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伝えたいことが風に乗れば

作者: 小ライス

 ただ、ひたすらに続く様な時間が暫くあった。生垣の下に潜んでいた猫の団栗眼は、ただの一度も動かない。秋冷のツンとした空気は、三味線の弦を張っているかの様に硬かった。それでも、フローリングから庭に足を投げ出している僕と彼女の、触れ合っている肩同士は、ふわりと触れたり、優しく離れたりしていた。二人の声は大気を震わせなかったが、夕風が何度か二人の前を横切り、一度だけ彼女の吐息がそれに乗った。


彼女は本来なら僕なんかと交わることのない人だ。同じ場所、同じ環境にいながらも、他の人とは違う。周囲の誰もがそのことを感じているはずだが、僕は彼女を誰よりも正確に言い表す自信がある。


 彼女は今吹いている風だ、強くもなく弱くもない、吹き通る風。黒い髪は夜空で、湛える微笑みは月光に照らされた小川で、長いまつげはすすきの影で、薄めの唇は、これもちょうど今のような淡い空。つまり、彼女の魅力は、自然の深い冷涼さなのだ。温かみや包容力のある美しさなどでなく、薄ら寒いくらいのぞくっとする美しさである。


 しかし彼女を想う自分の心に、そんな拙いたとえは意味をなさなかった。僕は常に彼女を想い、そして一人苦しんでいた。言葉にできないこの感情を、胸に抱えていることに。


 そんな彼女が僕の家に来る機会は、何の前触れもなくやってきた。いつも遠くに見ている彼女の姿がどんどん大きくなってきて、気がつけば彼女と僕は会話をしていた。

「君、私に今の気持ち話せる?」いえ、できません。

「話したいと思う?」はい、でも言葉にする自信はありません。

「なら、今日あなたの部屋に行くから、そこで聞かせてよ。ただ、私には時間はないから、三分だけ」


 三分。その間だけ、僕は彼女との時を共有出来る事になった。永く、僕だけしか居なかった空き地のような部屋に彼女の温度が入る。大事な時間だった。


 腕時計を見ると、あれから一分半ほど経っている。ふと、右隣にいる彼女の横顔を盗み見る。長い黒髪の所為で目は見えないが、口元は鼻唄を唄っているように弛んでいた。話しかけることもできたはずだが、何故だかその時は声が出なかった。彼女があまりに幽艶だったからなのか、単に自分の緊張の為だったのかは、結局解らず仕舞いだった。


 何度も時計を見ると早く時が過ぎてしまう気がしたが、またちらと左手首に目をやる。先程から秒針が半周と少し動いていた。もう二分。残りの時間で僕がやることは、この部屋に入るずっと前から決めていたはずなのに、ここにきて怖気づいていた。


 少し曇っている所為で西、つまり彼女の座っている側の空がいつもより広く、紅く滲んでいる。対照的に、先ほどまで仄明るかった東の空は、知らない間に瑠璃色がかっていた。この大切な時にそんなことが気になる自分に焦燥感を覚えたものの、依然僕の声は体の中を駆け巡っていた。


 今度は、彼女の左手の甲に目をやる。体を支えているはずなのに、力を込めている感じは受けず、薄暗い部屋でもただただ濁りのない雪花石膏のような白さを輝かせていた。隣に突いた、血管の走る浅黒い自分の手と比べると、なんだか恥ずかしい気持ちになった。


先程のように、何の気なしに彼女の顔に目をやろうとすると、何となく目が合いそうな気がした。持てる勇気を振り絞り、彼女の顔を見た。案の定、彼女はこちらを向いていた。目が合う瞬間、かちり、と音が鳴った気がした。それを合図に、僕の心臓は早鐘を打ち始める。


 案ずるより産むが易い、か。いや、考えているだけ方が楽なのかもしれない。後悔を前向きに捉えるのは、思いのほか難しい。手の震え、吐く息の震えを隠すのも。

「なに?」

 彼女が心を見透かしたような声音と表情で訊ねてくる。決断の時。一度、目線を少し外して、肺に溜まっていた空気を短く吐いた。


 そして、再び目線を戻す。


 その刹那、無機質なエーデルワイスが部屋中に響いた。


 彼女はゆっくりと目を閉じ、開けると同時に立ち上がった。そして、部屋の中心にある机の上のタイマーのストップボタンを押した。僕はその一連の動作を、どんな顔で見ていたのだろうか。電子音がぴたりと止んだ部屋の静寂が、喧しかった。

「あの……」

「だめ、もう三分」

 絞り出したような僕の声は、背中越しの、悪戯っぽい彼女の声に遮られた。彼女は迷いなく玄関に続く扉の方へ進んで行き、最後に振り返って。

「じゃあ、また明日」


 きぃっと扉を開ける音。バタンと閉める音。少し離れたところで、靴を履いている音。また、きぃっ、バタン。秋の静けさと相まって、一層耳に残る感じがした。その後に残った音は、自分の鼓動だけだった。


 空はすっかり群青色に染まりきっていた。彼女には「また明日」会える。しかし、それが今の自分にとっての希望だとは、考えられない。日常の中での彼女は、いつも僕とは違う場所にいる。さっきまで彼女が座っていた場所を見れば、僕はそれだけで非日常を感じてしまえる。それくらいの存在が、先程まで現実にここにいて、僕はその隣に座っていたのだ、と。


 陰鬱な気持ちで庭に目を戻す。生垣の猫は、もういない。


読んでくださり、ありがとうございます。

ジャンルは一応「恋愛」としましたが、恋愛できてるのか微妙ですね。

まあこれも一つの形だと思います。

ありがとうございました。

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