第2話
二人は最寄りのバス停からバスに乗り三十分ほど揺られる。バスを降りた後は、そこから更に十分ほど歩いた。道中、香織は無言。旭も自分から口を開くことはしなかった。
「着いたよ」
香織が足を止めたのは、一件の家の前。
「……田村さん、ここは……」
「久しぶりに来たけど、全然変わってないね」
この家は、かつて篠津川家が住んでいた場所。コンクリート製の塀には、スプレーで書かれた誹謗中傷の文字が一部残っていた。
香織はしばらく家を見つめたまま、ぼつりと呟く。
「……この家に来たのは八年ぶり。お兄ちゃんが逮捕された後、この家をね、大勢のマスコミが取り囲んだ」
「……」
「本当にひどかったよ。朝から晩まで居座って、何度もチャイムを鳴らして。私達が寝ようと電気を消すと、ライトで家の中を照らしてさ。終いには、息子さんが大勢の子供を殺害したのに、あなた方はよく寝れますねって外から言われたよ。私達は寝ることすら許されないのかって、頭にきちゃった」
旭は香織の体験談を、ただ黙って聞いていた。何も言うことができなかった。
香織は言葉を続ける。
「私達は必死にマスコミに訴えた。お兄ちゃんはテロなんて卑劣なことはしない。何かの間違いだ、誰かに嵌められたんだって。だけど、彼らは私達の言葉に聞く耳を持ってくれない。無視するか、変に脚色して報道した。それでもお父さんは、お兄ちゃんの無実をマスコミに伝えようとしていた。だけど、それも無駄だった」
ある日、父親がいつものように達也の潔癖を報道陣に訴えていると、一人の男性レポーターが「もういいですよ、そういうの」と気だるげに言葉を遮った。
戸惑う父親に対し、男性レポーターは続ける。
「別にあなたの息子さんが無実なのかなんて、どうでもいいんですよ。世間はテロの容疑がかかっている息子さん自身に興味があり、息子さんと家族であるあなた方のことを知りたいんです。そして、我々はその興味関心に応えているだけ。何か面白い話とかありませんかね? もし望むなら、謝礼もお支払いしますよ。色々と大変でしょう?」
その言葉に父親は激昂。「貴様、ふざけるな! このゴミどもが!」とレポーターに掴みかかった。
すると、待ってましたと言わんばかりにフラッシュが焚かれ、カメラを向けられた。その異様な光景に唖然とする父親に対し、男性レポーターは「良い絵面、ありがとうございます」と恥ずかしげもなく言い放ったのだという。
「マスコミと世間のバッシングに耐えられなかった私達はこの家から逃げ出して、親戚の家を転々としたの。批判に怯えながら。……しばらくバッシングが続いていたけど、裁判でお兄ちゃんの有罪が確定すると、ぱったりと止んだ。マスコミの取材も、人々からの嫌がらせも。多分、飽きたんだろうね。裁判で結果が出たから、もう興味はないって。別の事件の方に皆、いっちゃった」
「……」
無言を貫く旭に、香織は振り向いた。
「お兄ちゃんの裁判が終わった後も、私達はこの家に戻ってこなかった。なんでだと思う?」
「……いえ、自分には、ちょっとわかりかねます」
「怖かったの」
「怖かった?」
「うん。お兄ちゃんの有罪が確定した後も、本来私達は戦わなくちゃいけなかった。家族の無実を証明するために。……だけど、私達はそうしなかった。周りからの批判に耐えられず、逃げ出した。これ以上、攻撃されたくないって。この家に帰ってこなかったのは、お兄ちゃんのことを思い出して、罪悪感に苛まれるから」
旭は、香織達のことを薄情者とは言えない。当時香織達が受けていたバッシングは酷いものであり、思わず逃げ出したくなるのも無理はない。もし、旭が彼女達と同じ立場だったら、戦いを続けられていたかどうか。
香織の肩が微かに震えていることに、旭は気がついた。
「怖いと思う一方、私はこの家に戻りたかった。家族が幸せに暮らしていたこの家に。私達の思い出の場所が今どうなっているかって、自分の目で確かめたかった。……でも、一人じゃ来る勇気がなくて。だから、旭くんについてきてもらったの。……迷惑だったかな?」
「いえ、そんなことありませんよ。気にしないでください」
