6 話 薄紫の空に、糸が落ちた ~割り切る選択~
廃屋のベッドで少しうなされているヤトは昔の夢をみていた。
ぼんやりとした視界の中、薄紫の空、ひとりの少女
「……ん?」
雲の切れ間から、地面へと伸びるものが見えた。
細く、淡く、金色に輝く糸のような光。
目を凝らさなければ、すぐに見失ってしまうほど頼りない。
それなのに、視線が離れなかった。
「……どこに、繋がってるんだろ」
声に出したのは、無意識だった。
普段は、独り言なんてほとんど言わないのにそれと同時に走り出していた。
空は、まだ夜になりきれていない。
沈みゆく太陽の名残が地平に滲み、薄紫が静かに重なっている。
終わりと始まりが曖昧に溶け合う色。
空に浮かぶ月は淡く、輪郭を失ったまま滲んでいた。
重なった影が、ずれているようにも見える。
色は定まらず青とも、黄とも、赤とも言い切れず、ただ溶け合っていた。
光の糸が私の視界に入った時に私は砂漠の外れにいた。
洞窟から出た丘に腰を下ろし、風に押されて流れる砂を眺めていた。
私には、人もものも何もなかった。
「生きている」と自覚したときには、もうひとりだった。
それが普通で日常。
疑問を持つ理由もなく、毎日は淡々と流れていく。
足元の小さな石をつかんでは投げる。
胸が痛むこともない。
誰かと連れ立つ人々を見ても何も思わなかった。
比べる基準がなくそれを不足だと思わない。
物心ついた頃住んでいた町も人付き合いが嫌で外の洞窟での生活を選んだのは私。
風の強さや向きが変わるたび、砂丘の表情は少しずつ違う顔を見せる。
歪み、常にわずかに変化し続ける風紋。
飽きることはなかった。
太陽が傾き、空が薄紅から深い赤へと染まり雲が流れていく。
きれいだと感じていた矢先だった。
光を追ううち、
お腹の奥から、じわじわと熱が湧き上がってくる。
(……なに、これ)
不安でも、恐怖でもない。
胸の内側を押し上げてくる、得体の知れない衝動。
光の糸が落ちる先――
数日前、大地が揺れたあとに姿を現した岩場だった。
町の人たちは誰も気に留めない場所。
以前、好奇心で近づいたことがある。
そのときにはなかったはずの、
底の見えない、小さな穴。
あの穴へ、光は確かに繋がっている。
(……行かなきゃ)
理由なんて、浮かばなかった。
ただ、行かなければならない。
気づいたときには、
私は砂の丘を転がり落ちるように駆け出していた。
砂は、いつもより重く感じた。
足に絡みつき、進むたびに引き留めてくる。
息が切れ、喉が焼けるように痛む。
(なんで……こんなに、急いでるんだろ)
答えはない。
それでも足は止まらなかった。
岩場は、近くで見ると荒れていた。
大地が無理やり押し上げられたような歪な形。
無数のひび割れ。
穴の内側から、冷たい空気が漏れ出している。
しゃがみ込み、縁に手を置いた。
指先に伝わる感触は、岩とは思えないほど冷たい。
穴の奥は暗く、
光の糸さえ吸い込まれて消えていく。
怖くはない。
危険だとも思わない。
ただ――
ここにいるほうが落ち着く。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
頭の奥に異物が触れた。
声だと理解するより早く、
思考そのものに直接流れ込んでくる。
『……妙だな』
低く、探るような響き。
『どうやって入った』
呼吸が止まる。
唾を飲み込む音だけがやけに大きく響いた。
『ここは、生あるものが踏み入れられない領域だったはずだ』
戸惑い。
理解できない、という感触。
『理由を言え。なぜ、ここに来た』
答えられなかった。
理由なんて、ない。
(……ただ、来たかっただけ)
沈黙。
『……なるほど』
闇の奥で、何かが動く。
粘性を帯びた影。
生き物のようで、生物ではない。
『外に、興味が向いた』
影が揺れる。
『眺めるだけでは足りない。感じ、触れ、同じ位置に立つ必要がある』
影は細く伸び、一本の糸となった。
イメージが頭に流れ込む。
世界が静かに息を潜める。
(……曖昧なままは、いや)
それだけは、はっきりしていた。
こうして、少女は何かを失い、俗世から足を外に踏み出したことを感じた。
自分の選択が「正しかった」かどうかはどうでもよかった。
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砂は夜になっても熱を抱え込む。
昼間に焼かれた地面は、呼吸のたび、微かな塩気と潮の匂いを吐き出していた。
ヤトは外壁の崩れた隙間から町の影へと身を滑り込ませた。
本来、この町に入るには身分証と通行料がいる。
どちらも持たない者は門前で追い返され、運が悪ければ捕縛される。
