第十五話「タイム」
巻き添えを食らうように倒れこんだルカが素早く上体を起こし、不安そうに大悟を揺り起そうとして――言葉を失った。
「……ダイゴ?」
まるで墓標のように、背中に垂直に槍が突き刺さっていた。刃が服を貫いて深々と体に刺さり、刺さった所から赤い染みが段々と広がっていく。
それは胸の中央を射抜いていた。
どう見ても。
「ダイゴ?」
現実感がなかった。それまで自分と買い物を楽しんで、コーヒーとかいう苦い飲み物を一緒に飲んで、自分と一緒に笑い合った大悟が、今この瞬間に物言わぬ石のように動かなくなっている。現実を受け入れることが出来ず、ルカが大悟の身体を揺すりながら彼の名前を呼ぶ。
「ダイゴ、ねえ、起きてよダイゴ」
反応がない。ルカの声が震え、悲痛の色を帯びていく。
「ねえ、冗談やってる場合じゃないよ。一緒に逃げよ?ねえ、ダイゴ」
嫌だ。
視界が霞む。声が掠れて言葉が虚ろになっていく。
嫌だ。
「嫌だよダイゴ。返事してよダイゴ」
こんなの嫌だ。
「逃げようダイゴ。ダイゴってば」
嫌!嫌!嫌!
「ダイゴ!」
「無駄だ」
ルカを現実に引き戻すように、自分たちが通って来た方の路地裏の入口から低い声が響き渡る。
「そいつはもう終わりだ」
背後からの逆光に照らされて、漆黒の悪魔が佇んでいる。堤が決壊したように目から涙を流し、呆然とその魔族を見つめながルカが言った。
「嘘よ」
「本当だ」
「でたらめ言わないで!」
「我が槍はそいつの心臓を貫いた。体の構造がレビーノの者と一緒であれば、の話だが」
泣き喚くルカを前に、魔族が淡々と話す。残念ながら、レビーノの人間とこちらの人間の構造は全く同じだった。
「もう少し抵抗してくれると思ったんだがな」
「……ふざけないでよ」
「なに?」
涙を腕で拭ってルカが言い放つ。立ち上がりたかったが、足を怪我していてはそれも叶わなかった。
「どうしてこんなことできるの!?八つ当たりにしたって酷過ぎるわ!」
「八つ当たりだと?貴様、私の何を知っているというのだ」
「知ってるわよ!私だってレビーノの人間なんだから、魔族がどういう扱いされてるのか解ってるんだから!」
「レビーノだと?」
魔族が顔をしかめる。こちらの世界にもレビーノを知る人間がいると言うのか?一瞬だけそう考えて、魔族はすぐに思考を放棄した。
自分は考えるために来たのではない。戦うために来たのだ。
心を晴らすために来たのだ。
「お前がどこの誰であろうと、我々の何を知っていようと、関係ない」
「私も殺すの?ストレス発散のために」
「ただ潰すだけだ」
ルカの最後の疑問には肯定も否定もせず、魔族がゆっくりと近づく。だがルカは一人で逃げようとせず、その場に倒れていた大悟の両肩を持って引きずるように後ずさっていく。
「なんのつもりだ?」
「一緒に連れて行く。ここに置いて行くなんて出来ない」
思えば大悟とはほんの数時間の付き合いでしかなかったが、ルカにとってそれはとても素敵な時間であった。
自分に食べ物を分け与えてくれて、一緒に買い物をして、一緒にコーヒーを飲んだ。見ず知らずの自分を見捨てることなく、とても優しく接してくれた。
異世界で出来た初めての友達。理屈ではない。ルカにとって大悟は、既にそれだけ大きな存在となっていた。惜しむらくは、それを彼に伝えることが出来ない事だ。
だから。
「見捨てて行けない」
「お前も死ぬぞ」
「どうせ逃げ切れないから」
覚悟を決めたようにルカが言い切るが、その心は恐怖で震えあがっていた。今にも泣き出したいほどだった。しかしルカの最後の意地が、彼女に『大悟を置いて逃げる』という選択肢を拒絶させるだけの勇気を与えていた。
「ダイゴは裏切れない」
そう断言しながら、ルカは自分の胸の中が段々と熱くなっていくのを感じていた。
恥ずかしいこと言ったかな。動かない大悟と手を繋ぎながら、ルカは心の中で苦笑した。
「……いい覚悟だ」
魔族が近づく。右手の指をまっすぐに伸ばし、鋭利な爪を光らせる。魔族の膂力を以てすれば、手刀で人間の胴体を貫くことなど造作もないだろう。
己の死を覚悟し、言いようもない恐怖が全身を駆け抜ける。絶望で心がへし折られないよう、力を込めて魔族を睨みつける。
胸の中の熱が増し、炎と呼べるまでに燃え盛っていく。
熱量がなおも上がっていく。魔族の影と自身の影が重なる。縋るように、大悟の手を握る力を強める。
胸が苦しい。火を点けられたように熱く燃え上がる。息が出来ない。恐怖のあまり体までおかしくなったのだろうか?