香織は少しの間黙った後、旭を上目遣いで見てくる。その瞳は不安げに揺れていた。
「お兄ちゃん、私達のこと恨んでるかな? 恨んでいるよね? だって逃げたんだから。今回のことは、私達に見切りをつけたからなんだよ。私達家族は助けてくれない。だから、自分で自分の無実を証明するため、あのリベルタスという人達と手を組んだんだ」
旭は香織の言葉を、間髪入れずに否定する。
「違います。それは違いますよ。達也さんはあなた方を恨んでいないと思います。あの動画でも言っていたじゃないですか、家族のために脱走したと。達也さんも悪いことだと重々わかっていた。その彼が自身の潔白を証明し、家族を守るために脱走したんです。家族思いの彼が、恨んでいるわけありませんよ」
「だけど……」
「なら、直接聞きましょう」
「直接?」
旭は「はい」と頷く。
「想像でモノを言っていても、何の意味もありません。達也さんの真意を確かめるには、彼に会って直接聞くしかない。あなたから受けた依頼はまだ継続中です。俺が達也さんの居場所を見つける、今回の事件の真相を解き明かす。それでどうでしょうか?」
香織はしばしの間、目を瞑り無言となる。
やがて開いた彼女の瞳には、強い意思が、覚悟が見て取れた。
「うん、わかった。そうだね。いつまでも逃げるわけにはいかない。お兄ちゃんに会って確かめるよ。そして、逃げたことを謝る。だから、旭くん、お願い。お兄ちゃんを見つけて、私達と会わせてほしい」
「もちろんです。お受けした依頼、必ず達成することをこの場で再度誓います」
旭は堂々と啖呵を切って見せた。
達也の居場所も、彼の無実の証拠も、彼の真意もまだわかっていない状況だ。
この状況で依頼の達成を約束するのは、無責任だと旭は我ながら思う。
だけど、旭は今までも逆境を跳ね除けてきた。諦めずに足掻くことで、物事を解決してきた。
なら、今回もだ。
今回もがむしゃらに頑張れば、なんとかなるはずだ。できるはずだ。
香織は旭の言葉を聞いて、「……ありがとう」と涙ながらに礼を言う。
「私ね、旭くんのこと誤解してた」
「誤解?」
「うん。旭くんはすごい真面目なんだけど、融通が利かなくて冷血漢で、淡泊な人だと思ってた。だけど、本当は違ったね。私達のために熱くなって、約束してくれた」
先日の万引きの対応等、旭の今までの言動から、香織は旭のことをそう思っていたのだろう。その事実には、旭は内心ショックを受ける。
旭が反応に困っていると、香織は踵を返す。
「そろそろ帰ろっか?」
「ええ。そうしましょう」
日は大分傾き、世界はオレンジ色に染まりつつある。これ以上暗くなる前に帰った方が良いと、旭達は駅に向かって歩き出そうとした。
「君達、ちょっといいかな?」
後ろからの男の声で、旭達は足を止めた。
振り向くと、そこには一人の男。四十代ぐらいの中年男性で、顎に無精髭を生やしていた。格好はハンチング帽にブカブカのコートと、どことなく野暮ったい。
その男は粘着質な笑みを浮かべており、胡散臭い人間と一目でわかる。
「……なんでしょう?」
旭は香織を自分の後ろに下がらせる。警戒心むき出しの旭に、男は苦笑。
「いや、僕はね、こういう者なんだ」
旭は男が出した名刺を受け取る。名刺には、男と彼が所属している出版社の名前が書かれていた。
出版社の名前は、旭もよく知っている。悪い意味で。
この出版社は、芸能人のスキャンダルや政治家の汚職などを専門に扱っているのだが、誤報や確証のない記事を載せると悪名高い。
露骨に眉を顰める旭を無視し、男は香織に話しかける。
「そっちの女の子、篠津川香織さんだよね? 達也君の妹の。ああ、今は離婚して苗字変わったのか。そっちの君は、彼氏君? 今時間ある? ちょっと達也君のことで、話を聞かせてもらっていい?」
旭が香織の様子を伺うと、彼女は青白い顔をしていた。旭の服の袖を握っており、その指はひどく震えている。
彼女は思い出してしまったのだ。自身のトラウマを。マスコミにバッシングされ、苦しい思いをしていた頃を。
