人形師「迷迭香」
人形師三部作の最終章です。
本作だけでも完結していますが、
前二作「緋衣草」「天竺葵」もあわせて読んでいただけると嬉しいです。
ローズマリーは強い香気と共に小さな花弁を広げていた。窓から差し込む光に照らされた緑の葉は、若々しい生命力に満ち溢れ、薄紫の花はたおやかに佇んでいた。
「よい香りです」
少女は水差しを乾いた鉢に向ける。
「水は、明日でもよいのではないか」
中年の男が口を出した。乾燥に強いローズマリーは、土の表面が乾いてもすぐに水をやらなくてもよいのだ。
年配者の指摘に対して、少女は向き直った。
「昨日から部屋の湿度が低いので、明日になると乾きすぎてしまいます。少し湿らせておいたほうがよいと思います」
「お前に任せよう」
彼女を見ていると、ローズマリーを好んでいた愛娘を思い出す。立ち姿も、目鼻立ちも、水をやるときの仕草まで同じだった。隣りに立てば、仲のよい双子に見えただろう。だが、彼女らが揃うことはない。
「先生?」
師匠の険しい表情に気づき、少女はいぶかしげに首を傾げる。
「なんだ」
不機嫌ないらえが返ってきた。
「すみません」
彼は俯いた少女に罪悪感を覚えた。大人げない態度だった。親が子にあたるのはよくない。
「いや」
彼はあわてて自分の思考を否定した。彼女は実の子ではなく、自分は親ではない。
拳を握り、浮き出た血管を見る。老い始めた手だった。彼がどう思おうと、この手が彼女を生み出した。人形という器を作りあげた。
「ハーブティーでも淹れましょうか」
「ああ、頼む」
人形師は、本来、動くことのない人形を見守る。湯を沸かし、ハーブを用意する所作は人間の娘と変わりない。姿形にも違和感を見つけられない。
彼女はいったい何者なのか。
*
あの時。
愛娘は高熱にうなされていた。拭っても拭いきれないほどの汗を流し、唇はひび割れていた。ただの病ではないと、直感が告げた。
物の怪に憑かれたのではないか。
魔除けとして使われる精油を彼女に近づけると、強い忌避反応を示した。疑念は確信に変わった。
長期間、この状態が続けば、身体を乗っ取られてしまう。早急に、原因を取り除かなければならない。彼にはそれができた。人形作りだけでなく、魔除けや封じの業にも長けていた。
物の怪には、おかしな習性がある。清らかなものを求める傾向があるのだ。神社の御神酒や、祈りを捧げた聖水を好み、手頃なものとしては、薬効を持つハーブが該当する。特に、緋衣草と呼ばれるセージが好物だった。
このセージを囮にして、物の怪を人の身体から引きずり出す。体外に排出された物の怪を捕らえるための器が人形である。
人形は、憑かれた人間に似せて作った。物の怪が憑依する対象を選ぶには、何らかの理由があると考えられていた。
彼は、人形師の名に恥じない完璧な人形を作り上げた。一卵性双生児と言っても間違いない。彼の経歴で、最高の出来だった。
娘に潜んだ物の怪を、人形に移し替えるのは難しくなかった。封じの技術にも、熟練していた。だが、物の怪は、予想以上に強大だった。
物の怪を封じる作業の際、娘の口から飛び出した妖は、彼を弾き飛ばして手傷を負わせた。薄れる意識の中で最後に見たのは、二人の少女の間で、異形がセージを貪り食っている姿だった。
目覚めたとき、物の怪はいなくなっていた。彼は娘の姿を探した。横たわっているのを見つけて、心の底から安堵した。
そして、恐怖に襲われた。
娘は、一人だった。
少女の腕に傷があった。彼女も物の怪にやられていたのだ。幸い、怪我は浅かった。だが、裂けた肉に血の痕はなく、乾いていた。
彼女は、人形だった。
人形は目を開いて、言葉を発した。
「ここはどこですか」
動かないはずの人形が喋り出す事態に、男は少なからず動揺した。だが、冷静さは失っていなかった。
熱に浮かされていない様子から、物の怪に取り憑かれていないと判断した。そこに一縷の望みを見た。
「私がわかるか」
「あなたは誰ですか」
「お前の父親だ。お前は、琴子か」
娘の名を呼んだ。人形に封じられたのが物の怪でなければ、琴子のはずだった。
彼女は口をつぐんだ。
「琴子?」
