4-4. リブラリスの誓約
戻ってきたリブラリスと合流した俺たちは、ほんの一時の休息の後にハルヴェルンへ向かって出発した。ガレッサと鱗馬なら、ここから二日もあれば到着する。こいつらは普通の馬のようには疲労しないのだ。だから俺たちはほとんど朝から日暮れまで走り続けることができた。
「ボーラの街はどうなっていた?」
眠りは必要ないからと火の見張りを買って出てくれたリブラリスと斜向かいに座った俺は、その陶器のような顔を見た。リブラリスは静かに短く尋ねてくる。
「皆は?」
「寝てるさ」
「そう、か」
頷いたリブラリスは声を抑えてボーラの様子を教えてくれた。
「多少の襲撃はあったようだが、私が着いた時にはもう落ち着いていた。鬼人どもの姿もなかったな」
「そうか」
少し安心した。あの娘が生きて帰ったことが何らかの希望になれば良いが。
「そうはならないさ」
リブラリスは俺を見て呟いた。
「大勢死んだんだ。家族や愛する者を失った人は、そうではない人に多かれ少なかれ負の感情を抱くもの。手放しに喜んだり同情したりはしないものだ」
「それは、そうだな」
「生き残った人は一生、失った人の年齢を数えて生きていく。笑うことに罪悪感を覚え、泣くことでどうにか命をつなぎ、そうやって日々足を引きずりながら生きていくものだ」
「お前は悪竜だったよな」
「ああ」
リブラリスは俺を見る。深く、暗く、恐ろしい目をしていた。
「私が奪った命は数万、いや、数十万。悲鳴や絶叫、悲嘆の涙、怨嗟の声こそが、私の生きる糧だった。だから、人の醜さはよく知っている」
「醜さ……」
「だがね」
リブラリスは首を振る。
「私はそれと同時に人の強かさもよく知っている。どんなに潰されても、人々は立ち上がった。どんなに苦しくても人々は立ち直った。どれほど啀み合おうと、どれほど憎み合おうと、人々は大きな悲しみを前にすると、大きな絶望を前にすると、何故か手に手を取って立ち向かう。私は、そんな人々が恐ろしくて」
「ますます破壊の限りを尽くした、と」
「そんなところだ。だから」
リブラリスは枯れ木を火に放り込む。ぱちりと音を立てて爆ぜた。
「リュシエラが私を倒してくれた時は、正直ホッとしたよ。私は彼女の隷魔になった」
「隷魔、に?」
「ああ。私は本質は悪魔に近いから、そんなことはわけもないことだった。問題はその命令だ」
「王国を守れ、だったか」
「そうだ。千年の時を経て、それは効果を発揮した」
「龍樹の大瀑布をゼルデビットが破壊した時に封印が解けた」
ミシェが起きてきてそう言った。リブラリスは頷いた。
「それが二十年前だ。そこから私はこの本体を覚醒させた。それが完了したのがつい先日だ。お前の師匠に剣を教えたときのように、思念体ならばいくらでも動かせたが、この本体を動かすのにそこまで時間がかかってしまった。すまない、ギャレス」
「どうして謝る」
「王国を守れという命令を受けていたのに、守れなかった。私の本体があと少し早く目覚めていれば。まぁ、それで半ば自棄になっていたのだがな」
「お前に責任はないさ」
俺はリブラリスの顔から目を逸らす。焚き火の赤が強烈に目を焼いた。
「それに俺たちにはまだファイランがいる」
「間違いなく王家の血は引いているが、それだけだぞ」
「俺もまた、女王の命令に縛られているのかもしれない」
「……騎士とはそういうものかもしれんよ」
「難儀なものだ」
俺は頭を掻いた。俺の向かい側に座っているミシェが、枯れ木をぽいぽいと焚き火に投げ入れていた。
「ゼルデビットがアタシたちの故郷を破壊してくれたおかげで、アタシたちは今、強力な味方を手に入れた。アタシは今そう考えている。奴への憎しみは消えないけど、それだけじゃ終われないと思っていた」