――ヤトには、そのどちらもなかった。
壊れた壁。
見張りの目が届かない夜明け前。
砂に足跡を残さぬよう、呼吸を殺し、体重を分散させる。
それがこの町で生き延びるための最初の作法だった。
住処に選んだのは、町外れの廃屋だ。
屋根は半分崩れ、壁には無数のひびが走っている。
人が寄りつかない――それだけで十分な価値があった。
地下へ降りたとき偶然それを見つけた。
岩盤の裂け目からゆっくりと滲み出す水。
「……海水、ね」
指ですくい、舌に含む。
はっきりとした塩味と鼻に残る潮の香り。
町で売られている水と同じ匂いだった。
この町では、水も塩も貴重だ。
だが質は悪い。濾過は甘く、潮の香りが抜けきらない。
料理に使えばすべてが同じ風味になる。
それでも人は、それを買うしかない。
市場で耳にした言葉が、頭の奥で反芻される。
「塩はな、海の水から作るんだ」
海水。
水と塩。
「……分けられるのか……」
確信ではない。ただの仮説。
けれど、何も持たない者が生きるには、考えるしかなかった。
最初は失敗ばかりだった。
鍋に海水を入れ、火にかける。
じゅ……じゅう……と音を立て、水は蒸発し、底に白い結晶が残る。
だが鼻を刺す焦げ臭さ。
舌に乗せれば、苦味と雑味が混じった不快な塩味が広がった。
布で濾しても変わらない。
何度も試し、水を捨て、塩を捨てる。
削れるのは時間と体力だけだった。
何度目かの夜。
ヤトは壊れかけのテーブルを、指でとん、と叩いた。
「水分を飛ばせば、塩みたいなものはできる……でも、臭い」
視線が、宙を彷徨う。
「……鍋じゃない方法、ない?」
そして、頭の奥にいる存在へ語りかけた。
(ねえ。融合したとき、私の体液、あなたと同じ性質になったわよね。
液体だけ吸収する……みたいなこと、できない?)
『できる』
即答だった。
(……できるんだ。この海水、洞窟の時みたいに、分体か粘膜を出して、水分だけ吸って)
『水分だけ、吸収すればいいのだな』
(できれば、その水、あとで出してほしいんだけど)
『可能だ。ただし――』
わずかな間。
『分体を出すには、体の一部を切る必要がある』
ヤトは眉を寄せた。
「……また切るの?」
錆びた刃物を手に取る。
一瞬の逡巡のあと、息を整えた。
「……仕方ないか」
一気に引く。
鋭い痛み。
だが噴き出したのは、赤い血ではなかった。
ぽた……
床に落ちる前に、半透明で粘ついた液体がテーブルに溜まる。
ずる……ぐち……
嫌な音を立て、内部で何かが蠢いた。
「……なに、これ」
『分体だ』
「もう少し、分かりやすい形にできない?」
『お前の理解に最適だ』
分体は、命令に応じるように形を変え始める。
ぐにゃ……ぬち……
紐状に伸び、筒になり、再び粘体へ。
「……じゃあ、地下に行って。海水を吸って。水と塩を分けて」
命じると、
ずる……
ぬち……
湿った音を引きずり、分体は床の割れ目へと染み込んでいった。
しばらくして。
——ぽと。
最初は水滴だった。
やがて、とぷ……とぷ……
澄んだ水が静かに器へ落ちていく。
続いて、
はら……
はらはら……
粉雪のような白い粒子が、音もなく降り積もった。
水は水の音で。
塩は、乾いた音で。
分かれている。
嫌でも、理解できた。
ヤトは息を詰めたまま、それを見つめる。
澄み切った水。
不純物のない白塩。
市場のものとは、比べものにならない。
——売れる
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
この町では、高品質な水と塩は領主の専売だ。
勝手に売れば、必ず目をつけられる。
捕まれば――
無意識に懐へ手を伸ばす。
そこに、身分証はない。
「……売れないわね」
直接は、絶対に、しかも継続してはダメ…
水と塩が並ぶ、その横で。
分体は、まだ微かに脈打っていた。
ぐち……
ぴち……
湿った音が、静まり返った廃屋に不釣り合いに響く。
水の澄んだ静けさと、塩の乾いた白さを、ことごとく台無しにする音だった。
ヤトは一歩、無意識に後ずさる。
――役に立つ。
――生きるために必要。
頭では分かっている。
それでも、視線を向けるたび、胃の奥がきゅっと縮む。
あれは自分の体から切り出されたものだ。
自分の一部でありながら、自分ではない。
「……気持ち、悪い」
吐き出すように呟く。
分体は命令がなければ動かない。
それでも、脈打つたびに「生きている」と主張してくるようで、目を逸らしたくなる。
便利すぎるもの。
理解しきれないもの。
それらが、恐怖に近い嫌悪を呼び起こすことを、ヤトは知っていた。
かつて、自分が「普通」から外れた瞬間に感じた、あの感覚と同じだ。
「……私は、これを使う。でも」