人形は首を振った。
「わかりません。私は誰ですか」
彼は、つかみかけた糸が幻だと知った。
*
壊す。
ねじ切る。
叩き潰す。
粉微塵に破壊した残骸を箱に詰めて、封を施す。壁際に積んだ箱は多い。ここまで数日を要していた。
人形師は、穢れた粉塵にまみれ、肩で息を吐いた。人形に封印した物の怪にとどめを刺すのは、器を作った彼にしかできない。死した物の怪に怨念があるならば、彼は拭いきれないほどの呪詛にまみれていた。
やらなければならないとはいえ、丹精込めて作った人形を自らの手で砕くのは、楽しいものではない。ましてや、生きている人間とそっくりの容姿である。封印のため、目や口を縫い合わされ、憐れみを誘う姿をしている。破壊行為の理由を知らなければ、残虐な殺戮者としか見られないだろう。
次に破壊すべき人形に向き合うと、彼は肩を落とした。弟子に手伝わせて封印した少女の人形が、閉じた目でこちらを見ていた。
手を止めてしまった。
それがいけなかった。
心に染みこんできたものがある。少女を殺すという罪悪感である。人形を破壊する行為は、擬似的な殺人に似ている。彼の心は気づかないうちにすり減っていた。
「すまない」
謝罪の言葉が口をついて出た。
人形が弟子に、そして実の娘に重なる。
涙が滲み、頬を伝わって落ちる。雫が人形の縫い合わされた唇に吸い込まれた。
ぶつりと、糸が切れた。
目を拭っていた人形師は気づかなかった。
どろりとしたものが、人形の内側から外を窺った。
少女は、ドアの開く音を聞いた。
「先生、終わりましたか」
作業が終わるまで近づかないように言われていた。死した物の怪の穢れに触れてしまうからだ。師が部屋を出る直前に呼ばれ、用意していたセージの冷水で身体を清める手筈だった。
奥の間へ足を向けると、人形師が床を這っていた。
「逃げろ」
人形師は、灰まみれの姿で、汗まみれの顔をあげる。
「先生」
異変を察知し、少女はサッシュベルトの瓶に手を伸ばす。ゼラニウムの精油を細かく散らすと、師の身体から煙が立ち上った。
「憑かれたのですか」
魔除けの精油に反応するということは、物の怪に憑依されたのと同義だ。人形の破壊の過程で、何か悪いことが起こったと、彼女は考えた。
「天竺葵と、呪水をくれ」
天竺葵は、ゼラニウムの別称である。物の怪に対して、高い効果がある。
「呪水ですか」
呪水とは、文字通り、呪われた水だ。溺死した人間の肺から取りだした液体である。物の怪を弱らせることができるが、体内に取り込まねばならない。そのため、人体には普通使われない。物の怪を人形に移した後、口に含ませるのが標準的な用法であった。
「何故ですか」
「質問はするな」
戸惑う少女に、人形師は短く答える。
「私が飲む」
体外と、体内の両面から、物の怪に攻勢をかけるつもりだった。
「それでは、先生が」
「よこすんだ」
強い指示だ。
少女はためらいつつも、ゼラニウムの瓶をつかむ。だが、呪水をどうするかは迷った。渡してしまえば、彼は間違いなく飲み干すだろう。その結果、どうなってしまうのか、未熟な彼女には想像できない。
師匠の目を見る。
熱に浮かされているが、意思は浮ついていない。どうするのが最適か、彼自身がすでに結論を出しているようだった。
決死の覚悟に触れ、彼女はある閃きを感じた。弟子の立場であったが、師匠よりも優れた手立てだという自信があった。
「お待ちください」
少女は躊躇なく自分の考えを実行に移した。
清めのために用意していたセージ水を頭から被る。濡れた髪が頬に貼り付き、衣服が身体の線に絡みついた。
「なにをする」
人形師の狼狽をよそに、彼女は膝をついて師に覆い被さる。
「こちらのほうがよい住処です。物の怪さん」
精一杯、大きな口を開ける。ぬるりとしたものが人形師の呼吸を妨げた。
溶け崩れた獣が二人の間を渡った。より清らかなものを、物の怪は見つけたのだ。
少女の身体がのけぞり、勢いで床に打ちつけられた。穢れた生き物は、小さな身体に根を張った。
「馬鹿者!」
人形師は途端に軽くなった身体を彼女のそばに寄せた。
「私は、人形です。こうなるために、作られたはず」