今にも倒れそうな香織を不憫に思った旭は、男に向かって「お断りします」と代わりに回答。
だが、男は尚も食い下がる。
「えー、なんで? ちょっとぐらい、いいじゃん」
「急いでいるので。では、我々はこれで失礼します」
旭は香織の手を引き、この場を足早に去ろうとする。
これ以上、この男と話をするのは香織の精神衛生上よろしくない。
しかし、男は旭達の前で体を広げ進路を塞ぐ。
香織は絶好の取材対象。男としても簡単に逃すわけにはいかない。
「そんなこと言わずにさ、ちょっと協力してよ」
「お断りする!」
旭は険しい目で睨むが、男はどこ吹く風。相手からの威圧に、慣れているのだろう。
「どうしたら、取材を受けてくれるの? もしかして、お金? あんまり多くないけど、出すよ」
「金だと? あなた、いい加減にしてくださいよ!」
旭はつい声を荒げる。だが、男はへらへらと笑うだけ。
「世間はね、達也君のことを知りたがっている。彼が注目されているから。世間の知りたいという願望に応えるのが、我々記者の役目だ。お願いだよ、取材受けてくれないかな」
世間の知る権利を大義名分に、嫌がる香織に付き纏う男。
旭は同じマスコミである加奈恵を思い出す。
加奈恵も少々強引なところはある。だが、彼女は常に取材相手を尊重し、相手の嫌がることは決してしなかった。旭は今までの任務で様々なメディア関係者と会ってきた。その中でも、目の前の男は間違いなく一番嫌いな人間だ。
この男は一体どうするべきか。無視して帰ろうか。いや、男の性格からして、旭達の後ろをついてくるはず。そうなれば今の香織の住居がバレて、マスコミが押し寄せる。
旭が男の対処に頭を悩ませていると、若い男性の声が聞こえてきた。
「こっちです。お巡りさん! 子供が怪しい男に絡まれています!」
どうやら旭達のやりとりを目撃した人物が、警察に通報したようだ。
流石に警察はまずいと思ったのか、男は「じゃあ、俺はこれで」と言い残し、急いで走り去る。
逃げた男と入れ替わる様に、帽子を被った若い男性が旭達に駆け寄ってきた。深く被った帽子のせいで男性の顔は見ることができない。
「君達、あの男に絡まれていたみたいだけど、大丈夫かい?」
心配そうに尋ねる男性に対し、旭は「大丈夫です」と答える。
「そっか。それなら良かったよ」
「助けていただき、ありがとうございました。警察も呼んでくれたんですね?」
「ああ、警察はハッタリだよ、ハッタリ。警察が来ると思わせれば、あの男は逃げるかなって。読みは見事に当たったね。一目散に逃げていったよ。あははは」
勝ち誇った男性の笑い声につられ、旭と香織もつい笑ってしまった。
「それで君達、どうする? あの男がまだ近くにいるかもしれない。俺が君達の自宅まで送ろうか? 近くに俺の車があるから」
男性の申し出は、旭にとってありがたい。だが、初対面の人間に、そこまで面倒をかけられない。
旭は断ろうとしたが、香織が先に口を開く。
「いえ、大丈夫です。あなたにこれ以上、迷惑をかけることはできません。それに頼れる彼がいるので、問題ないです。ね? 旭くん?」
香織はとびきりの笑顔を旭に向け、自分の腕を旭の腕に絡める。旭は腕に伝わる柔らかい感触が気になったが、なるべく平静を装う。
男性は二人の様子を見て、愉快そうに笑い声を上げた。
「そっか、そっか。優秀なナイトがいるんだね。いやー、余計なお世話だったか。じゃあ、お姫様の護衛は、ナイト君に任せようか。……ただ、危険を感じたら警察に通報するなり、周りの人間に助けを求めるように。わかったかい?」
旭と香織の返事を聞き、男性は満足そうに頷く。
「じゃあ、俺はこれで。……旭くん、香織ちゃん。気をつけて帰りなさい」
男性はそう言い、手を振りながら去っていった。
あれ、あの男性、田村さんの名前を……。
男性に対し旭は小さな違和感を感じたが、香織に腕を引っ張られたことで思考を中断。
「さあ、旭くん帰ろう。道中のエスコートお願いね、私のナイト君」
「はい、お嬢様」
冗談めいた香織の言葉に、旭もおふざけで返す。
そのやりとりに、二人は顔を見合わせて吹き出した。




