枯れ井戸
その昔、井戸として使われていた昭和中期...
その愛人は、真っ赤な口紅が特徴的で艶の有る長い黒髪を自慢に思っていた。妻子ある男に振り向いて貰う為、男の好きな黒髪ロングでワンピースを着て逢っていたらしい。男と喫茶店で会った時に'昭和初期の懐かしい楽曲を流します'と店内に張り紙がされており、(懐かしい)と思いながら聴いていた。次の楽曲「旅の夜風」のレコードがかかり始めており、[花も嵐も 踏み越えて〜]と霧島昇の歌声が棘のように心に響いて嫌な予感がした。
ある日、妻子居る男の不倫が奥さんにバレたらしく、愛人が男家族に嫌がらせを始めた。話し合いを持つ為に20時くらいにお互いの家の真ん中となる井戸で待ち合わせをした。話し合う最中に口論になり、愛人を井戸に落として殺したらしい。明朝、男は、警察に出頭。愛人は、翌日に遺体となって発見され、井戸から引き上げられた。男の妻も不倫を知った流れや愛人からの嫌がらせを証言し、「気持ち的には、複雑です。とりあえず離婚に向けて準備しなきゃ...でも、一度愛した人だから、しっかりと裁かれて更生して欲しいという思いは、有ります。」初犯で翌日には、出頭して来た事や愛人から'嫌がらせ'や'口論になった'面から考えれば男は上々の酌量の余地を狙えなくは無い。でも、愛人は、亡くなっている。男は、1年の禁錮刑となったが、模範囚として過ごして刑が4ヶ月短くなった。
水を断ち、井戸として使われなくなった昭和後期には、天板を金網と針金で止めて事件や事故で落ちる人が居ないようにした。しかし、井戸を枯らしたはずなのに暗くなって来ると中から'ピチャピチャ'と水が滴る音がして、血生臭い匂いが漂って来る時が有るらしい。そう言う時は、「旅の夜風」のワンフレーズを口ずさむと良いと小さい頃から言われていたのに並木 博は、そんな都市伝説を忘れていた。
子ども2人も育ち、手を離れた60代手前の夫婦並木 博と清美が週末田舎の暮らしを目指して、ど田舎の実家から30分の場所に家を借りた。愛犬ラブラドールのカイルも一緒に連れて行く事にした。
カイルとの散歩は、環境が変わっても夏場は、暑さの関係で20時くらいに30分と決めている。週末田舎でも変わらず散歩に行きたいようでカイルは、リードを持って来た。30分のコースの中盤くらいに井戸が有り、井戸が見えるとカイルが興奮し始め吠え続けて動かなかった。「こんな井戸有ったっけ?」と考え込んでいたら、'ピチャピチャ'と聞こえて来た。不気味に感じ、カイルを抱えて数十m離れると博もカイルも落ち着いた。帰って早々にネットで調べたら、この地域に伝わる都市伝説らしい。なんか色々思い出して来た。いつの間にか'花も嵐も 踏み越えて'と「旅の夜風」を口ずさみ、清美が驚いた顔をしていた。それを嫁の清美に話したら、「何それ?私が散歩行く場合も有るかも知れないから、調べたいわ。明日の夜は、一緒に散歩に行って良い?」と言って来た。
2人と1匹で清美がカメラを回し、昨日と同じ井戸の近くまで来たら、カイルがソワソワし出した。落ち着きが無く興奮し、井戸に向かって吠え続けけた。カメラマンの清美は、井戸とカイルが入るように考えながら動画を回している。「カイルの体力が持たないから、もう戻ろ?」と博は抱えた。その時、ピチャピチャと水音がした。「またこの音だ...」と博。清美が思い出したように「あの曲、何だっけ?'花も嵐も〜'で始まる曲、昨日歌っていたじゃない!」と言う。博が「あー『旅の夜風』な!花も嵐も〜」と口ずさみながら帰って来た。家に帰って来ると一気に疲れて、2人共早々に寝た...はずだった。夜中0時、いきなりカイルが'ウォーン'と遠吠えをし、静かになった。清美を起こして見に行くと、カイルが玄関前で失神していた。田舎の動物病院は、平日昼間しかやっていない。今から帰り、24時間年中無休動物病院にかかる事にした。数時間運転し、病院に着いて診て貰ったら、緊急手術が決まった。手術は、成功し、麻酔から醒めたカイルは、眠そうに欠伸をした。先生から「手術でカイル君の腸内から白玉サイズの黒く長い髪が丸まった物を採取しました。5日間入院し、経過観察しつつ、明日から柔らかくした餌に薬を混ぜてご飯始めます。」と報告を受けた。カイルの大腸に有った現物を見せて貰ったら、井戸から漂う血生臭い匂いと一緒の匂いもした。