彼の背筋に冷たいものが伝った。そうあるべきと考えていたことを彼女が語り、心が乱される。
あの時、琴子を救うために、人形を作った。物の怪を封じるために、完璧な人形を作り上げた。だが、その役目を果たすことはなかった。
人形は、それからずっと傍らにいた。姿も、声も、仕草さえも娘と同じだ。好きなハーブも、淹れてくれるハーブティーの温度も変わらない。娘が生きていると思い違いをするほど、彼女の存在は、彼のそばがしっくりと合った。
いつしか愛情を注いでいた。そうしながらも、物の怪を封じられず、本当の娘を救えなかった彼女を憎んでいた。
「先生」
彼女は口を開く。その唇は少し傷ついていた。血は流れていない。人形だからだ。
「私を壊してください」
気づいていた。心地良い生活を送りながらも、時折冷たい視線を感じ、師に憎まれているのを知った。いつかは、師弟の関係に終わりが来ると覚悟していた。それならば、何か役に立ってから消えたかった。師匠を救うために壊されるのならば、これ以上の満足はない。
少女は力を振り絞って呪水を口に含んだ。人形師の手が瓶を払ったが、すでに遅かった。呪われた水を嚥下した少女はぐったりと力を失った。
「馬鹿なことを」
人形師は彼女を叱る。
物の怪に憑かれたとき、真っ先に考えたのは、彼女を危険にさらしてはならないということだった。愛する存在を傷つけさせたくなかった。だから、彼は物の怪を自分の中に封じ込めようとした。憎しみはどこかに忘れていた。
娘も、彼と同じように行動した。それが親にとってどれほど苦しいことか、子供にはわからない。
「必ず助けるからな」
親である自分が、なすべきことはひとつしかない。
明かりを落とした部屋の中で、香が焚かれていた。清浄な空気に満ち溢れ、物音と言えば蝋燭の芯の燃焼だけだ。
床に、二人の少女が寝かせられていた。
ひとつは、人形師が作り上げたばかりの人形だった。隣りの娘と瓜二つの顔をしている。違うのは、ほんの少し唇が薄いところだ。
もうひとつはと言えば、こちらも人形である。身体の中に物の怪を取り込んだ少女であった。
「準備が整ったぞ」
人形師は憔悴した顔を娘である人形に向けた。
迷迭香の精油を額に塗る。強い香りが集中力を高めさせ、目に強い光を灯す。
「清めだ」
少女の口にセージ水を流し込む。体内に溜まっていた呪水が打ち消されていった。身体が震え、彼女はゆっくりと目が開いた。
「先生」
彼女は自分がまだ生きていることに驚いた。さらに、香の匂いで、師匠の行おうとしていることを知る。
「しばらく辛抱しろ」
人形師はセージを娘の口にねじ込んだ。身体には呪水を撒く。たちまち煙が湧き起こった。
少女は眉間に皺を寄せ、苦しみ始めた。身体が穢れていった。
「移す」
慎重にセージを引き抜いた。清浄さを失った娘から、溶け崩れた獣がセージを追って飛び出してきた。隣りの人形の口にセージを押し込むと、物の怪は人形の体内へと消えた。
人形師は呪水を流し入れた。逆の手で口を縫う。鼻や目も塞ぎ、外界との境をすべて糸で縫った。
穢れから逃走した物の怪は、避難先で再び穢された。逃げようにも、外へは出られない。呪水の浸透が進み、次第に弱っていった。
人形師は、封じた人形の様子を見て、安堵の吐息を洩らした。日頃の封じ以上に、緊張していたのだ。
「無理をするな」
身を起こそうとする少女を押しとどめ、穢れをハーブ水で拭ってやった。
「何故、移しをしたのですか。私を壊せばよかったのではないですか」
「壊すわけがない。以前に言わなかったか」
覚えている。嬉しくて、恥ずかしかった感情が甦る。愛情を感じた瞬間だった。
人形師は少女の頭に手を置き、ぎこちなく微笑んだ。
「お前は、私の娘だ」
人形師は、少女の頬を伝う水滴を拭う。それが涙なのか、セージの雫なのかわからない。ただ、清らかなものだということは間違いない。
「あの……お父さんと呼んでもいいですか」
「不要な質問だ。琴子」
彼女は俯きながら囁いた。
お読みいただきありがとうございました。
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