを透かし見ながら娘の新たな一面に笑うしかない。
ノリが良いのか本当に嬉しいのか、優は諸手を上げて歓声と共に、
「うちの娘は天才だ~っ!」
などと、人目も憚らず喝采を上げている。
「……ねえ、翔にぃ。パパって、あーゆー人だっけ?」
「安心しろ咲来。
父さんは酒が入ると一気にハイテンションになるだけで、普段はもうちょっとマトモだ」
何はともあれ、理奈はこの先の人生を賑やかに騒々しく過ごせそうである。
きっとこれから、喧嘩したり意見が対立する事はたくさんあるだろう。
『いつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし』では終わらない、不幸も苦しみも悲しみも訪れる、おとぎ話の中から目覚めた現実を。
夢想に浸りながら味わう幸福は、公宏にたくさんたくさん教えてもらった。これからは、苦しみの中から細やかで得難い喜びを、優と共に探していこう。
「理奈さん」
「なあに?」
隣に座った優は、穏やかに理奈に呼び掛けてきた。にっこりと微笑みながら、門をくぐる時にも手を繋いでいけるような気がする夫を見つめ返す。
「理奈さんの誕生日には、花火を打ち上げましょう! 十万発ぐらい!」
理奈がぼんやり物思いに耽っている間に、いつの間にか卓上の話題が『娘溺愛親バカ俳優伝説』から、『脱帽愛妻家俳優伝説』に移行していたらしい。
「優さん、花火は打ち上げる周辺住民の方々のご理解が必要でしょう?」
「誠心誠意お願いすれば、きっと大丈夫ですよ。
だって、誕生日のお祝いですから」
理奈は再び、「待たんかいワレェ!?」と裏手ツッコミを入れたくなった。
その理由のどこらへんに、絶対的な説得力を見出す役所があると言うのか。
「ねえ、蓮お兄ちゃん。パパって、本当に花火大会を開けるの?」
「やろうと思えば、父さんの部下さん達が頑張るんじゃないかなあ?」
向かい側の席で、仲良く「ご飯美味しいね」オーラを醸し出している蓮と佳音は、真剣に取っていないのか楽しげに語らう。
「じゃあビルの灯りで文字を作って、空から見下ろしながらシャンパンを……」
「素敵な演出ね。お話を聞くだけでお腹いっぱいだわ」
(流石はアホボンの兄、常人の常識から逸脱する発想だわ。響と違って問題なのは、この人がそれを本当に実行に移せる権力を持ってる事かしら……)
彬と翔の、『頼みますから、優君が暴走しないようにブレーキかけてあげて下さい』と言いたげな、縋りつくような眼差しを受け、にっこりと微笑み返しつつ……理奈は優の肩をぽんぽんとあやすように叩いた。
(まったく。この人ったら図体は大きいクセに、心は一番子供っぽいんだから)
穏やかで佳に咲けるよう、少しずつゆっくりと、これから二人で心に栄養を与えて育てていきましょう。
瞼を閉ざす時は、まだ遠くある。