分体を直視しないまま、言い聞かせる。
「好きにならなくていい。慣れなくていい」
役に立てば、それでいい。
感情まで折り合いをつける必要はない。
そう思わなければ、きっと壊れる。
頭の奥で、かすかに愉快そうな気配が揺れた。
『合理的だ。嫌悪しながら使うのも、一つの選択だ』
「……褒められてないわよね、それ」
『それも正しい』
淡々とした声。
ヤトは小さく息を吐き、布をかけて分体を覆った。
それ以上、今夜は見ないと決める。
夜が明けきる前、ヤトは廃屋を出た。
市場が本格的に動き出す前の時間帯。
露店の準備音と眠そうな商人の声が交じり合う。
水と塩は、直接売れない。
それは、昨夜のうちに結論が出ていた。
質が良すぎる。
目立つ。
身分証もない。
だから、形を変える。
ヤトは市場の端、簡素な屋台に近づいた。
火と鍋だけの、貧相な店だ。
「……余ってる食材、ある?」
声をかけると、店主は一瞬訝しげにヤトを見たが肩をすくめた。
「干し肉と、芋だけだ。金は?」
「それでいい。調理するので売って。まずは味見してからでいい」
怪訝そうな視線。
だが、人手不足の早朝、断る理由もない。
ヤトは水を使い、塩をひとつまみだけ落とす。
じゅ……
鍋から立ち上る湯気に、いつもの潮臭さがない。
「……匂い、違うな」
店主がぼそりと呟く。
出来上がった汁物は、素朴だが、はっきりと味が立っていた。
雑味がなく、舌に残らない。
「……なんだ、これ」
「水と塩が、ちゃんとしてるだけ」
ヤトはそう答える。
通りかかった客が足を止め、匂いにつられて金を出す。
量は少ない。
だが、確実に捌けていく。
直接売らない。
形を変える。
目立たず、確実に。
わずかな硬貨が手の中に増えていく。
生きるための金。
次の夜を越えるための糧。
ヤトは市場の喧騒から一歩引き、静かにそれを数えた。
「……これで、いい」
大きく稼ぐ必要はない。
今は、追われず、生き延びることが最優先だ。
視線を上げると、街の外壁が朝日に照らされている。
――いずれ、ここも出る。
その時まで。
この町は、ただの通過点。
ヤトはそう心に刻み、再び人の流れに紛れた。
武器屋を出てからヤトはしばらく無言で歩いた。
気づけば町外れ、外壁の影が砂に長く伸びている。
胸の奥が冷たい。
武器。旅。砂漠。
どれも理解しているはずなのに、現実味だけが抜け落ちていた。
足を止め、砂を一度、強く踏みしめる。
軽い。頼りない。
――無理だ。
振り方も知らない刃物を持って、何ができる。
一瞬の判断、一歩の遅れで終わる場所に、自分は立てない。
頭の奥で、淡々とした声がそれを裏づける。
『戦闘に適さない』
否定の余地がない評価だった。
ヤトは息を吐き、目を閉じる。
思い浮かぶのは、あの夜の光景だ。
海水が、水と塩に分かれた瞬間。
自分の体から切り出された、役に立つ異物。
便利で、気持ちが悪い。
けれど――生きるには、必要だった。
ヤトはしゃがみ込み、地面に手をついた。
砂はまだ昼の熱を残している。
「……戦わない方法が、要る」
口に出した瞬間、胸の奥がひくりと引きつった。
逃げだと思う自分が、はっきりといる。
でも――
刃を持って前に出る自分を想像すると、胃の奥が、もっと強く縮んだ。
自分が刃を振るわない形。
判断に迷う前に、攻撃的な守りとなるもの…
任せるしかない。
弱いまま生きるために。
その夜、廃屋に戻ると、ヤトは最低限の準備だけをした。
地下から汲み上げた海水。
分体を呼び出し、吸収できるだけしてと簡単な命令だけを与える。
狙いは一つ。
――止めること。
殺さない。
壊しすぎない。
相手の動きを奪うだけ。
水分を圧縮し、瞬間的に放つ。
関節、足元、武器を持つ腕。
狙うのは、逃げるための隙だ。
威力は分からない。
調整する知識もない。
ただ、殺傷性が高すぎるのは避けたかった。
水は有限なので使えば減る。
それだけは、はっきりしている。
もし尽きれば――
周囲の砂や別の素材を使うことも、理屈では可能なのだろう。
だが、そこまで考える余裕はない。
今は、まだ。
「……これでいい」
そう言い聞かせるように呟き、分体が糸状に体を這う様に纏う。
脈打つ気配が、わずかに伝わってくる。
嫌悪は消えず、慣れる気もない。
それでも、使う。
生きたいから。
翌日から、ヤトは旅の準備を進めた。
表向きは、ただの荷造りだ。
けれど、すでに一つの歪な仕組みが動き始めている。
無制限でも万能でもないが使える。
水が尽きれば、終わる。
判断を誤れば、命に届く。
やがて――
その限界がくるときがあるのだろう。
いつか、止めるつもりの攻撃が、取り返しのつかない結果を生むことがあることも。