「ミシェ……」
「悪いことばかりでもない、か。私が今もまだ太古の性質であったなら、それどころではなかったと思うが」
「今のあんたは悪いやつじゃない。それでいいじゃん」
「エルフにしては割り切りがいいのだな」
「この二十年で人間に感化されたのかもね」
ミシェは炎に焼かれて落ちていく蛾を見送りながら、ふぅと息を吐いた。
「アタシの生きてきた時間の一割にも満たない人間との生活だったけど、正直刺激的だよね、人間社会。ものごとのスピードがめちゃくちゃ速いし」
「そうだな」
リブラリスは頷く。俺は……生まれたときから人間社会にいたからよくわからない。
「人間は脆い。それゆえ狡猾にも傲慢にもなる。女王リュシエラの描いた王国はまだ実現できていない、が」
「でも千年続いた人間の王国なんて後にも先にもないだろうさ」
ミシェがどことなく感慨深げに言った。リブラリスも頷く。
「千年王国、か。リュシエラは千年続く王国を作ると言っていたな」
「それは実現できてんじゃん。すごいね」
ミシェは若草色の目を輝かせて言った。リブラリスは空を見上げて「ああ」と吐息混じりに言った。
「でも、千年で終わらせるにはあまりにも惜しい」
「同感だ」
「だがな、獣人。ファイランとシエルグリタは別人だ」
「それは、わかってる」
「ファイランにシエルグリタの人生の続きを歩ませようなどとは思うなよ」
リブラリスの鋭い声が俺を抉る。
「そうだよ、ギャレス。あの子は、あの子だ。王国が続くかどうかは、あの子次第。どんな未来を描くのかも、アタシたち外野の決めることじゃない。あんたがファイランにシエルグリタ女王の影を見るのは勝手だけど、だからといって同一視しちゃいけないよ」
「ああ」
そうだよな。俺は思う。
そもそも、シエルは他の誰にも代えられない。俺にとってはたとえ外見がどれほど似た人物が現れようと、シエルはあのシエル以外にいない。俺が壊した、あの女王以外には。
「まぁ、この男はそのくらいわきまえてるさ」
ミシェはそう言って立ち上がった。
「もう一眠りしてくる。ギャレスも無理するんじゃないよ」
「わかった。ありがとう」
俺はその背に手を振って、またリブラリスに向き直った。
「一つ訊いてみたいんだが」
「なんだ、獣人」
「お前、死ぬ事に恐怖を覚えたりするのか?」
「死?」
リブラリスはそう言うとしばらく黙った。
「私に死を意識させたのはリュシエラ女王以外にいない。だが、あの時は不思議な気持ちだった」
「不思議な?」
「ああ。やっと終われる。やっと悪夢から解き放たれる。終わりのない恐怖から逃げることができる……そんな気持ちだ」
「人々が恐ろしかったってさっき言ってたもんな」
「ああ。私はそれ以上に、罪の意識とやらに苛まれていたのかもしれない」
「悪竜が?」
「そうだ、悪竜が、だ」
リブラリスは頷くと、小さな蛾を目で追った。それは案の定、焚火の輝きに燃えて消えた。
「だから、私は死を恐れてはいない。ただ、そうだな。命令を成し遂げられていないことだけは、純粋に悔しいか」
「新たな命令を得ることは?」
「誰からだ」
憮然とした声のリブラリスに、俺は「例えばファイラン?」と言ってみる。
「隷魔は互いを縛る誓約の関係。おいそれと結ぶものではない」
「というか、そもそも主人が死んでも命令は有効なのか?」
「……いや」
「だったらお前、自由なんじゃ」
「だからこそ、縋りたかったんだ。リュシエラの願いに」
リブラリスの瞳の中に、俺は深い悲しみを見た気がした。
「リュシエラは、私にとっての世界だったんだ。お前にとってのシエルグリタと同じように、な」
「そう、か」
俺は息を吐いて、揺れる炎をじっと見た。




