木枯し
町は深い秋の色に溺れていた。
街路樹の葉の色は日常の中でふと目を見張る美しさであったが、その美しさに包容されているのは決して華々しさではなく、かすかな寂寥と普遍的で乾いた時間の流れだった。
その木々の下を、逸美は大きな買い物袋を手に急ぎ足で過ぎていた。
車道を滑らかに走る車は落葉を舞い上げ虚しい感覚を残して見えなくなる。車が通る度、地上に投げ出された葉は少しずつその形を失い、ちぎれた体は悲しい速さで分散していった。
逸美は買い物袋を覗き込みながら、今晩のおかずは何にしようと頭を働かせていた。
逸美には食べ盛りの子供が三人もいるので袋はずっしりと重く、冷たさを帯びた風にそれを持つ手の指だけがじんわり温かかった。
袋から顔を上げて再び早足で歩き始めると、逸美は自分の少し前に、歩道の淵から一心に道路を見詰める女を見つけた。車道に飛び込んでしまうのではないかと思うほど視線は一直線に、体は前のめりに傾いていた。
逸美はその女と擦れ違おうとする直前、やや足を緩めて彼女の横顔を盗み見た。
血の気のない薄白い顔だった。女の視線は空気をも、葉を散らす微風をも貫いて道路に注がれていた。しかし黒い睫がその瞳を深く覆って影にしている。
女の見つめる道路を車が通り過ぎた。葉を舞い上がらせ一瞬の喧騒を残した車はあっという間に見えなくなり、また落葉が形を失い地上に舞い降りた。
女性は何の反応もなくその光景を見詰めている。
逸見は自分の表皮に粒上の汗が音もなく、しかし溢れるような勢いで冷たく浮かび上がるのを感じた。突発的な不安に襲われた逸美はその女の後ろに立ちすくんでしまった。汗は乾いたがその感触は肌の奥深くに根付いていた。
声を掛けてみようか。しかしなぜ自分が声を掛ける必要があるだろう。この何処から来たともわからぬ後腐れの悪い刹那の不安は一体何なのだ。
再び逸美の表皮に冷たい汗が浮かんできた時だった。何かに逡巡して棒立ちになっている逸美の耳もとに、突然生ぬるい気配が感じられた。逸美が驚いて声を出す前に、気配の主は逸美の顔をじっと見詰めて彼女の腕を掴み、自分のほうへ引きよせた。
逸美が顔を見返すとそれは直ぐ背後の雑貨屋で働く、逸美もよく見知った顔だった。事態を呑めない逸美が声も出せないでいると、彼女は逸美を自分の店に引っ張っていった。歩道に立つ女は逸美たちに気付きもせず、その異常な視線を道路への直線状の空気に絡ませ続けていた。
自分の店に逸美を連れいれたのは店の近所に住む逸美と親しく、どこか人好きのする雰囲気を持っている中年の女性だった。
「逸美ちゃん、あんたあの人が道路に飛び込むとでも思ったんでしょう?」
彼女は店のガラス越しに歩道の女に目線をやった。今は店内に客の姿は無いようだった。商品が雑多に置かれたどこか家庭的な雰囲気のある店だ。
「ええ、まあ」
「私も声を掛けた事があるけど、殆ど聞こえてないみたいに黙って頷くだけよ。あの人ね、気の毒に何年か前にそこの道路でお子さんを交通事故で亡くしたらしいのよ。近所の奥さんから聞いた話だから詳しくは知らないけど。時々来るとああやって歩道の縁に立って道路を何時間も何時間も見詰めているのよ」
彼女は棚の商品を並べながら話した。
「この店ガラス張りだからあの人の道路を見詰める後ろ姿が丁度レジの位置から何時間も見えるの。本当に何時間もあそこから動かないんだから。私もお客さんがいないとレジに座って何時間もあの人の背中を見詰めてしまうのよ。他人のことだし私にはどうしようもないことなのにねえ」
逸美は暫く、店の女性と歩道の女を見つめる一人になった。なんとなく自然に、店員と並んで女を見つめていた。自分がどうしてそうしているのかわかるわけでもなく、何か目的があるわけでなくそうしていた。
店の中の二人が女を見詰め、女が道路を見詰める光景は、二枚の鏡を合わせたときの、角度の違う同一の風景の様だった。しかし逸美は道路を見詰める女より不幸ではなかったし、道路を見詰める女はどこまでも淋しげだった。
秋はその極限まで深まろうとしていた。そしてもう、初冬の風が町を通り抜けようとしていた。
最後の木枯らしが全ての葉を巻き上げて、どこまでも深い虚無にそのかすかな音だけの身を沈めようとしていた。