魔族が己の眼前まで近づいていく。もう堪えきれなくなって、思わず目を逸らして顔を俯かせる。そして自身の胸のあたりが視界に入った時、ルカは言葉を無くした。
球体。
「え?」
「悲痛に歪んだ顔を見せろ!」
胸元の前に白い球体が浮かぶ。
魔族が右腕を引き絞り、勢いよくルカの胸に向けて突き出す。
「なにこれ」
ルカが目を見開く。
太陽のようにとても熱い。
腕がぐんぐんと近づいてくる。
魔族はそれに気づいていない。
球体と爪が接触する。
瞬間、閃光と熱風が路地裏を走り抜けた。
「な、なんだ!」
魔族が異変に気付いたのは、突然の熱風と閃光で自身の身体が弾き飛ばされた後だった。そしてそれでも、自分が何を貫いたのかを知ることは無かった。
「何が起きている」
魔族の眼前――爆心地には、なおも目を焼かんばかりの白い輝きが満ち満ちていた。だがそれに臆することなく、魔族がその輝きをじっと睨みつける。
やがて、その輝きに変化が起きる。それまで靄のように無形に浮かんでいた輝きが段々と一転に凝集し、それがやがて人の形を取り始めたのだ。
唖然とする魔族の目の前で、その輝きが段々と光を失っていく。そして人間の形を取り戻すと共に光が完全に消滅し、後に残された物を見て更に息をのんだ。
「なんだ」
黒い人間。
「なんだ、それは」
正確には、真っ黒なボディスーツに身を包んだ人間の少女だった。
鈍い光沢を放つ黒いスーツ。それは全身にフィットし、その細身のボディラインをありありと見せつけていた。足には同じ素材で作られた黒のブーツ、手には同じ素材で作られた黒のグローブ。腰に黒いベルトを巻き、胴体には胸を押し潰し身体の起伏を隠すように黒いプロテクターをつけていた。
肌の露出を極限まで抑え付けた格好であり、辛うじて首から上が外気に触れているだけだった。銀色の長髪をなびかせ、青い瞳と鋭い目つきを持った、怜悧な印象を抱かせる麗人だった。
「おまえは一体、なんなんだ」
状況を理解できずに魔族が呟く。だが状況をわかっていないのは、突如現れたその少女も一緒だった。魔族の目の前で、自分の腕や体を信じられない物を見るようにまじまじと見つめる。
「え、うそ、なにこれ」
そこで自分を見る視線に気づき、少女が顔を上げる。そこで魔族と目が合い、少女が顔を引きつらせる。
「え、えーと、これって……どうなってるのかしら……」
やがて少女の前で魔族が目を細め、姿勢を低めて全身に力を漲らせる。その瞬間、少女は身の危険を察知した。
「ちょ、ちょっとタイム!」
少女が悲鳴に近い声を上げる。だが魔族はそれを無視し、吼え猛りながら一直線に少女に向かう。
まっすぐに、心臓目がけて手刀を伸ばす。
だが、次に叫び声を上げたのは魔族の方だった。
「な……!」
目の前の少女はまるで体重が無いかのようにふわりと飛び上がり、前方に一回転して魔族の腕の先に片足で飛び乗ったのだった。そして勢い余って突進を続ける魔族を尻目に、その場で軽く膝を曲げて真上にジャンプする。それは一足飛びでビルの屋上に届くような滅茶苦茶なものだった。
「くそ!」
悪態をつきながら魔族が急停止した時には、既にその少女の姿は無かった。呆然と屋上を見上げながら、魔族が呟いた。
「なんなんだ、奴は……」
そして気づいたように路地裏に目をやり、そこで魔族は再び驚愕を覚えた。
男に突き刺したはずの槍だけがその場に転がっており、それまで追いかけていた二人組の姿がどこに
も無かったのだ。
「まさか……」
再び空を見上げ、魔族は顔をしかめた。
まさかな。